見知らぬ砦で、誰かが誰かを追っている。そういうことしか理解できなかった。
だがこの場所は、はじめてこの世界へ来たときのようなまったく知らない世界というわけではなかった。
なぜなら、ミトの眼下にはルシタニアの兵装をした者たちがひしめき合っていたからだ。
そして彼らは誰かを追っていた。ミトではなく、別の誰か。

「どうしてこんなことに」

ミトは窓の内側に身を隠しながら、様子を伺っていた。
先ほど「いたぞ!捕らえろ!」と叫んだ一団は、ミトのいる建物ではなく隣の塔のようなところへ雪崩れ込んでいった。それはルシタニア語だったから、ルシタニア側が誰かを追い詰めていることはわかった。
追われているのは誰だろう。

「いや、それよりなんなんだこれは」

ミトは頭を抱えて壁に背を預けた。
さっきまで、確かに自分たちもルシタニア兵に追いつめられていた。だが今は、ミトはひとりきりで、見知らぬ風景に囲まれていた。

「……イリーナさま、メルレイン……どうしたかな」

ミトが体を張ってまで助けたかった姫も、ここにはいなかった。
急に心細くなって、思わず泣きそうになる。
はじめてこういう体験をしたときは、ナルサスが助けてくれたけれど、彼だってそう何度も都合よく駆け付けてくれるわけではない。
呆然としながらも考えをめぐらせていると、先ほどルシタニア兵たちが乗り込んでいった塔の方角から、わっと不吉な歓声があがった。

「え……?」

嫌な予感がして身を乗り出したミトは、その光景に息をのんだ。
やわらかい髪をした少女が、足を引きずりながら、高い塔の上に立っていた。武器も手にせず、非常に穏やかな表情をして、地上を見下ろしている。
肌がざわついた。その少女の顔を、ミトはどこかで見たことがあるような気がしたのだ。
少女の開かれた瞳を見た一瞬、ルシタニア兵の怒鳴り声が聞こえなくなる。

「あれは……まさか」

ミトの頭の中でなにかがまとまりそうになったとき、今度は「こっちにもいたぞ!」という大声が耳に響いた。
視線を向けると、塔の裏手へまわるように、逃げていく集団が見えた。
彼らの服装を目にした瞬間、ミトの心臓が、大きく跳ねた。だって、あれは――

「マルヤムの……あれは、イリーナさまの従者の……!」

それは、先ほどまで、先ほどいた場所まで、ミトとともに旅をしていた人たちだった。
ミトは眩暈がして頭を抱えた。見間違えるはずがない。ほんの先ほどまで一緒にいたのだから。

「ということは、まさかイリーナさまもあそこに!?」

ミトは窓から身を乗り出したが、彼女の姿は見えなかった。では塔の上の少女は、と視線を戻したとき、ミトはあることを思い出した。

女官長のジョヴァンナが、ミトたちと出会って最初に説明してくれたことだ。
「混乱のなか、妹のイリーナ姫を船に乗せて脱出させると、姉のミリッツァ姫は塔から身を投げられました。そして五日にわたる船旅の末、ようやくこの地に着きました」と。
確かマルヤム軍の中に内通者が出て、ルシタニア軍に城を陥落させられてしまったとか。

「う、嘘でしょ……」

だらりと力が抜けた。ミトは苦し紛れに笑いを浮かべる。
偶然にしては、ジョヴァンナの話と一致しすぎていた。

「ここは、過去……?」

状況から、そうとしか考えられなかった。
ここは、ダイラム地方へイリーナたちが流れ着く五日前の場面なのだ。
まったく根拠もなく、非論理的な体験。しかしこれがありえないだなんて言ったら、自分がこの世界にいることの方がよほどありえない。どういう理屈でこの砦へ来てしまったのか説明できるとしたら、自分がこの世界に現れた現象も説明がつかねばおかしいのだ。
しかし、とにかくここが本当に過去であるとしたならば、もしミトがここにいるルシタニア兵を手にかけたりしたら、その人は未来から姿を消すのだろうか。
それとも歴史を変更したミトが消えるのか。

「でも、どうしてこんな……」

イリーナを助けたいと願ったから、ここへ来たのか?とミトの頭にひとつの考えが過った。
そうだとするならば、今この瞬間にイリーナが危機に瀕しているのは、偶然ではないのかもしれない、という思いも同時にめぐる。

