どよめきとうめき声が充満する北の塔の最上階で、何十人という屈強な戦士たちが、床から伸びる無数の黒い腕に拘束され、一歩も動けずにいた。

「魔道士だと!?では奴らが……お、おのれ、こんな時に!」

ナルサスの言葉を受けて、ヒルメスが悪態をついた。彼は魔道士たちと面識があった。
ヒルメスはエクバターナを侵略した際に魔道士たちの援助を受けており、その後もたびたび彼らと接触していたが、一向に目的がわからぬ不気味な集団だった。
だから、この瞬間に魔道士と呼ばれる者たちが介入してくることも、これまでまったく考慮していなかったとはいえ、不思議はなかった。

「ふふ、我らは永きに渡りおぬしらの背後で世を乱し、この地での流血を長引かせてきた。何人か、利用させてもらった者もこの場におるのう、ご苦労だったな」

ミトの身体がそれに乗っ取られ、今喋っているのは彼女ではなく魔道士だというのは、俄には信じられない。しかし言葉も、仕草も、彼女のものではなかった。

「しかし所詮は小国ルシタニアと死に損ないの銀仮面卿――役不足であったな。わずかな期間しかここを占領していられぬとは。ふむ、まあ、王太子とやらの軍が思わぬ動きをしてくれたのもあったが」

ミト以外の全員が黒い腕のようなものに拘束されている中を、彼女だけが気まぐれにくるくると回ったりしていた。

「ここでパルスが国を取り戻しては面白くない。あと数年は混乱していてもらわねば、我らの王に顔向けができぬ。ゆえに、役者はここで殺し尽くしてしまおうではないか」
「魔道士ども……」

憎悪の滲んだ声で、ヒルメスが呻いた。利用し、利用されている関係なのは承知していたが、この局面に至るまで自身が道化を演じさせられていたことが、殊更に腹立たしかった。しかし、脚を縛る術はいくら力を込めてもびくともせず、少しも解けそうにない。愛刀もアルスラーンに弾き飛ばされてしまっていたし、ヒルメスには為す術がなかった。
この場にいた全員がそうであった。術に拘束されているからというだけでなく、わけのわからぬ状況に、うかつに動くことができなかった。

「ふふ、足元の術は決して破れぬ。さあもう一度言おう、この場は我々が制圧した。皆、剣を棄てよ。いや、まずは忌々しいその宝剣だ。それは光が強すぎる……今ここで粉砕してしまおう。こちらへ投げ捨てよ!」

ミトの声が広間に響いた。その後しんとした空気が波紋のように広がったが、静寂を破ったのはナルサスの「殿下、ルクナバードはそのままで。彼女は『我々』と言った。仲間がすぐ近くにいるようですから」という言葉だった。

「……おぬしは……ナルサスか。この期に及んで策でもあると?」

ミト――魔道士は、気に食わないといった様子で視線を投げかけた。

「……」
「……まあよい。では、この娘を殺そう」

答えを聞かず、魔道士はそう言って手をぴたりと自分の喉に押し当てた。ぴんと延ばされた指が、ぎくりとするほど鋭利に見えた。

「ま、待て!」
「ほう、やけに慌てるではないか、ナルサス?十年前に殺し損ねたおぬしがここまで我らの邪魔をしてくれるとは思わなかったが、はは、それも運の尽きよな。この娘の身体がおぬしを守護しているのだろう?これさえ奪ってしまえば、おぬし一人殺すなど容易いことだ」

そのとき、長々と喋る魔道士の言葉の終わりを待たず、ひゅっと空を斬り裂いて剣が投げつけられた。重く、速い、殺すだけでは済まない威力。普通の物理法則下ならば確実に彼女を貫いていただろう、アンドラゴラスが投げた剣。
だが、ミトが軽く手を振るとそれは甲高い音を立てて弾き落とされた。

「無駄だ。王とはいえ、その手を離れた剣など我にかすり傷ひとつ付けられまい。この身体はそういう作りになっているのだからな?」

……なぜ魔道士がミトに憑依したのか、ナルサスには最初から理由がわかっていた。彼女の身体は、ナルサスの身代わりとなって死ぬ瞬間まで「死なないように」できている。その身体を使えば、この場では無敵だからだ。
しかし、アンドラゴラスの放った剣が轟々と音を立てて飛んでいったときはさすがにナルサスも肝を冷やしたし、弾き落とされたときは安堵さえした。魔道士ごとミトを殺されては元も子もないのだから。

