「ミト!」

視界の端でミトの胸に矢が突き立ったのが見え、ナルサスは大声で彼女の名を叫んだ。
衝撃で真っ暗な草の中に倒れ込んだミトの表情は見えず、そのまま闇に飲み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
一瞬、彼女に駆け寄ろうと体重を乗せたため、馬がその方向へ動き始めていたが、それを制止する。
彼女が生きていると信じるならば、まずは周囲の安全を確保しなければ。
ナルサスは斬りかかってきた兵を見据えると、造作もなく剣をはね飛ばした。銀色の彗星のように飛ぶ剣には、まだ握ったままの腕が残り、血の尾を引いていた。
恐れおののくシンドゥラ兵の中へ、馬を突進させ、乱暴に突き崩していく。それはまるでパルスの黒い騎士を彷彿とさせる災厄ぶりだった。
その様子を少し離れたところで見ていたギーヴは、乾いた笑いを口の端から漏らした。

「はっ……あんなに怒った軍師どのは初めて見た」

彼が手を貸す間もなく、ナルサスの周りからあっという間に敵の気配が消えてしまった。
そのほとんどが逃亡してしまったわけだが、ナルサスは彼らを追おうとはせず、すぐに馬から降りると、冷静さを失った足取りでミトに駆け寄った。
倒れたままのミトは、彼に助け起こされると「ナルサス……」と枯れた声でその名を呼んだ。

「ミト、大丈夫か?怪我は?」
「……大丈夫ですよ」
「見せてみろ」

いつもよりも低い声に、ミトは少し微笑んで、矢を抜いてみせた。
それはミトの胸に突き立ったように見えたが、実際には胸と腕の隙間に飛び込んでいて、服を裂いただけであった。
どうやら、また、あの不思議な力がミトを守ったらしい。

「……ナルサス、私に矢が当たったと思いました?」
「ああ。思った」
「……それであんなに怒っていたんですか?」

ミトはどこか名残惜しそうに矢を草の上に捨てた。
実際、名残惜しかったのだ。もしこの矢がミトを傷付けていたら、ナルサスはもっと自分のことを心配してくれたかもしれない、とか、もっと優しくしてくれたかもしれない、とか邪なことを考えていた。
しかしそんな余計な考えは吹っ飛んでしまった。
ナルサスがミトを抱き締めたのだ。

「……あれ?ナルサス……?」

彼の長い髪がミトの鼻先をかすめてくすぐる。汗でしっとりと濡れた肌が合わさる。背中にまわった腕があまりにもきつく抱くので、胸が少し苦しい。
ミトは息をするのも忘れて、その感覚に夢中になった。
思わず自分でも彼を抱き締めたい、と手を伸ばしかけたとき、ナルサスは身体を起こした。そして目を丸くしたミトの顔を見て、ふっと笑う。

「おぬしは敵に斬られることはないし、こんなところで死ぬ者ではない……と頭ではわかっているつもりなのだが、目の前でああいうことがあると、動揺するものだな」

彼の声はどこまでもあたたかく、やさしかった。

「心臓が止まるかと思った」

その言葉にミトは胸がいっぱいになった。この人は本気でミトを心配してくれて、心からミトを死なせたくないのだ、ということが痛いくらいにわかったのだ。
殺そうとしても死なない異界の人を、彼は血のかよったこの世界の人々と同じように見ている。まるで何年も前から一緒にいるかのような、絆を感じさせてさえくれる。

しかし動揺した、と言いつつも、もう既にほとんどいつものナルサスに戻っていた。
冷静さを取り戻した彼はミトから少し身体を離し、他に外傷はないかと視線を動かしている。何が起きても彼の想定内で、どんな困難にも対策を用意しているいつもの彼だった。
だからこそ、あれだけ怒ったナルサスを見て、ミトは嬉しかったのだ。
突然、この世界で、自分が息をしているという実感が沸き起こり、涙がたまっていく。

「……ナルサスに心配してもらえて嬉しい」
「俺はいつもおぬしのことを気にかけているよ」
「でもさっきの顔、めずらしく真剣だったので本当にびっくりしました」
「本気だからそういう顔をしただけだ」

素直に照れているミトに対して、彼もまんざらでもない様子だった。




「……俺もけっこう本気だったんですけど」

縛り上げた黒豹もといジャスワントを引きずりながら、ギーヴは小さな溜息をついた。

彼にもミトに矢が突き刺さったように見えた。その直後は、捕虜など放り出して彼女に駆け寄ろうとしていたのだ。
しかしナルサスの方が距離が近く、そして彼の方がずっと反応がはやかった。

ギーヴはなんともいえぬ敗北感のようなものを噛みしめながら、二人のそばへ行き、おどけた調子で「敵軍の将も討ち取られたようですし、次の指示をいただけませんかね、軍師殿」と声をかけた。



***



ミトたちが味方の陣へ戻ろうとして馬を進めるのを、木の影から見ていた者がいた。

まだ成熟しきっていない少女で、頭に布をまき、赤い髪をたらしている。
アルフリードだった。
彼女はナルサスを追って街道をはずれた森の中へ入ったのだが、ようやくみつけた彼女の想い人は馬上ではなく、地面の上で誰かを抱き締めていた。

アルフリードははじめての感情に、彼らが去ったあとも、立ちすくむことしかできずにいた。



***



パルス軍に占拠されたグジャラートの城塞で、アルスラーンの前に、拘束されたジャスワントが引き出されていた。
彼は命乞いはせず、「裏切ったのか」と問われると逆に敵意の目で異国の王子を見るのであった。

「俺はシンドゥラ人だ。パルス人に、俺の国を売ることはできぬ。パルスを裏切ったのではなく、シンドゥラと、父に等しい宰相マヘーンドラさまに忠誠をつくしただけのこと」
「父に等しいというのは?」
「……俺は孤児で父親が誰なのか知らぬ。身寄りのない俺を、マヘーンドラさまが育ててくださった、それだけのことだ。さあ、この上は、すみやかに俺の命を絶つがよい」
「では望みどおり」

ギーヴはいつまでも裏切り者に喋らせておくものではない、と言って剣を抜き放った。
顔の前できらりと刃をきらめかせてから、「いや、ここはおぬしに譲ろうか。こやつのことが気に食わなかったのだろう?」と思い出したようにミトを横目で見やった。

「い、いえ、遠慮させてください」
「言っただけだよ。こんな汚れ仕事ミトにさせる気はございませんって」

ミトが本当に気まずそうに目を逸らすので、ギーヴはやれやれと肩を竦めた。
難しいものだ、人の命を奪うということは。戦場では殺らねば殺られるから、そういう感覚は麻痺してしまいがちだが、とくに無抵抗の人間を気持ちよく殺せる者など普通ではありえない。
珍しく頭の中でごちゃごちゃと考えていたが、ジャスワントの背後に立つと、ギーヴは迷いのない筋で剣を振りかざした。

「待ってくれギーヴ!」

しかしアルスラーンがそれを制止した。
驚いたジャスワントは目を大きく見開くが、パルスの臣下たちの間にはどこか落ち着いた空気さえ流れていた。
ギーヴは「そうおっしゃると思いました」とやや皮肉っぽく言って剣をひき、ジャスワントの首をはねるはずだった刃で、彼を拘束する縄を切った。




結局ジャスワントは解放された。
彼が武器も持たずに走り去っていくのを、ミトたちはただ眺めているだけだった。

「正直お甘いと思いますが、私の力がおよばぬほどの害にはならないと存じます」

ナルサスにそう言われ、アルスラーンは困惑しつつも自分の決断を受け入れたようだった。彼は優しすぎるのだが、それには太い芯が通っているように感じさせる。ミトたちもジャスワントの首をはねずに済んでどこか安心した気がしていた。


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