岩の影から滲み出るようにして現れたのは、例の銀仮面の男だった。

ミトが彼にはじめて会ったのは、エクバターナの城壁の上でのこと。
そのときから不気味なひとだと思っていたが、ペシャワールへの逃走中にその存在が近くまで来たことを知り、王子一行を恐れさせたことはまだ新しい記憶として残っていた。

「……この辺境の地までどのようなご用事で?」

砦の外ではあるが、ペシャワール城壁のすぐ近くだから、大声で叫べば誰かがすぐに駆け付ける。そうしなくとも、しばらく足止めをしておけば見回りの兵士がそのうちやってくるはずだった。いかに強大な敵とはいえ、場所の利はこちらにある。
ナルサスが落ち着き払った様子で銀仮面を見据えると、薄い切れ込みから覗く彼の目が左右へ走り、暗く光った。

「……ここに俺の会いたい者はいないらしい」
「人をお探しでしたら、私がお力になりましょうか」

ナルサスは智略のみならず、剣の腕も一流だから、並の兵士が束になったとしてもまず遅れをとらない。それにこちら側は二人。場所だけでなく、相手の数も多く、銀仮面にとって圧倒的に不利な状況である。
しかしそれにも関わらず、緊張しているのはミトたちの方だった。
それだけ銀仮面の放つ気迫が凄まじい。ミトも汗で濡れた手を剣にかけようとしたとき、仮面の奥で暗い瞳が蠢いた。
不意に、その瞳が自分をとらえたような気がして、ミトは動きを止めた。

「お前」
「……わ、わたし?」
「……やはり、俺と会ったことがあるな?」
「は、はい。先日、エクバターナで」
「それ以前にもだ」

ミトは恐怖よりも、不可解さで眉を顰める。
初めて会ったときも、彼は「俺に会ったことがなかったか」と言っていたが、まさにその日にこの世界にやってきたミトには、「それ以前」というのは成し得ないことだった。
ところが、再び、同じ言葉を投げかけられている。

「申し訳ないけど人違いです」
「いや、確かにきさまだ」
「どこからその自信が……」
「忘れているのか……?」

銀仮面は一歩ミトに近付き、意外にもどこか残念そうに言った。
それでミトも戦意を削がれかけたが、なおも彼はミトとの距離を縮め、暗闇の底で光るような眼でこちらを見ている。

「俺も最初はお前のことがわからなかった。だが、再会した。お前はこの意味が理解できるか?」

彼の言葉にはなんの根拠もなかった。しかしその真剣な声が、人を惑わせるには十分だった。
ミトはこの世界にはじめて来たときのように、たったひとりになったような気になり、混乱し始めていた。

「で、でもわたしはあの日はじめてここに来て、はじめてあなたに会って……」
「何を言っている?俺がお前に会うのはここで少なくとも三度目だとなぜわからぬ」

傍目に見れば、銀仮面もミトもお互い自分の言っていることがわからず、我を失っているようだった。

「お前は俺と共に来るべき運命をもっているはずだ。そうでなければ、なぜあのとき俺に手を差し伸べた?」

銀仮面の言っていることをひとつも理解することが出来ず、呆然としていると、ナルサスが禍々しい仮面から覆い隠すようにミトの前に立った。

「下がれ、へぼ画家に用はない。きさまはアンドラゴラスの小せがれの次にむごたらしく殺してくれるから、そこで順番待ちでもしていろ」
「それは好きにしてくれて構わないが、この女性はあなたではなく私たちと共に来るべき運命を持った方だ。あなたのような王の器にあらざる者に、こちらも渡すつもりはない」
「きさま、どこまで正統の王を貶せば気がすむ?」

銀仮面はナルサスの言葉に怒り、それがかえって現実世界に引き戻したようで、再び暗い瞳を鋭くした。
ペシャワールへ向かう途中、ナルサスと銀仮面が対決したとミトも聞いていたが、銀仮面の方がいいように踊らされたのだろう。ナルサス個人への私的な怒りが感じられた。
おかげで、ミトもようやく我にかえったが、緊迫した状況は変わっておらず、汗が流れた。
銀仮面がついに剣を抜き、ギラリと刃先を輝かせた。ミトもナルサスも剣を抜いた。
そのときだった。

城壁の方からひゅっと風を切り矢が飛来した。それはまっすぐに銀の仮面へ向かっていたが、彼は避けもしなかった。矢は仮面の先をかすめ、地面に突き刺さる。

「ナルサスさま、ミトさま、その男から離れてください!」
「エラム!」

弓を引いたのは、少し離れた木の上にいたエラムだったようだ。
次いで彼が城の方に大声で呼びかけると、城壁から一斉に数十本の矢が放たれた。



***



銀仮面はパルス軍に発見されたとわかるやいなや、あっという間に林の中に消えてしまった。
ミトたちも追おうとはしなかった。
兵を城から離すための罠かもしれない。相手の数もわからず、シンドゥラからの攻撃もいつまた来るかわからない状況では、城砦にこもっているのが一番安全なのだ、と理論付けたのだが、銀仮面の得体のしれない恐ろしさに、戦うのが怖くなっていたのかもしれない。



「お怪我はありませんか、ミトさま」
「大丈夫。助けてくれてありがとう、エラム」

城に戻ると、まずエラムがひどく心配したようにミトを見て、次に珍しくなかば非難するように主人を見た。

「……ミトを城の外に連れ出したのは私だ。もうそんな危険なことはさせないから、そんな目をするな、エラム」
「も、申し訳ありません。しかし……今度は私もお伴させていただけないでしょうか。必ずお役に立ちますから」
「そうだな。ミトも、どこかへ出かけるときはエラムを連れていって構わないからな」

