「おぬしらの先頭に立つ御方は、ヒルメス王子とかいう人か」

ミトが止める間もなく、メルレインは言葉を投げかけていた。
すると瞬時に、パルスの騎馬隊から緊張と殺気に近い空気が沸き立つ。その雰囲気だけでも、只事でないのがわかる。

「きさまは何者だ。なぜそのような名を口にする?」

身体の大きな若者が吠えながら進み出てきた。彼は万騎長カーラーンの子ザンデであったが、ミトもメルレインもそんなことは知るはずもなかった。
じっと睨み合っていると、やがてザンデの後ろからゆっくりと騎馬が近付いてきた。
銀色の禍々しい仮面を付けた――ヒルメスだった。メルレインの鷹のような視力が、走り去る彼の横顔を捉えていたのだ。
ミトは反射的に彼から顔を背けた。

「こちらはマルヤムの皇女、イリーナ内親王という方の一行だ。ヒルメスというお方を探している。心当たりはないか」
「あ、あわわ……」

メルレインが彼をみつけるなりあまりにもあっさりと本題を口にしたので、ミトは馬上でひとり慌てていた。
ヒルメスは一瞬沈黙したものの、ひややかに「知らぬな」と答える。
彼はヒルメスに違いなかった。だから、彼がイリーナに正体を隠す理由がミトにはわからず、ちくりと胸が痛む。表情も見えないから、何を考えているのか見当もつかない。

「イリーナ姫と、一度顔を合わせてみればわかる。返事はそれからのことにしてくれ」
「知らぬと言っておる。どこの下民か知らぬが、指図がましい口をきくな」
「……」

ヒルメスらしい尊大な口調だったが、生まれを見下されて、メルレインが黙っていられるわけもなかった。唇をぐっと結び、思い切り睨みつける。
そしてそれはミトも同じだった。

「今の言葉、訂正してください。ヒルメス王子」
「……き、きさま、なぜここにいる」

思わず進み出ると、ようやくヒルメスはこちらに気付いたらしく、狼狽した声を出す。メルレインはミトに視線を戻した。

「なんだ、お前が一方的に知ってるだけだと思ったが、向こうも知っていたのか」
「まあ、本当にお互い存在を知っているだけの知り合いだよ」

空気が困惑へと変わった。ヒルメスに付き従っているらしいパルス騎士たちも、自分たちがどうしていればいいかまったくわからぬ状況のようだった。

「知り合いとはつれぬな。だがもう一度訊くぞ。なぜおぬしがここにいる。何をしている」
「……さがしものを。で、そのさがしもののうち一つはあなたでしたけど。イリーナ殿下をあなたに会わせるために、ここまで来たんだよ」
「世迷言を」

ヒルメスは鼻で笑う。身分のない人たちのことなんか歯牙にもかけていないんだろうな、と思わせるほど、彼がこちらを見るときの瞳は本当に王さま気取りで、暗く濁っていた。

「ミト、お前は自分が何者なのか知りたくはないか」
「……どういうこと?」

また、空気が変わった。唐突に話を変えられて、今度はミトたちが困惑する番だった。依然として、パルス騎士たちも居心地の悪そうな表情をしているのだが。

「俺はお前のことを知っている。お前は、この国、いや、少なくともこの大陸の者ではないのだろう」
「……!」

突然核心に触れられ、ミトは言葉を失った。
ナルサスからヒルメスに関わるなと言われた理由が真にわかったような気がする。やはり、彼のミトに対する狂気は、どこかおかしい。まったくでたらめではないようだから、余計に質が悪い。一体彼とミトの間にどんな繋がりがあるというのだろう。

「こんなところをうろついている暇があるのなら、俺と共に来い」
「え……?」
「俺ならば、お前にアンドラゴラスの小せがれの軍にいる時よりも、もっと多くのものを見せてやれる」