――そこまで考えてからナルサスは「いや……あるいは……」と独り呟いた。

だが、すぐにアンドラゴラスに「ナルサス!」と思い切り怒鳴られ、顔を上げる。
実は先の一瞬、彼はアンドラゴラスが投げつけた剣を叩き落とそうとして抜刀していたのだ。それを見逃す王ではなかった。魔道士よりもむしろナルサスの方へ怒りが注がれているようだった。

「ナルサスめ、その娘になんの価値がある?娘ひとりになぜ動かぬ!はやくその魔性を斬り殺せ!」

アンドラゴラスやここにいる多くの兵士は、ミトの能力も、ナルサスの気持ちも知る由もない。
だが最強である王の放った剣で通用しなかったのだから、この場にいる誰の剣も彼女には無意味であろうことが、皮肉にもわかってしまっていた。唯一可能性があるのはダリューンくらいのものだが、ミトを傷つけることなど、ナルサスの前で決断できるはずもない。
黒い腕で下半身を拘束され、一歩も動けないままアンドラゴラスは「殺せ!」と喚き、一方でヒルメスは、ミトの不思議な力にいまだすがりたい気持ちがあるためか、「待て!殺すな!」と焦っていた。
その間でナルサスはじっとミトをみつめ、アルスラーンらはそんな彼を見守っていた。どうにか出来るとしたら、彼しかいないのだから。

「ふむ。どうするのだ?殺すのか、殺さないのか。ふふ、ではこの塔もろとも破壊してみようか?一秒もかからぬ。皆が揃っているからちょうどよいな。仲良くあの世行きだ」

混乱したやりとりを眺めてから、ミトは妖しく微笑んだ。だが次の瞬間には氷のように冷たい表情に変わり、すっと腕を伸ばし、一点を指差す。

「……余興は終わりだ。我らも気が長くない。疾く、武器を棄てろ。アルスラーン、貴様からだ」

アルスラーンが一瞬ためらうと、ナルサスが再び「殿下、少しお待ち下さい」と声をかけた。
しかしミトが即座に動いた。図形を描くように指を振り、魔導の力を放ったのだ。それは塔を支える柱を一本破壊した。均衡を崩した塔が、ぐらりと傾いたのがわかった。崩落しかけているのだ。時間が経てばさらに状況が悪化するだろう。もう一本柱を傷つけられたら確実に塔が壊れると思えた。
そうなれば、この場にいるほとんど全員が死ぬだろう。パルスの現王と後継者たる人物、それを支えるはずだった優秀な部下たちが、一辺に死ぬ。

「ナルサス!どうするつもりだ!」

このままでは全員が危険だった。だというのに、恐らく何か策があるはずのナルサスは何も言わず静かに佇んでいる。痺れを切らしたようにダリューンが叫んだ。
アンドラゴラスやヒルメスはもう使える武器を持っていないし、他の兵士らもどうしたらいいかわからず動けない。
この場はもう、誰にもどうしようもなかった。一歩も動けない。剣は魔道士に届かない。剣を手放さなければ、塔ごと壊される。いや、武器を棄てたところで、結局建物は崩壊させられここにいる全員が死ぬのだろう。王になれる人物は尽く死ぬ。パルスの未来は混乱の渦に叩き落とされ、さらなる流血と大陸全土を巻き込んだ戦に発展しかねない。

「ナルサス。私は、おぬしに任せる」
「ナルサス様!……なにがあっても、おともします」
「ミスラ神のご加護を、ナルサス卿にも」
「ナルサス!あたしがついてるからね!」
「軍師どの、おぬしは、何を選ぶのだ?」

仲間たちの声が、ナルサスの心を揺らしていた。
その「時」がきたら。
今がその「時」なのは疑いようもなかった。予想とはやや違った結果となっているようだが、運命は変わらず同じ点に収束するのだろう。塔が崩壊したときにミトが自分の代わりに瓦礫の下敷きになるとか、ミトの身体が崩落の衝撃を和らげてくれて自分だけ助かるとか。とにかくミトは消え、自分が生き残る、そういう結果に。