主人から許しを得られ、エラムは上機嫌なようだった。「ミトさま。このエラム、いつでもあなたに付き従い、お守りいたしますから」と、念を押すように言うので、ミトもお礼をして微笑んだ。

「ありがとう。でもエラムの手は煩わせないと思うよ、何度も言うけど私、敵に斬られないし」
「……ミトさま。正直なところ、私はそう言うあなたが心配でたまらないのです」

エラムは大きな黒い瞳いっぱいにミトを映して言った。

「今、いえ、当分はまだ敵の刃にかかることはないかもしれませんが、あなたを守る神秘の力はいつか消えてしまうような気がするんです。私が心配性なだけかもしれませんし、失礼なことを言っているのはわかりますが、どうも気がかりで……。あまり、ご自分の力を過信なさりませんよう。どうかこのエラムをお伴にしてください、あなたの盾になりますから」

ミトはエラムの申し出を笑って断ることができなかった。自分自身、この力の不確かさをずっと心の何処かで案じていた。彼の言うことはすべてミトも考えていたことだった。

いつか、この世界で斬られ死ぬ日が来るのだろう。
それは役目を終えたときだろうか?そもそも、自分に役目なんて、本当にあるのだろうか――



***



「ナルサス、さっきの……銀仮面が言っていたことですけれど」

その夜。
王子一行とキシュワードが顔を突き合わせ、今後の進路について議論し終わったあとで、ミトはナルサスの服を掴んで少し一行から離れた。
そしてぽつりと呟くように、昼間の銀仮面と遭遇したときからずっと気にかかっていたことを吐き出す。

「以前にも会ったことがあるとかって、あの人、なんなんでしょうか」
「……おぬしの記憶にないことを、俺もわかるはずがないな」
「そうですね、すみません」

そういう返事になるのはわかっていた。しかし誰かに話しておかねば。自分の手に負えないことなら尚更他人を頼らなければ、いつか駄目になってしまうかもしれないとなんとなく考えていたから、わざわざ彼にきいたのだ。

「でも本当に心当たりがないんです。変に悩むより、あっちの勘違いってことにしておいた方がいいでしょうか」
「……しかしあの男の狂気も本物だった。気にしておく方が損はないと思うが」
「……気にし始めると、わけがわからなくて怖くなるので、あまり考えたくないです」

ナルサスは昼間の出来事を思い出し、夜空を見上げて息を吐いた。

「……俺にもわからぬことだ。おぬしごときが考えをめぐらすのは、ちと無理があるかもしれぬな」
「む、それは聞き捨てならない……」

身も蓋もない言い方に、ジトと睨むと、彼は柔らかく微笑んだ。
この世界では夜は完全に闇に包まれ、空の下に光はないから、驚くほど無数の星が見える。それにしても贅沢すぎるな、と思った。彼の明るい髪の間から、星空が透けて見えたから。

「おぬしが異世界から来たということが関わっているのかもしれないが……となると、これからもおぬしには理解のできぬことが多々起こるかもしれない。だが、おぬしはミト以外の何者でもないのだから、揺らぐ必要はないのだぞ」
「そう簡単に言われましても……」
「揺らぎそうになったら、ひとりで抱えずに、まず俺に話すこと。よいな?」

簡単だが、そんな言葉が欲しかった。ミトは一瞬きょとんとしたが、その言葉が心に落ちると静かに微笑んで、ナルサスをみつめた。
言わずとも、感謝の気持ちが伝わったみたいで、ナルサスも優しく笑みを返す。

「俺は結構おぬしのことを気にかけているからな。おぬしが思っている以上に」
「……そうですか」

あの日ミトを拾ってくれたのはこのナルサスだったから、責任をもって面倒を見ようと思っているのだろうか。それが義務なのか、同情なのか、ミトにはわからなかったが、今はこの優しさに甘えておこうと思い、目を伏せた。
ただ、自分が何者であるのか――それは誰か大切な人に決めてもらいたかったが、また別の機会が来るだろう。
そしてもう一つ気がかりだったことがある。ミトを「マルヤムの王女では?」と言った騎士のことだったが、今日はもう銀仮面の発言だけでお腹がいっぱいだった。これ以上この話を続けると深みにはまってしまいそうだった。
それでミトは、話題の方向を変えようと口を開いた。

「ところでナルサス。わたしのことはともかく、あの銀仮面の男って、一体何者なんですか?」
「……おぬし口は固いか?この国の者でないミトには、言ってもよいと思っていたのだが」

何気なく言った言葉だったのに、急に低い声で訊かれ、ミトは身体を強張らせた。かまをかけたつもりではなかったのだが、やはりナルサスは彼の正体に気付いていたらしい。
ミトは一生懸命、タテに首を振った。

「はい。ナルサスから聞いたこと、誰にも言いません。秘密にします。正統な王がどうのこうのって銀仮面は言ってましたけど、それも意味がわかりませんし」
「おぬし、もう分かっているではないか。……どうやらそのままの意味のようでな」
「えっ……!?」

ミトの頭の中で真実が繋がりかけたそのとき、奇怪な叫び声が、東の城壁上の方から聞こえた。
夜の底から呻くような声に、ミトは背筋がぞくりとする。

「な、何、今の……」
「まさか、アルスラーン殿下が……!」

ナルサスはすでに走りだしていた。
先ほど、会議が終わったあと「少し夜の空気を吸ってくる」と言って護衛も断って一人で歩いていったアルスラーンの姿を思い起こし、ミトもあわててその後を追った。

next
3/9



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -