「あ、あなたはさっきの……」

傾き始めた太陽を背にしていたから、その人の顔は陰になってよく見ることができなかった。
しかし、その宵の空のような目に、私が映っているのがはっきりとわかった。緩やかに流れる彼の髪が、腕に抱かれた私の額にも落ちかかっている。

「ふ、せっかく助けたのに逃げられるとは思わなかった。振り向いたら消えていたので驚いたぞ」
「え、ええ、それは本当にすみません……」

また、この人に助けられてしまった。
別に、他の人がいいわけでは決してなかったけれど、礼も言わず立ち去った先の無礼が恥ずかしく、私は視線を逸らした。

「縄を切ろう。すまぬが、今度は逃げないでくれるか?」

私は目を上げて彼をみつめると、一生懸命にこくこくと頷いた。「それでよい」と彼は笑って言い、剣を上手く使って両手両足を縛っていた縄から私を解放してくれた。

「再会を喜ぶのはあとにしよう。さ、俺に捕まるといい。ここは脱出するぞ!」

よく響くが、落ち着きのある声でそう言うと、彼は馬の腹を蹴った。そこでようやく、兵士たちは我に返ったように慌てふためきながら、私たちを猛追した。

「異教徒どもめ、ここは通さん!!」
「え、ちょ、前にも敵がいっぱいで、道を塞いじゃいましたよ!」

後ろからは、広場にいた兵士たちが。前方からは、先まわりした馬や駆けつけた兵が押し寄せ、進路を塞いだ。

「わ、わたし弓も剣もけっこう使えるから、貸してください」
「なに、おぬしの神技はもう知っているから、今度は我らの紹介をさせてくれぬか」

馬上でわたわたと慌てる私を制止し、彼はやさしい目をして笑った。「我ら?」と首を傾げると、背後から雪崩のように猛々しい音が聞こえて、ぎょっとした。
私たちの乗る馬の脇をすり抜けた影がひとつ。恐ろしいほどの勢いで、道を塞ぐ兵士たちに突っ込んでいった。
砂漠に溶けてしまいそうな薄い茶色の馬に乗った男が、たった一騎で突撃しただけかのように思えたが、彼は長槍を縦横無尽に操り、ばったばったと兵士を吹き飛ばしていく。
まるで竜巻。
災害だった。

「なにあの人……こっわ……!」
「はは。あの男、えらく強いだろう?この国では、戦士の中の戦士と呼ばれ、大陸の端から端まで怖れられている」
「あの方は仲間なんですよね?」
「うむ」

彼の返答に少しほっとしたが、あれが敵側だったらと思うと、少し震えた。

「先ほどおぬしの首にかけられた縄を撃ち抜いたのはあやつの矢だ。あとで礼をするといい」
「ほ、ほおおう……」

私のあの腕前で神技だとしたら、この国には何人の神がいるのかと眩暈がした。
とにかく、やたら強い男が先行してくれたおかげで、道が拓けた。
と、その時、私を抱える彼の腕に力が入り、もう一方の腕は鋭く空を裂いた。いや、裂いたのは空だけでなく、私めがけて飛んできていた矢を薙ぎ払っていたのだった。

「俺の方が殺りやすいと思ったようだが、残念だったな」

続けざまに、彼は矢の放たれた方へひゅっと短剣を投げた。ぐえ、という情けない悲鳴が聞こえるのを背に、私たちは、エクバターナを脱出した。



***



「さて。ここまで来ればもうよいだろう」

エクバターナを出てからかなりの距離を疾走した。何キロ、という数字ではなかなかぴんと来ないが、あの大きな都が随分遠くに見える。追手の姿はなかった。
馬は段々と速度を落とし、やがてほとんど歩くくらいのスピードになった。

「ルシタニアの旗を撃ち抜いた勇者が現れたから驚いて駆け付けてみれば、まさかこのような御仁とは思わなかった」

やたら強い男は私たちと馬を並べ、改めて私の方を眺めた。その彼と目をあわせる私は、馬になんて乗ったことがなく何度も落ちそうになっていたから、涙目だった。

「おい、ナルサス。お前の馬では怖いと、泣きそうになっているぞ」
「な……」
「ち、違うんです!初めて馬に乗ったのですが、あまりにも速くて少しびっくりしただけです」

私は、ナルサスと呼ばれた恩人の方を振り返ってやはり涙目で訴えた。彼のような人が馬を操るのがへたなはずはないから、やたら強い男もわかってからかっているのだろう。喉の奥の方でくつくつと笑っていた。
一方ナルサスはどこか面食らったようにしていて、少しの間をおいてから「私の馬が嫌なら奴――ダリューンの馬に乗るといい。だが、ここにはいないが奴の愛馬はもっと気性が激しいぞ」と肩を竦めた。確かに、ここにいる二頭の馬はどちらもルシタニアの紋章のついた鞍を付けていた。私を助けるためにルシタニア軍から盗んだのだろうか。

「さて、おぬしをエクバターナで救ったのは、おぬしがルシタニアを象徴する旗を二本も撃ち落とし、ルシタニアに反逆する意志があると思ったからだが、ここまではよろしいか」
「俺たちはたまたまエクバターナに潜入していたのだが、おぬしの技を見て、同志がいるならばぜひ共に来てほしいと考えたわけだ」
「……ル、ルシタニアに反逆……」

私は呆けたようにその言葉を繰り返した。まだ、この国がどうなっているのか、私はわかっていなかった。
反逆の意志などなく、単なる練習台としてあの旗めがけて矢を放っただけと知ったら、彼らは失望してしまうだろう。そうしたら、私はまたひとりぼっちになってしまう。
彼らを知り、この国を知り、この世界を知り、そしてその中で、自分がどうすべきかを導き出さなければならない。
だが、果たして誰がそんなことを教えてくれるのだろう。何も持たない私を、この世界ではからっぽでしかない私を、無条件で信じてくれる人なんているはずがなかった。

「……」

答えられない。もともと意志もなにも持っていないのだから。
私はとうとう俯いてしまったが、その肩をやさしく叩かれる。

「おぬしの思想は、ゆっくり話してくれればよい」
「……えと、ナルサスさん」
「ナルサスで構わない」

振り返ると、彼は穏やかに目を細めていた。落ち着きがあり、エクバターナで見たときよりも大人びて見えた。金色の髪が綺麗だな、とか、やっぱり目が綺麗だな、とかぼんやりとした気持ちが心の中で砂のようにそっと舞った。

「ダリューン、まず我らが語るべきだったな。非礼を詫びよう」
「あ、ああ、そうだな」

彼らはそう言って目配せをした。私に気を遣ってくれている。ただ弓が上手いだけの者ではないと、只者ではない彼らは悟っているのだろう。

この人たちとあるべきだ、と私はとっさに思った。
まだ彼らがどんな人たちなのかほとんどわからないが、理屈でなく、導かれるように、閃いた。
今なら、広大な砂漠からも、一粒の宝石を迷いなく掬い出せる。彼らがその宝石だった。

「先に」
「ん?」
「どうか先に私の話を聞いてください」

私はナルサスを振り返り、次いでダリューンにも視線を合わせた。

「ミトと申します。私は、この国、いえ、この世界とは別のところから来ました。……たぶんですけれど」

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