「ミトはお前たちでは傷ひとつ付けることができない。それが出来るのは……俺だけだ」
「ナルサス、何を……?」

魔道士は『我々』と言った。ということは、ミトに取り憑いている魔道士だけではなく、当然、仲間がすぐ近くにいるということだ。床から生えた黒い腕のようなものは、彼ら全員の力を使ってようやく維持させることが可能な大魔術なのだろう。だが王たちがこの狭い塔に集まるのを待っていたのだから、範囲は狭い。魔道士の数は多くはないということだ。この旅で遭遇した魔道士どもはすでに何人か殺してしまっていたし、逃げられたが深手を負わせた者もいた。ここにいるのはせいぜい数人程度に過ぎないはずだ。ミトを倒すよりも、彼らを探し出して倒す方が容易い。だが、他の魔道士の姿は見えない。この場から動けないのではどうしようもなかった。
――魔道士たちには手出しができない。今、ここにいる一人以外は。

「やはり代償はなし、というわけにはいかぬか……すまない、ミト」

静かに、頭を垂れた。何かに祈るように、謝るように、慈しむように、すべてを捧げるように。それから顔を上げたナルサスは、声を張り上げる。

「殿下!宝剣を掲げてください」
「わ、わかった!」

突然のことだったが、言われたとおりアルスラーンが宝剣を頭上に掲げると、剣は陽の光を受けて眩しいほどに輝いた。瞬間、ミト――魔道士が呻いた。英雄王カイ・ホスローの霊力は、彼らの天敵であるようだった。
術を維持する一角であるはずのミトの身体がよろめいたことで、皆を拘束する黒い術がわずかに弱まった。とはいえ、まだ一歩たりとて踏み出すことは叶わない。
だが、一人だけ、ナルサスだけは歩みを進めた。這うようにゆっくりとだが、ミトに向かって近づいていく。

「ナルサスめ!なぜ動ける!?」
「……ミトの身体を通して発せられた術だから、俺にだけは効き目が弱いのだろうな。感謝するよ、ミト」

一歩進むと、別の黒い腕が湧き出て足を掴む。だが術に捕らわれながらも、ナルサスは一歩ずつ前へ進んでいっていた。
ミトの身体は、ナルサスを守護するためにあり、この場では無敵だった。
一方でミトに憑依している魔道士自身には、大した力はなく何もできないはずだ。ミトの身体を出れば、平凡な兵にさえ簡単に叩き斬られるだろう。だがミトの身体にいる間は完璧に安全なのだ。だから彼は絶対にミトの外へ出ようとしないだろう。
――これをどうにかできるのは、ナルサスだけだった。

「馬鹿な、ち、近づくな!近づかないで、やめて、お願い……嫌……やめろ!」

壁際まで後退ってから、ミトは、表情を歪めて命乞いをした。魔道士の精神力が弱まったせいか、ミトが必死で抵抗しているためか、ミト本来の面が少しだけ現れたように思えた。そのせいかミトの目に涙が浮かんでいて、少しだけ罪悪感を覚える。

「ミト……」

指が触れる距離まで、ようやく近づいた。もはや魔道士の影は消え失せ、表情はミトのものに戻っていた。だが、その中にはまだ魔道士がいるはずだった。それを消さねば、ここにいる全員を縛る術は解けないし、ぐずぐずしていては塔が崩壊し、パルスは混乱の渦に呑まれる。

「……ナルサス」

たしかに、ミトの声がした。憑依の術に逆らう苦痛で汗を浮かべるその顔はいまにも泣きそうで、苦しげで、恐怖が滲んでいて。でも覚悟を決めた、そんな顔だった。

「……ミト」

剣を持つ手が震えて、取り落としそうになっていた。ナルサスのその手を、ミトがぎゅっと握りしめた。

「大丈夫。ナルサス、私、この時のためにここにいるんでしょ?私の一番守りたい人がナルサスなんだから、それを果たせるなら、どんなことも受け入れる、たとえ私が……」

ミトに辿り着くまでの彼の苦悩を知っている。彼の頭の中でどれほどのことが考えられていたのかも。いくら考えても、この結果に収束したのだろうということも。
涙がミトの目からぽろぽろとこぼれ落ちる。たとえ私が。消えてしまっても。この人達を、この世界を守って。それが出来るのはあなただけなんだから。言わずともそう伝わるように、より強く手を握る。

「また、俺をみつけてくれるか、ミト……」
「はい……絶対にみつけます……ナルサス、大好き」

そう言って微笑むミトの胸に、ナルサスは剣を突き立てた。

広間から一瞬すべての音が消えた。
音を立てるのを避けるように、すべての人が動きを止め、息を殺しているようだった。絶対に、彼女を傷つけるはずがないと思っていた人が、その彼女を刺しているのだから。

