シンドゥラ軍は、きびしく秩序を守りながらパルスの領土を進んでいた。
闇夜のなか、見知らぬ土地を行くという「天の時」、「地の利」を犯しながらも、隊列をはずれる者を出さず、部隊ごとに乱れなく河を越えて行軍してきていた。軍はせまい道を長く伸び、最前線はペシャワール城を臨むところまで来ている。
しかし、その善戦もここまでだった。
糧食輸送の部隊の真上から、空を斬って数十本の矢が飛来した。
風の音が変わったのを察知した兵は盾で身を守るが、荷車を引いていた牛は誰も守らない。一本の矢が牛に刺さると、それが爆発的な騒ぎの始まりとなった。
悲鳴をあげて暴れる牛が兵士を突き飛ばし、荷車でひきたおす。せまい道を密集形態で通過しようとしていたため、たちまち人と牛と車がぶつかり合う大混乱となった。

「敵襲だ!パルス軍ではない、ガーデーヴィ王子の軍が後方から攻めてきたぞ!」

混乱に紛れ叫び声が起こった。誰の発した声なのかもわからぬまま、シンドゥラ軍の中を、その報告が駆け抜けていった。
暗闇が彼らの不安をさらに煽り、そしてそれ以上の早さで混乱も広がる。
声の主であった少女と少年は、流言が広がったのを確認すると、音も立てずに林の中を動いた。お互いに「へたくそなシンドゥラ語だな」と罵り合いながら。



***



「ラジェンドラ王子、一大事でございます」
「一大事とは、何事だ」
「かのガーデーヴィ王子が、大軍を引き連れて、わが軍の後尾に襲いかかってきた由にございます」
「なに!?」

一方シンドゥラ軍の陣営では、はやくも報告が王子まで伝わっていた。
ラジェンドラも油断がなく、自分がここにいることを相手が知るはずはないではないか、と部下に怒鳴るが、不安と動揺にとりつかれた部下たちは確認もせず、妄想を怖れ、退却するよう進言した。
このように他人に背後をとられても仕方がない状況を作り出していたのは彼ら自信である。「人の和」を欠いているから付け込まれるのだ、とナルサスなら言っただろう。

「仕方ない、この混乱をおさめるためにも、一旦カーヴェリー河まで退く」

ラジェンドラの判断は迅速に軍の最後尾まで伝えられたのだが、兵士たちの混乱はむしろ拡大する一方だった。退こうとする部隊と、命令が正確に伝わらず前進しようとする部隊がぶつかりあい、退却もうまくいかなかった。
そうこうしているうちに、ラジェンドラの近くに大急ぎで現れた騎士が「ラジェンドラ殿下にいそぎ申し上げたきことあり。殿下はおわすや!?」と暗夜のなか叫んだ。
ラジェンドラの方も相手の顔が見えなかったが、確認している暇もなかったので「おう」と声を張り上げた。

「ラジェンドラはここにいる。何かあったか」
「一大事でございまして」
「一大事は聞き飽きた。一体なんだ」
「シンドゥラ国のラジェンドラ王子が、不幸にもパルス軍の手にとらわれ、捕虜となられた由」
「なに!?」

そのとき、崖上へ続く方角が騒がしくなり、馬蹄のとどろきが地鳴りのように響いた。
ペシャワール城塞からキシュワードの軍が飛び出し、シンドゥラ軍の先頭と交戦状態に入ったのだ。
ラジェンドラは軍全体の混乱と、自身の危機とで忙しく、動揺が隠しきれていない。

「ラジェンドラ殿下。当方の予定どおり、捕虜となっていただく」

闇から、声とともに斬撃がラジェンドラを襲った。
とっさに弾き返すが、あと少し遅かったら彼は馬上から転落していたに違いない。月が相手の顔を一瞬照らした。若く、不敵な笑みを浮かべている。シンドゥラ人ではなかった。
その人こそパルスの軍師であることを、ラジェンドラは知る由もない。

「曲者が!ここをどこだと心得ている!」

ラジェンドラは怒鳴り、彼の周りにいたはずの護衛の兵を呼び寄せようとした。
しかし、ここはどこだ?と問いたいのはむしろナルサスたちの方で、パルスの領土で孤立しているのはむしろラジェンドラだった。
五万もの大軍を引き連れてやってきて油断していたのだろうが、せまい道を通ったことにより長く伸びた陣形や、この暗闇と混乱が仇となった。

「ナルサス、こっちは片付きました!」

ラジェンドラの周りの兵を一掃すること。それがミトの任務だった。
とはいえ、ダリューンと組んでの仕事なので、ほとんどは彼によって倒されている。ミトは援護に過ぎないが、左右から駆け付ける兵を弓で倒していくことで、彼らの動きを牽制できているようだった。
王子は周囲の味方もやられたことを察知するとさっと顔色を変えた。
追い詰めた。ミトたちがそう思ったそのとき、倒したはずのシンドゥラ兵が呻き、死の間際に精一杯絶叫するように声をあげた。

「ラジェンドラ殿下、お逃げください!東南の崖下に脱出用の兵が待機しております!」

ラジェンドラは馬首をめぐらし、馬の腹を蹴った。闇の中でも浮かび上がる白馬は主人の意を汲んだのか全速力で走りだした。
一同がなぜか唖然としているなか、兵士の声にいちはやく反応し、その方角へ馬を向けていたのはミトだけだった。

「追います!」

暗闇に向かって駆け出す。ラジェンドラの白馬が前方にぼうっと輝いていた。おかげでかなり足の疾い馬だったが見失わずにすみ、弓を射るのも簡単だった。
ミトの放った矢が命中し、驚いた馬に投げ出されたラジェンドラは、地面に強く背中を打ちつけ、痛みに喘いでいた。そこへ馬から飛び降りたミトが、剣を突きつける。
少し遅れてナルサスやダリューンの馬も近付いてきていた。馬もなく、ここからの逃走は不可能だった。

「ラジェンドラ王子。あなたをパルス軍の捕虜にします」
「……裏切ったのか?」
「は?」

ラジェンドラから憎しみに満ちた鋭い視線を向けられ、ミトは一瞬戸惑った。こんな目で見られるとは思いもよらなかったのだ。
銀仮面のときのように、また、「会ったことがある」などと言われるのだろうかと得体のしれない不安が押し寄せた。追い詰めているのはこちらなのに、ミトの背後にも誰かがいて、剣を突き立てているような気がしてきた。

「おぬし、シンドゥラ人でありながらこの俺に剣を向けるなど、死んでからも神に罰されるがいい」
「な、なぜわたしをシンドゥラ人だと?」
「ふん。少しも訛らずにシンドゥラ語を話すパルス人など見たことがないわ!」

ラジェンドラの言葉が飲み込めずにいると、駆け付けてきたナルサス、ダリューンが馬を降り、ラジェンドラを革紐で固く縛り上げた。
そして王子が抵抗できなくなったことを確認すると、ダリューンがそういえば、とミトを見て口を開いた。

「驚いた。おぬし、シンドゥラ語がわかるのか」


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