翌日ミトは気合を入れて宝石を背負い、旧領主邸の門の前で仁王立ちしていた。

昼前で人の往来はまばらだが、立派な建物を睨むように立っている若い女性を、みな可笑しそうに見ていた。怪しいなどと絡んでくる人はおらず、つくづく平和な街だなと思う。
人々はみなそれなりにまともな服装をして、気楽そうに歩いていた。かつてホディールの城で見かけた奴隷たちに重なる人間は見当たらない。

ナルサスが以前言っていたとおり、彼がダイラムで行った奴隷解放は失敗していた。
解放した奴隷たちは、ひとりの自由の民として生きるだけの技能も目的も持っていなかったので、その後八割がたが舞い戻ってきて同じ主人のところで働いていたという。
しかし見たところ、この地方には蔑み虐げられ自由を奪われた「奴隷」はいないようだった。彼の理想は完全には達成されなかったのかもしれないが、変革の一歩にはなった。いずれにせよ、誰もやらなかったことを実行したのだ。

街は穏やかに呼吸し、ルシタニアに侵攻されているのは同じ国ではなく遠い異国の地のことのように感じられる。
しかしそれは紛れも無く今まさに起きていることで、先日まではミトもその渦中にいて、そしてできるだけ早く戻らねばならない日常である。
ミトは心を決めて、門を叩き、家の者を呼んだ。



「宝石売りですか。あいにく主人は不在でして」

出てきたのは、白髪交じりの男性だった。この人もまた、穏やかな喋り方で、物腰が柔らかい。

「そうでしたか。では、よろしければ所蔵品を見せていただけませんか?ご趣味にあったものを献上させていただければと思いまして。私はこれから故郷に帰るので……この地方の領主さまへとぜひ贈り物をと……。好意です。本当に」

商売をするときの文句なんてミトは持ちあわせていなかったので、かなり苦しい。ただ家を覗きにきただけの人になってるなあ、と自分でも思い、背中を冷や汗が流れたが、男性はミトをあしらったりはせず、優しい目でじっと見つめていた。

「主人はしばらく戻りませんが」
「いいんです。戻られるまで、置いておいてください」
「……知っているかと思いますが、いつ戻るかわたくしどももまったくわかりません」
「いえ、もう少ししたら、戻られると思います」
「……?」

思わずそう口走ってしまうと、男性はやや不思議そうに目を丸くした。まるでナルサスのことを知っていて、つい最近にも会ったような口ぶりだったのだ。お世辞にも高い身分には見えない少女が、高貴な人と知り合いだなんておかしな話。

「あ、いえ……なんでもないです」
「……では、どうぞ。所蔵品だけと言わず、屋敷で他に見たいところがございましたら申し付けください」

しかし男性は軽く礼をすると、ミトにむかって微笑んだ。当惑するのはミトの方だった。どうしてこんな怪しい人物を家にいれる気になったのだろう。

「え……いいんですか?」
「ええ。ただならぬ縁をあなたに感じたものですから」
「縁?」

ミトは眉を寄せて首を傾げたが、男性は何も言わず穏やかに微笑む。

「そ、それなら……領主様……ナルサスさまが使っていたお部屋を見せてもらえませんか?」
「……」

男性が一瞬沈黙したので、ミトはさっと顔を赤らめた。自分はいきなり何を言っているんだろう。まるでナルサスのストーカーじゃないか。
それに、ただこの屋敷の門をくぐることが目的で、そのあとどうしようなんて考えたこともなかったのに、突然自分の口から「ナルサスの部屋」なんて言葉が出て、ミトは自分でも驚いていた。

「いや、すみません!やっぱり別の場所に……」
「いえ。お連れしましょう。あなたならば、ナルサスさまもお許しになるでしょうから」

予想外の返答に、ミトはきょとんとする。そして、どうして自分が、と考えたときにふと思い付いたのは昨日会った女性が言っていたこと。

「え?えーと……それはもしかして、十年ほど前にナルサスが私みたいな容姿の女の子を探していたから、でしょうか?」

目をぱちぱちと瞬かせながら訊くが、男性はただ微笑むだけだった。



***



ナルサスの部屋は、彼がここを出て行ってから幾分か片付けられはしたのだが、ほとんどはそのままの状態で残してあるという。
ミトは低く太鼓を打つように鳴る心臓の音を聞きながら、部屋に足を踏み入れる。

それは、これまで一箇所に留まることなく点々と旅をしていたミトが、初めて見る空間だった。
美しい模様の絨毯が足元を覆い、さらに色鮮やかなクッションが丈の低い椅子に並べられている。壁際の棚は書物に埋め尽くされて、品の良い小ぶりなランプが、彼がいたときにはその手元を照らしたのだろう。
ここにいた時のナルサスのことを考えてどきどきしながら部屋を見渡していると、ミトの目はある一点で止まった。その視線の先を見て、男性が静かに口を開く。

「その絵ですが……何の絵に見えます?」
「え……えーと、すいません、お、おそらく湖を描いたのだと……」

ナルサスの絵を目にする機会はこれまでも多くなかったが、見るだけで得体のしれない不安な気持ちになるような絵を描く物凄い画才なのである。ある意味では稀有な才能に溢れた画家なのかもしれないが、お世辞にも上手とはよべないものだ。
しかし以前ミトに描いてくれた絵でも、湖の色彩だけはまともだった。この部屋にある絵も鮮やかなエメラルドが広がっているから、湖面を描いているに違いない。