まただ。一体彼は何を言っているんだろう。彼はどうしてミトのことを知っているなんて言うのだろう。
自分のことも、彼のことも、わけがわからなかった。ただ、どんな言葉で誘われようとも、一緒には行けない、と感情が答えをはじき出す。

「……お、お断りします。いま私はアルスラーン殿下の軍から離れているけど、いつか戻ると決めていますから。それにあなたが私を誘う理由も見当がつかない」
「俺は、お前に借りがあるのだ。お前の身は俺が守ってやる。共に来い」
「え、借りって、何……?」

自分の知らないところで物語が進んでいく心地がして、ミトは力なく言葉を吐き出した。
ミトが一体いつ彼に借りなんてつくったのだろう。顔も知らない人に、どうして一緒に来いだなんて言われなくてはいけないのだろう。
混乱して身体に力が入らなかった。涙腺さえ緩んで、意図せず涙がはらりと落ちた。そのとき力いっぱい誰かに腕をひかれ、ミトは体勢をくずした。
だが身体は馬から落ちずに、肩を抱きとめられた。メルレインだった。

「黙って聞いていたが、ミトは連れていかせない。おぬしには渡さぬ」
「……何?」

メルレインとヒルメスの間で再びにらみ合いが始まった。ミトも含め、周囲の人々はどうしたらいいものかと困惑しきっていた。その時――

「ヒルメスさまではございませんか」

そよ風のように弱く優しい声が割り込んだ。
見ると、女官長に手をとられたイリーナ内親王が、よろめきながら、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
パルスの騎士たちはまたも、戸惑ったように彼女を見た。なんとこの場に似つかわしくない人が現れたことか、と。

「ヒルメスさまですね、そうでしょう?」

イリーナは感情の高ぶったようすで、やや声を高くした。ヒルメスはあくまでひややかに「何のことかわからぬな」と答えていたが、わずかな動揺は隠しきれていない。

「そのお声、十年前に、マルヤム国へ亡命なさっていたヒルメスさまのはずです。盲目の私に、花のこと、樹木のこと、鳥や空の雲のことを教えてくださった。やがて姿を消してしまい、私は涙が涸れるほど泣いたのです。覚えていらっしゃいませんか、ヒルメスさま」
「知らぬと言っている」

ヒルメスは振り払うように強く言い、イリーナに背を向ける。

「そのように気のやさしい男、この荒廃した乱世に生きていけるはずがない。どこかでのたれ死んでおろう。いずれにせよ、俺に関わりないことだ」

逃げるようにヒルメスは馬を歩かせ始めた。それに従うザンデたちも、馬首をめぐらせる。

「ありがとう、メルレイン」

いまだ肩を掴んだままだったメルレインを振り返ってミトが言うと、彼は妙にあわてた様子で顔をそむけると勢いよく手を離した。
ミトは「もう大丈夫」と言ってメルレインから離れ、去ろうとするヒルメスに急いで近付き馬を寄せた。

「ヒルメス、待ちなさい……」
「……どこで俺の名を知った?」

ヒルメスは止まらず、前を向いたままぼそりと訊く。ミトはその言葉を、「アンドラゴラスの小せがれどもは俺のことを知っているのか」という意味に変換した。

「……ナルサスから聞きました。彼はあなたのことを見抜いていたから」
「そうか、あのへぼ画家が」
「まあ、へぼいのは否定しないけど……」
「奴らは、エクバターナ奪還に向けて進軍しているそうだな」
「はい」
「いずれ潰されるだけであろうに」

穏やかではないことを言っているものの、ヒルメスの声に覇気はなく、珍しく情けなさげに肩を丸めていた。
イリーナは彼のことを正統な王位継承者とか真の王とかであると信じ込んでいたが、その根拠となっているのはヒルメス自身の言葉にちがいない、とミトは思っていた。
だから彼は、いまだに王位に付けず、ルシタニアともパルスとも相容れない自分が、彼女に会うわけにはいかないと思ったのではないか。