「とりあえず、イリーナさまの様子を見に……」

急に不安に駆られ、ミトが動き出そうとしたときだった。
逃げていたマルヤム人たちの群れから悲鳴があがった。後方にいた者の背に矢が刺さったようなのだ。その者を置いて、マルヤム人たちは一目散に入り江へ走る。
ミトが見たこともないくらいに凄惨な光景だった。

そしてミトは、今日何度目かになる、心臓が潰れそうになる感覚を味わった。
見紛うはずもない。イリーナが、その集団の中にいたのだ。女官に手をひかれ、転げそうになりながら、必死で走っていた。

「……そっか。ここでイリーナさまを逃がせなきゃ、未来のイリーナさまは存在しないし、未来で私が守るどころじゃなくなるってことか。なら、今、過去のイリーナさまを救えば、未来のイリーナさまも助けられる……?」

ぽつり、と自分に言い聞かせるように呟いた。
過去の世界でも、自分を守護する力はあるのか?だがそんなことを確かめている余裕はなかった。誰かの未来が潰えてしまいかけているのだから。
ミトは見晴らしのいい建物の屋上へ急いでよじ登り、眼下のルシタニア兵たちを見下ろすと、すうっと大きく息を吸い込んだ。
どうして自分がこんな運命を辿っているのかはわからない。でも、できることをしなければ。

「ここにも異教徒がいるわよ!!!!」

一瞬、戦場の空気が停止した。ルシタニア兵たちは驚いたように突然あらわれた少女を見上げ、逃げる人々もこちら振り返っていた。

「異教徒は根絶やしにするんでしょう!ルシタニアのみなさん!」

ミトはそれをマルヤム語で述べ、ルシタニア人の注意を引きつけたつもりだった。
だが、兵士たちはすぐにミトを無視してまたイリーナのいる集団を追いかけ、矢を射かける。

「お前はどこの誰だ、従者の生命に用はねえ。俺たちの狙いは姫さまの方だからな!」

ルシタニア兵たちは止まらず、狂乱した叫び声をあげて獲物を追いかける。ミトのことなど、数秒あとには誰も見ていなかった。女ひとりなど、いてもいなくても、変わらないといった様子で。

「……なら……!」

ミトはぎゅっと拳を握りしめた。
矢で兵を倒すのは簡単だが、もしも殺してしまったときに歴史がどうなってしまうかわからないこと、自分が彼らの標的になって逃げれば恐らくイリーナは脱出できるだろうということ、その後のことは考えても仕方がないということ。
そこまで思考が行き着いたとき、ミトは再び顔をあげた。

「馬鹿者ども!私を誰だと思っている!私こそ、マルヤム国王ニコラオス四世の三女。マルヤムの姫よ!!」

大声で叫ぶと、背負っていた矢筒から弓を取り出して番え、兵士の掲げるルシタニアの神旗をめがけて放った。
流星のように飛び、旗の中心を引き裂いたその矢に、どよめきが広がる。

「……そういえば、はじめてこの世界に来たときも、ルシタニアの旗を狙っちゃったんだっけ」

それで騒ぎになって、結局ナルサスに助けられたのだが、今は思い出を懐かしんでいる余裕はない。

「マルヤムの姫だと!?」
「狙え!あっちは一人だぞ!」

思惑通り、ルシタニア兵たちはこぞってミトに矢をあびせかけた。その間に、イリーナを連れたマルヤムの人々は塔の裏手にまわっていた。
しかし――

「ま、まさか、これのせいで私が『マルヤムの姫』だと勘違いされてた?確かに、私にそう言ってきた人たちはルシタニア兵だけだし、この戦いに参加していた人たちが私のことを覚えていたってことなら……」

剣で矢を払いながら逃げていたミトは、城の裏にある入り江から軍船が出るのを見てほっと胸を撫で下ろした。
沖へ出るまではしばらく攻撃が続くだろうが、これでもう五日後にはダイラムに着き、そこで彼らはミトたちに出会うのだ。

「よし。これで一安心……」

そう思ってから、ふと振り返ったミトの目に、塔の上から何かが降ってくるのが映った。
やわらかい髪が広がり、ぼろぼろの服が風にはためいている。

「や、やめ……」

ミトの心臓がじわじわと侵食されていく。
妹を逃がすと、塔から身を投げた姉。
その運命は、ミトの出現とは無関係に、ミトが伝え聞いた通りに時を刻んでいた。



心臓の苦痛が限界に達したとき、また、ミトの視界は見知らぬ光景で満たされていた。


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