四月半ばに、ミトはひっそりとパルス軍を去ることになった。

仲間たちにはナルサスからうまく伝えてくれたらしく、大きな混乱にはならなかった。もともとミトに重要な仕事が与えられているわけでもないし、たったの数人で王子を護衛している頃とはもう何もかもが変わっていたから、ミトひとりがいなくなったところで軍全体への影響はほとんどなかった。
とはいえ、ナルサスから仲間に話が伝わったのは出立の前日のことであるから、驚いたエラムやアルスラーンまでもが、夜中にミトの部屋を訪ねてくる始末だった。
しかし、彼らも聡いから、無闇にミトを引き止めることはしなかった。ミトがこの世界で生きていたいと決意し、そのために探したいものがあると決めたのなら、あとはそれを後押ししてやるのが彼女にとって一番良いと、わかっていたのである。



出発の日。馬の準備を朝からエラムが手伝ってくれた。一人旅になるので、一番健康そうな馬を選び、馬装を施す。それがあまりにも念入りというか、丁寧すぎたので、少しでも時間を引き延ばそうとしているように感じられるほどだった。

ペシャワールの砂まじりの乾いた風が吹き付ける。
いずれ、アルスラーンたちもここを出発する。自分が少し早く出立するだけのことだ、と思って目を伏せると、荷物に腰かけてにやにやと笑っているギーヴと目が合った。

「なによ、ギーヴ」
「いや、若いっていいなと思ってな」
「ギーヴさま。手伝うのでなければよそへ行っていてもらえますか」

エラムがぼそぼそ言うのを聞くと、ギーヴは頬杖をついて、さらに満足げな視線を向けてくる。
彼が何を言いたいのかわからないのでとくに声はかけず、ミトはエラムの作業を手伝った。
そうこうしているうちに準備がほぼ整って、もうここにいる理由はなくなってしまった。

荷物を持って、「じゃあ、行こう」と声をかける。ギーヴは立ち上がって歩き出したのだが、エラムはその場に留まり、視線を泳がせていた。

「エラム、どうしたの?」
「い、いえ、別に……ただ、ここから動くのが嫌なだけです」

まるで子供みたいだな、と思ってミトは少し笑ってしまった。実際エラムはまだまだ子供の歳なのだが、普段があまりにも大人びているせいで、忘れていた。

「エラム、ごめんね。急にこんなことになって」
「いえ……」

頬をふくらませてそっぽを向いているエラムを、素直に可愛いなと感じる。
ミトは彼のいる場所まで駆けて戻り、うつむき気味のその顔を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。すぐに戻ってくるから」
「……わかりました」

顔をあげたエラムは、黒い瞳にいっぱいにミトを映し、少し背筋を伸ばした。心なしか、頬の血色がよくなっている。

「ミトさま、お帰りをお待ちしています。心から。……その、私は……あなたのことが、生命の恩人である以上に……」
「残念だなあエラム。お前の姫さまが出奔してしまうとは」

視線をあちこちに彷徨わせながらぽつりぽつりと話していたエラムの言葉をギーヴが遮る。「だ、黙っててください!」と顔を赤くした年下の少年を見て、ギーヴは口の端をあげて笑っていた。エラムのようなしっかりした少年は普段なかなかからかうところがないから、ここぞとばかりにいじるつもりなのだろう。

「と、とにかく、私はおともすることを許していただけませんでしたが、ミトさまが私を必要としてくだされば、すぐに駆け付けますから」
「……うん。ありがとう」

一方エラムは気を取り直したように真剣な表情になり、ミトに向き直った。
自分よりいくつも若い少年が一生懸命にみつめてくる姿は、正直かなり心を揺さぶられる。ミトも彼と離れることが嫌だし、彼を連れていってしまいたい欲にも駆られた。
しかし、これは自分の旅。彼らには彼らの、祖国を取り戻す旅がある。
一旦は別の道を進むが、いずれきっと交差するときが来るだろう。

「ミトさま」
「ん?」

ちらちらとギーヴの方を見ながら、エラムはミトに手招きをした。
よく見ると、少し顔が赤い。不思議に思いつつも数歩近づくと、急に距離を詰められ、肩を引き寄せられた。
ミトもギーヴも驚いて目を見開く。エラムの顔がミトの顔のすぐ横に近付いて、その吐息が耳にかかる。

「ずっと待っています。俺の心はあなたのものですから」

声をひそめて。エラムはミトにそう告げた。
彼が数歩離れてからようやくミトははっとして、口元をおさえる。この少年に何を言われたのか、どれくらい本気で言われたのか、を考え始めたら、顔が一気に熱くなった。ギーヴですらぽかんとしてその光景を眺めている。

「おい、今なんて言ったんだ?」
「あなたに教えるわけないでしょう」

エラムは仁王立ちしてギーヴを見下ろしていた。ミトに彼の気持ちを伝えられたことで、どうも自信が付いているらしい。

「ギーヴさまは、ミトさまの秘密も知らないくせに」
「は?」

ぼそ、と言われた言葉に、ギーヴはまた目を丸くする。からかっていたつもりが、反撃されるとはゆめにも思っていなかったのだろう。
しかしギーヴもこういう口喧嘩には慣れているから、一瞬面食らったものの、すぐに煽るような余裕の表情を浮かべた。

「まあ、好きなだけ吠えるがいい。どうせミトどのは後で俺と落ち合うのだしな」
「え?」
「え?」

奇妙なほどさわやかな微笑みに、なんのことか、とミトとエラムが首を傾げた時。横から、「ギーヴ」とたしなめるような声が飛んできた。
その方を見ると、ゆったりとした服に身を包んだナルサスがいた。ミトたちがなかなか準備が終わらないようで、迎えにきたのだろうか。
彼はギーヴを見て、これまたうさんくさいほど綺麗ににっこりと笑った。ギーヴがひるんだのがミトにもわかる。

「ギーヴ。合流は断じて許さぬからな。それにおぬしには別の仕事もあるだろう」
「……はいはい。心得てますとも」

ナルサスに促され、一行は城門の方へと向かって歩き出した。


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