各地から集った兵たちは、ルシタニアとの戦いを前に血が騒いで仕方ないようで、昼間はペシャワールの広場から城外までいたるところで騒いだり、訓練と称し手合わせをしたりしていた。
だが夜になると彼らも落ち着き、大人しく眠るか、自発的に見回りなどをしているだけになった。

松明の燃える音や、かすかな風の音、甲冑の足音が、ミトのいる半地下の資料室まで時折流れてくるが、それ以外は死んだように沈黙したいつも通りの夜になった。

パルス全土に檄文をとばして以来、軍は日に日に大きくなり、城内も賑やかになった。アルスラーンやナルサス、ダリューンなどは仕事に追われて、またミトはしばらく彼らに会えずにいる。

とはいえミトも忙しかった。昼は進軍に向けての準備を手伝い、夜は、このところ毎晩資料室に入り浸っていた。

ここには夜にしか来ていない。ここにいることを他の者に見られると、少々まずい理由があったのだ。
ミトは今日も本を積み上げ、その陰に隠れるようにして、蝋燭の灯りだけを頼りに、手元に筆を走らせていた。

しかし突然に、ぎい、という扉のきしむ音が聞こえ、ミトは身体を強張らせた。
扉が開くと廊下の松明の灯りが埃っぽい部屋に差し込んだ。その光を受けて、現れたのは、ミトが今もっとも会いたくなかったひとだった。

「……このごろ毎晩熱心に勉学に励んでいる者がいると思っていたが、ミトだったとはな」
「……ナルサス。こんばんは」

パルス軍の軍師は音もなく資料室へ入ると、ミトの隣へやって来て腰をおろした。
あまりにもまっすぐにこちらに来たので、ミトは手元の資料を隠している暇もなかった。いや、隠す気もなかったのかもしれない。
ミトはどこか観念したような気持ちで、その優雅な動作を眺めた。生まれながらの貴族の青年で、ミトとは育ってきた環境が違う。頭もよく、武芸に秀で、ミトとはかけ離れた存在だ。

「……地図を?」

彼はミトの前に広げられた資料を見て眉を寄せた。
複数人が作成した何種類もの地図が並べられ、そしてミトの持つ筆は、それらを一枚の紙に書き写しているところだった。
これだけ見れば、ナルサスは悟るだろうと思ったミトは無言でいた。
しばらくの間沈黙がおち、月の光は流れる雲で何度か遮られた。

「おぬし、どこかへ行こうとしているのか?」

はじめて、ミトは彼の表情が曇るのを見たような気がした。不安そうな、どこか悲しそうな声が、闇夜の中でその色を濃くする。

「……はい。ナルサスにはあとでお話しようと思ってましたが……」
「ならば今聞く」

急ぐように言う彼が、いつもの余裕たっぷりな彼とは違いなんだか珍しくて、ミトはその様々な表情を一層いとおしく感じた。
彼に見つめられると、いつも不思議な気持ちになった。胸が騒ぐような、踊るような、苦しいような。この気持ちに名前を付けるとしたら、とふと考えたときには、もう抑えきれないくらいの重さがあった。

「実は、正直に言うと、この軍をしばらく離れることを考えています」

静かに言うと、ナルサスは少し驚いた様子ではあったが、そこまで動揺しているわけでもないようだった。あえて、そのように見せているのかもしれないが、あくまで穏やかに、息を吐いただけだった。

「……ミト、理由をお聞かせ願えるかな」
「……ばかばかしいと思うかもしれないですが、夢でいつも見る景色があるんです。この世界に来てから何度もその夢を見るようになって、少しずつ奥へ奥へと進んでいっていたんですが、ある場所から先に、どうしても進めなくなってしまって」

そこまで言ってミトはナルサスの目を見つめた。夢の中の話なんて、信じてくれないかもしれないと思ったが、彼の目は真剣だった。

「だから夢で見る場所に、何があるのか実際に確かめに行きたいんです。なんの根拠もないけど、そこへ行けば、自分が何者かわかるような気がするんです」
「……だいたいはわかったが、おぬし、その場所に見当はついているのか?」
「ダイラム地方だと思います。ナルサスの描いた絵を見て、確信しました」

彼と話しながら、ミトの決意もまた固まっていくのを感じた。
この軍を離れて右も左もわからない土地で単独行動をするなんて、ほとんど自殺行為だ。だからまだ迷っている気持ちがあったのは事実。しかし、口に出すとやはりどうしても行かないといけない、自分はそこへ行く必要がある、と感じずにいられなかった。実際にあの場所がパルスにあるとわかれば、尚更のことだった。

「ダイラムなら俺の故郷だ。おぬしが行くのなら俺も一緒に行くと言いたいところだが」

彼は深く息を吐いた。落ち着かせられるような深い呼吸も、かえってミトの心臓を圧迫する。

「俺はパルスの軍師だから、ここを離れることはできない。おぬしの事情を知る者を貸してやれるほどの余裕もない」
「わかっています」
「では俺に、ミトをたった一人で送り出せと?」
「すみません。でも、私、自分が誰なのかわからなくて怖いんです。どこからどうやってここへ来たのか、なんの為に来たのか、私の力は何なのか……それに、ナルサスたちと一緒にいてもいいのか……。そこに行って全部わかるわけじゃないと思いますけど、何かしていないと、私、怖くて……」

弱く脆い部分がぽろぽろと唇から零れ落ちる。
尊敬している人の前でこんな自分を見せたくはなかったが、それ以上に彼に知って欲しかったのかもしれない。この世界ではじめてミトに居場所をくれた特別な人なのだから。

「……ミト、俺はおぬしが何者かなど、どうでもいいのだがな」
「え?」

ナルサスはすでに諦めているような顔をしながら、自嘲気味に微笑んだ。

「今、俺はおぬしを引き止めたくて必死でいい策はないかと考えていたんだが、こういうときに限って思い付かないものだ」

彼は不意にミトの右手にふれ、すくい上げるように手にとる。月の光に照らされた指先は銀色に輝いていた。どきり、とミトの心臓が跳ねる。

「それに、おぬしを引き止めたくても、俺にはミトの自由を奪う資格も束縛する資格もない。ミトがこの国に尽くす理由も、もともとはないのだしな。おぬしは巻き込まれただけなのだから、ミト自身のための旅をすることについては、俺も賛成するよ。本当に」
「……そうですか」
「おぬしが自分自身について知りたいと思うのは、この世界で生きていたいと思ってくれたからだろうか?」
「はい、そうです。ここで、ここにいる人たちと一緒に生きたいと思ってしまったので……」
「そうか、ありがとう。俺もミトと生きていたい。俺の故郷で、おぬしの探しているものがみつかればよいな」

案外、驚きも説得もなく、ミトの主張はさらりと認められてしまった。
これはこれで、どこか寂しいものがあった。ばかだな、とひとり思う。引き止めて欲しくて、こんなことを言ったわけじゃないのに。

「ありがとう、ナルサス。それじゃもう地図も写し終えたので、すぐ出発の準備を、しますね……」

目を伏せて、さっと手を引いた。
突然現れた異界の少女の面倒を見ている余裕は、いまや彼らにはないのだ。彼らは彼ら自身のため戦いに身を投じていた。その理屈から外れた少女なんて、どこで何をしていようと彼らの歴史に影響がない。
月光が雲に遮られ、一時的にナルサスの表情が見えなくなった。
しかし次に光が差したとき、彼は優しく微笑み、ミトに手招きをしていた。こちらへ来るように、と。
首を傾げながら、ミトが腰を浮かせると、突然腕をひかれ、思わずナルサスの胸へ倒れこんでしまう。
同時に、ナルサスは蝋燭の灯りを吹き消し、資料室は月の光だけに照らされるだけで、ほとんど真っ暗になった。

「ナ、ナルサス……!」
「ミト。おぬしの旅をゆるす代わりに、俺の頼みを一つ聞いてくれぬか」

いつの間にか背中にまわされた彼の腕が、あわてるミトをきつく抱き締めていた。まるで逃がしはしないというように。触れている部分から熱が広がり、ミトの心臓は壊れそうなくらいに胸を打ちつけている。ナルサスの髪が頬をくすぐる。呼吸をするたびに、身体の熱が上がっていく。

「必ず無事で、俺のもとに戻ってきてくれ」
「は……はい。必ず」

祈るような優しい声に、ミトは一生懸命に頷いた。暗い夜に、誰にも邪魔されずふたりきりで、積み上げた本の隙間で身を寄せて。こんなに幸せだと心の底から感じる瞬間に、自分の人生で出会えるとは思わなかった。

「……それと、今から言うことでおぬしの決意を揺るがせる必要はない。気にしなくていいのだが」
「え?」
「本当は、もうミトのことを離したくない。俺のそばにいてほしい」
「……ナルサ、ス……」

かすれる声で懇願される。頬を擦り寄せてくるナルサスの行動がまるで子供のようで、いとおしさが胸にこみ上げた。脳がとろけてしまいそうになる。気にしなくていい、なんて言われても、こんなことを言われたら決意も全部放り出してどうにかなってしまいそうだった。

「ふ、自分でも呆れるよ。ミトのことが大事すぎて、こんなに離れがたいとはな」

少しだけ抱く力を緩めて、ナルサスは改めてミトの顔を見て切なげに微笑む。髪の一本一本を星が流れるように、月の光が落ちていった。

「気を付けて行ってくるのだぞ。無事に戻ってきてくれるならそれでいい。俺の知らないところで勝手にいなくなってくれるなよ」
「は、はい……!」

ミトは夢中でナルサスを抱き締め返した。ぎゅっと音が出そうなくらい強く。少しの間会えなくても、平気でいられるようにと。

「戻ってきます。……ナルサスのことが、大好きなんですから」

その言葉は、口にすることは出来なかった。
しかし次に会ったら必ず伝えよう、と心にしっかりと刻みつけた。必ず戻る、彼のもとへ、彼らのいる場所へ、という強い意志とともに。


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