「本当にいいんですか、ヒルメス」
「……」
「イリーナ殿下はあなたに会いたくてここまで来たんです。マルヤムから逃れて、ダイラムに流れ着いて、それでようやく会えたのに」
「……では、おぬしに預ける」
「は?」

ミトは驚いて声をあげたが、それが止まる合図と勘違いしてミトの馬も足を止めた。

「必ずルシタニア人を一掃し、俺はパルスの玉座に座る。それまでイリーナどのをミトが守れと言ったのだ」
「な、何言ってるの……そもそも、ルシタニア人を連れてきたのはあなたなんでしょ……。パルスを今こんな無茶苦茶にした人が玉座になんて、誰が赦すと思って……」
「王都エクバターナはルシタニア軍の占領下にあるから、近づかぬことだ」
「いや、ちょっと待って、なんで私があなたの責任を押し付けられなくちゃいけないの、って、ヒルメス!」

ヒルメスは自分の言いたいことだけ伝えると、ミトの言葉にも耳を貸さず、馬のスピードを上げていた。
追いかける、という判断を下せなかったミトから、彼らはみるみるうちに遠ざかる。夕日に溶けていくように、霞んで、やがて見えなくなった。

残されたミトたちは、これからどうするかと思い悩まずにはいられなかった。
ヒルメスに会うという目的は達成できたが、そこまでだった。
彼を追いかけたくてもこのペースでは到底無理だし、王都に近付けば近付くほど危険も増す。

「さて、これからどうする?」

ヒルメスに拒絶されたイリーナの表情を見ることができないままだったが、一行に最初に問いを投げかけたのはメルレインだった。
いつまでもここに立ち止まっているわけにもいかなかった。

「アルスラーン殿下の軍に合流すべきだと思います」

ミトはすっと背筋を伸ばしてそう言った。女官長に手を握られたイリーナも、顔を上げる。

「ヒルメス王子は王都にいるでしょうが、やはりこれ以上近付くのは危険すぎます。アルスラーン殿下は必ずイリーナさまを迎えてくださいます。生きていれば、またヒルメス王子にも会うことができるでしょう。……それまでは、私がお守りしますから」

結局、ミトはヒルメスの頼みをきくことになった自分にやや感心した。ただ、イリーナの繊細な表情を見たら、彼に言われなくても、彼女の役に立ちたいと思ったにちがいなかった。



***



結局、一行は来た道を引き返すかたちで、東に進路をとった。日も落ちかけているから、今日はもうあまり進めない。

「しかし、また、ナルサスとやらか」
「え?」

いつの間にか馬を寄せてきたメルレインが、こちらを見もせずに訊いた。ヒルメスとの会話の中で名前が出たのを聞いていたらしい。

「それがあんたの恋人か?」
「……え?いやいや、えーと……」
「いや、恋人ではなかったな、すまぬ」

唐突な物言いに、ミトは一瞬思考が停止したが、それから思い当たる場面をいくつか思い出した結果「ま、まさか、この間の夜中にイリーナ殿下と話してたの聞いてた……!?」と口元をおおった。
メルレインは鼻で笑ってみせたが、めずらしく笑った顔がこれとはまた憎たらしいものだった。

「あんたが探してるのは、その軍師と関わりのあることか」
「……そうかもしれないというだけ」
「なんだそれは」
「変でしょ、私にもよくわからないんだよ」

ミトは俯いて自嘲した。
自分でももう何を探しているのかわからなくなってしまっていた。夢で見た景色を追ってダイラムへ行き、それでもわからなくて自分と繋がりがあるのではと感じたイリーナに同行したが、ヒルメスにまたわけのわからないことを言われただけだった。うまくいかない。

「……話だけなら聞くが」

心配するような声が落ちてきたので、ミトは思わず顔をあげた。

「べ、別にいいよ」
「聞いて欲しそうにしている」
「……む。メルレインに話すかどうか、少し考える」
「そうか」

意外にもやわらかい表情になって、メルレインはミトを追い抜いていった。


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