静止したような時間のあとで、床から伸びていた黒い腕が消えた。拘束から解かれた人々が、順に動き出す。王都の警備に詳しいサームが「他の魔道士が塔の周辺にいるはずだ!みつけだして拘束せよ!」と声を飛ばし、広間は再び慌ただしくなった。

ただ、アルスラーンの軍の者たちは、呆然としながら集まっていく。ナルサスがミトを刺し、動かなくなった彼女を抱きすくめている場所へ。

「……正気か?ナルサス……」
「俺は狂ってなどいない。俺は冷静だよ」

うっすらと消えていくその身体を抱き締めて、うつむく横顔には、涙はなかった。
ひとりの少女がこの世界に迷い込み、また、どこかへ消えただけ。それなのに、彼女の姿はこんなにも多くの人の心に刻まれていて。けれどこの結末は、最初から決められていたものだった。最初からこの時のために彼女はここにいた。ナルサスを守り生かし、パルスという国を平和に導くため。
だが歴史の転換点での彼らの選択は、彼女が守護するべき対象に剣を突き立てられるという、変則的な終結だった。歪んでいるといってもいい。誤差、失敗であるとも。この結果が世界からどう認識されるのかはナルサスにもわからなかった。しかし彼女は役目を果たしたとして、今、この瞬間に世界から消えていこうとしていた。

「……ミトどのは、どうなるのだ」

ナルサスの腕に抱かれ、目を閉じたままぐったりとしているミトを見て、ギーヴが呟いた。ひどく感情を押し殺したような声色だった。指の先から砂のように消えていこうとする彼女を、心に焼き付けるように、じっとみつめるだけだった。

「そんな……ミトさま!俺は、俺は……」

主と彼女のそばで、力が抜けたかのようにエラムがぺたりと座り込んだ。呆然として何事か口に出そうとし、手を伸ばしかけるが、彼はそのどちらも自制した。消滅を前にした二人の姿があまりにも静かで運命的だったから、自分がそこへ入ることはできないと感じたのだ。

「みんな、ありがとう……おかげで、役目が果たせた……この世界に残れないのは悲しいけど、それよりも大事な人たちを守りたかったから。今はそれができて嬉しいよ」

わずかに目を開き、ミトは安らかな息をしながらそう言った。そして、最後の力で手を伸ばし、ナルサスの頬を撫でる。「よくできた、ね、ナルサス。ありがとう……」と笑うと、彼の表情が一瞬、歪んだ。

「ミト、どこにも行かないでくれ」と、十年前にも彼女に言った言葉を、ミトの身体が消滅する最後の瞬間に彼は口にしていた。



この八月二十五日は、あまりに多くの事が起こり過ぎて、後の世の歴史家たちは物事の整理に苦労したという。
城門が開かれ物資が届けられたエクバターナ市民は熱狂し、食糧を届けてくれた王太子アルスラーンの名前が多く叫ばれていた。そのせいか、すでに彼が即位したと勘違いした噂まで広がる始末になっていた。
北の塔での魔道士の介入を退けた直後、突然、神がかり的な力を発揮したイノケンティス王が、アンドラゴラス王を羽交い締めにし、そのまま塔から飛び降りて二人ともが亡くなってしまった。そういう奇跡としか思えぬ歴史的な出来事もあった。おかげで騒ぎが落ち着いたあとには、パルス軍同士が争うことなく、アルスラーンが王位に就けることになった。
ヒルメスは夜が明けた頃にひっそりとエクバターナを去っていた。イリーナ姫を伴っていたという目撃情報もある。彼がどこへ向かったのかは誰も知らない。闇夜にまぎれて、歴史の表舞台から姿を消したのだ。
ミトが消えてしまったことも、そうした数ある事件のなかの一つだった。



ミトは、もともとナルサスの身代わりとなるためにこの世界に喚ばれた、外部からの者。役目を終えれば当然この世界との縁を失い、ここから消えてしまうもの。ナルサスもミトもそれをわかってしており、この八月二十五日こそが、ミトの役目を終える日だと薄々理解もしていた。
その最中で、ナルサス自身がミトを刺さねば事態が収束しない状況になったのは、偶然だったのだろうか。
ナルサスが死んだらミトも消えてしまう。
ミトが死んだら予定どおりナルサスが生き残るだけ。

「では俺がミトを殺したらどうなる?」

矛盾は世界の理を破ったのだろうか。だが、他にどうすることも出来ない状況だったとはいえ、とにかくミトは消えてしまった。ナルサス自身の手で胸を貫かれて、死んだのだ。


next
21/23



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -