ミトはこの世界の人間ではないが、不思議なことにこの国の言葉がはじめから理解できていた。
パルス国が位置する大陸では、その中心地であるパルス語が公用語であった。だから基本的にはパルス語さえ話せればどの国に行っても言葉が通じる。だからパルス人はなかなか外国語を覚えようとしないのだとか。
ただ一部の貴族や学問に秀でた者などは周辺国の言葉もひととおり覚えている、とナルサスは言う。
作戦中に流言を流すため、ナルサスはシンドゥラの言葉をパルス語でそのまま文字に書いてエラムとアルフリードに渡し、自身もラジェンドラに近付くときにシンドゥラ語を使っていた。

しかし、ラジェンドラに「東南の崖下にお逃げください」と呼びかけた兵士の言葉は、事切れる直前でほとんど言葉になっておらず、シンドゥラ人でなければ聞き取ることができないものだった。
それがミトは聞き分けられた。
はっきりと、シンドゥラ語というかパルス語というか、自分のわかる言葉で。

さらに言うと、どうやら追い詰めたラジェンドラに向かってミトが話したのがシンドゥラ語だったらしい。自分ではまったく使い分けているつもりはなかったが、不思議とそうなっていた。

「まさかとは思ったがやはりそういうことも出来るのだな、ミトは」

ナルサスは満足そうに笑うが、「ミトはシンドゥラ語も使える。恐らく他の言語も同様である」ことを聞かされた他の仲間たちは信じられないといった様子だった。しかし異世界から来たのにパルスの言葉がわかる時点で、不思議な現象がすでに起きていたのだから、いまさら何を驚く、というのがナルサスの論であった。
むしろ、そんなことくらい既に予想していたと言うから、たちが悪いくらいだとミトは思う。

「ま、にわかには信じられんが、おかげでシンドゥラ人を捕まえなくても通訳に困らないわけだな」

ギーヴがにやりと笑う。確かに、シンドゥラ人も大抵は公用語であるパルス語を話せるのだが、シンドゥラ人同士でシンドゥラ語で会話をされるとこちらにはわからないので危険だった。敵兵に通訳をさせるというのも心もとないから、王子一行にとっては願ってもない人材となってしまったのである。
ミトを今後の戦略上どう使うか、ナルサスは頭の中で策を巡らしていた。



***



「いやあ、まいった、まいった。見事にしてやられたわ」

シンドゥラ国の王子ラジェンドラは、アルスラーンの前に引き出された。

ミトたちもそばに控え、その人柄について観察する。
ペシャワールの兵士たちから聞く話では、気前がよく街に姿も見せるので庶民や下級兵士に人気があるようだった。たしかに陽気に笑う様子は、好感がもてる。
一方で異母兄弟と王位を争い、隣国パルスにもちょっかいをかける野心家。仮にこちらが協力して彼を王位に付けてやったとして、果たして友好的な関係が築けるものだろうか、と王子一行は訝しんでいた。
しかしナルサスによれば、恩を売って恩と感じてくれるような人物かどうか、はこの際関係ないらしい。

「ラジェンドラ王子。私はパルスの王太子アルスラーンです。いささか乱暴でしたが、お話したいことがあって、このようにご招待いたしました」
「おれはシンドゥラ国の王子で、次期国王だ。話があるというなら、この縄をほどき、王族としての礼遇をせよ。そのあとで改めて話を聞こう」

このように敵陣に囚われているというのにラジェンドラは尊大な態度で居続けるのだから、ミトたちも呆れを通り越して感心した。同時に、自信家であるゆえ、わかりやすく乗せやすい人だな、とも思う。まさにナルサスの掌の上で転がされそうな人物だったので、少し気の毒になる。

アルスラーンは「ラジェンドラ殿と同盟を結びたい。まずはあなたが王位に付けるようお手伝いする」と告げるが、シンドゥラの王子は何かと理由をつけて拒んだ。いくらなんでも長年の敵国と手を結ぶ気になれないのだろう。彼に協力すると申し出るパルスの真意もはっきりしないのだ。
しかしここはパルス軍の陣中で、ラジェンドラには助けもこなければ、選択肢もはじめから用意されていなかった。
断り続ける隣国の王子に向かって、ナルサスが不敵な笑顔を浮かべる。

「すでにシンドゥラ国内には、殿下の部下の方々をもって通達しております。ラジェンドラ王子は、パルスのアルスラーン王太子との間に、友誼と正義にもとづく盟約を結び、シンドゥラ国に平和をもたらすため、国都ウライユールへ進撃を開始した、と」

このように言われて、ラジェンドラもさすがに承諾するしかなかった。彼の生死はパルスに握られていることがようやくわかったようでもあった。

「……わかった。盟約を結ぼう。いや、パルス国の王太子殿よ、俺はおぬしが気に入ったぞ。年齢のわりにしっかりしているし、優れた部下をお持ちだ。盟友として、頼るにたりる。このうえはお互いのために力を尽くしあおうではないか」

よくこんな言葉が吐けるものだなあ、と一行は再び感心した。言葉は軽く、輝くような笑顔がまた浅ましいのだが、どうも憎めない印象だった。それはそれで、この王子の魅力なんだろう、とそれぞれが思った。



***



とりあえず盟約は結ばれたので、ラジェンドラは捕虜ではなく賓客として扱われることになった。
そして夕刻になって祝宴が始まると、ラジェンドラは昨日まで生命を奪うか刈り取られるかのところで争っていた相手に囲まれているとは思えないような陽気さで、酒を飲み、料理を食べ、大声で笑っているのだった。

「アルスラーン殿、おぬしも子供だからとて遠慮なさるな。男として生まれたからには、酒をくらい、女を抱き、象を狩り、国を奪う。失敗すれば逆賊として死ぬだけのことよ」

自分とは真逆の魅力を持つ王子の隣で、アルスラーンはぎこちなく微笑んでいた。嫌だという感じはしないが、どうもパルスの王子はこういった騒がしいのが得意ではなさそうである。

しばらくしてアルスラーンは席を立ち、ダリューンに守らながら自室へ戻っていった。アルスラーンが早めに休むのはいつものことで、彼の退席後は無礼講となりさらに盛り上がるのもいつものことだった。
ラジェンドラはふらっとファランギースの隣に腰をおろし、何か話しかけては酒をついでいた。美しい女神官に前から目をつけていたらしい。ファランギースは顔色一つ変えずに、ぐいぐいと酒をあおっていた。やがてラジェンドラの反対側にギーヴがやってきて座り、女神官はふたりから銀杯に酒を注がれるかたちとなった。

「うわ、またやってるよ」
「ほう、あれがおぬしらのいつもの光景なのか」

ミトが広間の離れたところで彼らの様子を見て思わず呟くと、それをたまたま聞いていたキシュワードに声をかけられる。
ひとりごとのつもりだったが返事があり、しかもそれがキシュワードからだったのでミトは驚き、少しの気恥ずかしさで頬をかいた。

「は、はい……。ファランギースはお酒が強いので、いつも撃退していますけど」
「そのようだ。女神官殿の方が飲む量が多いのに、両脇の者ばかり酔っていくな」

キシュワードは形のいい髭を撫でながら、三人の男女を眺めていた。
ペシャワール城は戦略上の要めである砦だから、王宮のようなきらびやかな宴とはあまり縁がなかった。彼も久しぶりの祝宴をそれなりに楽しんでいるようである。

「おぬしは武器の扱いも語学さえも何でも出来るとナルサス卿から聞いたが、酒もお強いのか?」

ふと、キシュワードは目をきらりと輝かせ、ミトを覗き込んだ。素直な好奇心と少しの期待で満ちているその目から、ミトは逃げられそうにないと思った。

「いえ、どれもパルスの武将のみなさんには遠く及びませんし、お酒にいたってはまったくダメで……」
「そうなのか?しかしおぬし、こんな細腕で一体どうやって弓を引いているのやら、不思議な御仁だ」
「ええ、まあ、なんか、コツがあるんだと思います」
「おお!ではぜひ今度我が兵士たちに教えてやってくれぬか。辺境警備が長いこと続くと、向上心を持たせるのが難しくてな。おぬしのような女性から話が聞ければ、兵たちも喜んで鍛錬に励むだろう」

ミトは言ってしまったことを自分で後悔する。「異界から来た」ということは、なるべく人に広めない方がいいというナルサスの助言に基づき、自分の素性については明かさないようにしているのだが、どうしてもこの見た目と能力のせいで不思議がられてしまう。
そして適当にあしらっても、しゃべりすぎても、ミトの話術程度では墓穴を掘ってしまう。あとでナルサスに助けてもらおう……と、キシュワードの申し出はやんわりと保留にして広間から退出しようとしたとき、奥から「ミト殿!」と声をかけられた。
酔っ払ってうわずったその声にミトはぎくりとする。

「ミト殿、もうお休みになるのか?まだ酒があるし、ラジェンドラ殿下もおぬしと飲みたいと申しておる。よろしければこちらへご足労いただけないだろうか、ミト殿〜」

頬を赤らめたギーヴが舌をもつれさせながら、ミトに手招きしていた。ファランギースをはさんで座っているラジェンドラも、なぜか大声でミトの名を呼んでいる。

「……」
「ギーヴはともかく、ラジェンドラ王子からも呼ばれているとあっては、無視するわけにもいきますまいな」

キシュワードは先ほどとは打って変わって人の悪い表情をしていた。この状況を楽しんでいるかのようである。

「も、もしエラムがその辺にいたら、少しあとで広間を覗きに来て欲しいと伝えていただけないでしょうか。恐らく、わたしが倒れているので……」

ミトはすでに青くなった顔でキシュワードに伝えると、仕方なく三人の方へ駆けていった。
ぽん、とギーヴは自分とファランギースの間にクッションを置き、そこへ座るよう促した。

「おぬし、なぜ逃げぬのじゃ。ここへ来たからには、こやつらがつぶれるまで付き合うしかないぞ」
「でも、王子さまからあれだけ大声で呼ばれたら逃げるわけにはいかないですよ。みんなも見てるし」

ファランギースに囁きかけられるが、これも心配しているというより、本心ではミトをからかっているようだった。

「おぬしだな。俺を捕まえてくれたのは」
「は、はいっ、申し訳ございません」

ラジェンドラは半ばファランギースに寄りかかるようにして、ミトを眺めていた。
そんなことを言われても、と思いつつミトが頭を何度も下げるのを制止し、彼は「いや、見事だった。おぬしの見事なシンドゥラ語にも驚いたが、あの闇夜の中で矢を的中させる腕も素晴らしい。パルスにはお若い王太子だけでなくこんな儚げな勇者までいるのだから、いやはや、驚かされる」と自分が捕虜であったことも忘れて陽気に笑っていた。

「さあ、飲むがいい。俺の酒が飲めぬとは言わせぬぞ?」
「は、ははあ……」

どこの世界でも酒は人々の楽しみであるのは変わらないのだな、とミトは思う。先ほどまで争っていた者同士が、笑い声をあげながら杯を交わし合う。

王子がなみなみと注いだ酒は、ミトの持つ銀の杯の上で滑らかに揺れていた。外に出れば、この小さな湖面に天上の月を捕えることができたかもしれない。
ミトはその景色だけ想像して、ぐいと飲み干した。

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