「その通りです。そして、よく見ると、湖に足を浸している少女がいるような気がしませんか?」
「え?言われてみれば、いるような、いないような……いや、これって……」

男性に言われて真剣に絵と向き合っていたミトは、急に口をつぐんだ。
奇妙な感覚に襲われる。意識が一瞬かすむ。

「私は、あなたにこの少女の面影があるような気がしたのですよ」

その言葉にミトは頭を振った。自分ではわからない。自分は出会う前のナルサスを知らない。彼がなにを思ってこの絵を描いたのか、ミトにはわからなかった。

「……これは、わたしなんでしょうか?でも、ダイラムなんて初めて来たから、ありえませんよ」

自分で強く否定する。そうでないと、自分でもわからない自分すら認めることになってしまうのだから。

「ええ。この方があなたなのかはわたくしどもにもわかりません。ただ、不思議なことですが、この絵は十年ほど前にナルサスさまが描かれたものですがね、私には十年前のあなたというより、今のあなたを描いたように見えます」

まるで現実離れしていて、理解が追いつかない。男性の声はやたらとミトの耳に幻想的に響く。自分でそう思い込んでしまっているだけなのかもしれないのだが。

「そうでしょうか。下手だからよくわかりません」

ミトは眉を下げて笑った。もう少しうまく描いてくれたなら、これが私かどうかわかったのになあ、なんて思いながら。



***



部屋をだいたい見終わったので、出ましょうか、と男性と話しているときに、ふと棚の方を見ると、小さな瓶につめられた緑の欠片がきらりと光を反射し、ミトの目をひいた。
思わず、手にとって覗きこむ。角度を変えると、違う色に輝きだし、まるで地球の海と空、そしてあの湖が一つになったような錯覚を覚えた。

「綺麗ですね……。ダルバンド内界と、空が混ざり合ったみたいな色」
「それはナルサスさまが後生大事にしていたものです。細かくなってしまっているので私にはよくわかりませんが、石か何かを砕いたものと言っておりました」

ふうん、とミトはぼんやりとした感想を漏らした。この美しい色に既視感があるような気がしたが、ミトはとくに深く考えず目を離す。いろいろな情報が頭に入りすぎて、少し混乱していた。

疲れた頭を振って、ふと、書物が詰め込まれた棚に視線を向けたとき、また奇妙な感覚に襲われた。
ざざ、と音を立てるように意識が混濁する。

記憶に、知らない映像が混ざる感覚。身体には意識があり、夢を見ているというわけではない。ただ、頭の中に何かが映っている。――ここだ、この部屋だ。今よりも物が多くて、絨毯の上にはいくつも書物が散らばっている。薄暮の時間。ランプの柔らかい灯りが部屋をぼうっと浮き上がらせている。そして、明るい色の髪の男性が、読んでいた本から顔をあげる。やや幼くも見えるが秀麗な顔立ち。長い髪がふわりと揺れる。

「ミト」

名前を呼ばれた。知っている声だが、それよりも少しだけ高い声。
そしてミトの唇が自然に動き、「ナルサス」と音を紡いだ。



「どうされました?」

声をかけられて、ミトは身体に意識を戻した。ぽーっとした目で「あ、い、いえ」とだけ返事をする。
なんだろう今のは。白昼夢とでも呼ぶような、一瞬だけ頭に浮かんだ映像。身に覚えがないので、記憶とは言いがたい。
そこにいた人物は、たぶんナルサスだったのだろう。
ミトの知るナルサスよりも見た目も若く、どこか世慣れしていない無邪気さがあったから、きっと昔の彼だ。
しかしどうしてこんなときにこんな幻想が頭に浮かんだのだろうか。この部屋に来て、何かを刺激された?忘れていたことを思い出すように?



昨日と同じで、またぼんやりしているうちに、気付くと男性との話もすませ、ミトは屋敷の外にいた。

「はっきりとは何もわからなかったけど……でも、やっぱりナルサスはなにか知ってるんだ……」

行きは気合を入れて大股で来た道を、途方に暮れそうになりながら帰る。まだ太陽が昇りきる前で、一番清々しい時間帯であるというのに、ミトの表情は曇っていた。

「十年前に私とナルサス、会っていた……?でも、私はここに来てから一年も経ってないし、それか私に似た別の人が……?」

自分は一人しかいないのだから、今の自分が昔のナルサスに会っているなんてありえないことだ。しかしそれ以外にも自分のまわりでいろいろと不思議なことが起こっているのだから、絶対にありえないとは言い切れない。
自分に似た人、といえば、「マルヤム国の王女」とルシタニア兵に言われたこともまだ真相がわからず解決していない。
そういえば、銀仮面の男――ヒルメスにも「以前に会ったことがある」と言われていた。

一体、彼らが出会ったのはどこの誰なのだ?

それがミトだとしたら、今ここにいるミトは何者なのだろう……

「ああ、もう!」

ミトは目をぎゅっと閉じて頭を振った。わからないことだらけだった。謎が深まっただけで、答えは遠のいてしまったような感覚。自分がなぜここにやって来てしまったのか、ということから始まり、何から何まで、知らないことしかなかった。

不安にさいなまれながら歩いていると、街の入り口近くまで来てしまっていた。
街の案内板を見て、ナルサスの屋敷の使用人から「湖に行ってみては?近くの漁村が一番景色がよいと有名ですよ」と言われたことを思い出すと、他に行くあてもないのでミトは馬を引いて街道を進んだ。
まだ太陽は高い。一日は始まったばかりだった。

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