パルス歴三二四年。アルスラーンが即位してから三年が経つという頃だった。
荒れ果てていた王都エクバターナは復興し、ルシタニアに破壊された用水路も補修が済んでいた。食物も水も十分に供給され、大陸公路として多くの旅人を迎え送り出し、かつての華やかさを取り戻していた。

しかしながら王宮は、アルスラーンの意向で以前のような豪華さではなくなっていた。もちろん、威光を示すために最低限の巨大さとある程度の装飾を施してはいるが、民衆の暮らしへの支援を優先させたのである。
その王宮の日陰にて、宮廷画家と黒衣の万騎長、侍衛長となった少年、ゾット族長の少女が話をしていた。

「もうすぐアルスラーン陛下の即位記念日の準備をせねばなりませんが、併せて、今年もまた慰霊祭を執り行うと決定されました」

昔よりもぐんと背が伸び、青年らしくなったエラムが言う。

「もう三年か」

夢見るような声でナルサスが呟いた。何に対して思いを馳せているのか、口に出さなくてもわかる。他の皆は、無言だった。
慰霊。そこにはいつもミトの名前もあった。
この世界に血縁者もなく、ぽつんと浮かびあがるような名前。死体もなく、墓もなく、本当に死んだのか、いや、それ以前にこの世界に存在していたのかどうかも疑問に思えるほど希薄な少女。
でも、彼らの心には色濃く残る。あの旅の日々が、鮮やかに思い出せる。

「……結局、あのときは他になんの策も浮かばなかった。ああするしかないという点にすべてが収束していたんだろうな。だが、まあ、誰かに殺されるくらいなら、自分で刺した方がましだったというだけだ」
「おぬし……」
「もとはといえばあの少女を巻き込んだのは俺なのだから。俺自身がミトを解放してやらねばならなかったのだと思うよ」

ミトとナルサスの関係について仲間たちに真相を話したのは、ミトが消えてからのことだった。
別の世界から来た少女。ナルサスを守る時まで傷つくことがないミトの身体。十年前に、すでに出会っていたこと。
驚かれはしたが、皆、なんとなく察しがついていたようで、途方もない話を受け入れてくれた。
ギーヴなどは「なるほど、やはり正真正銘、ナルサス卿の女神だったというわけか」と妙に納得したような顔をしていた。

「ナルサス……あたしならいつでも慰めてあげるからね」
「ありがとう、言葉だけ頂戴しておくよ」

以前のじゃじゃ馬のような奔放さを残しながらも女性的になったアルフリードの言葉に感謝を示し、ナルサスは「寂しくはあるが、ミトと再会するまでの十年に比べたら全然平気だ。ミトと一緒に過ごした時間が、今の俺を埋めてくれるからな」と呟いた。



***



ふと気が付いたら、埃っぽい空気で喉をやられて、小さく咳をしていた。
うっすらと黄色に色づく風。目を焼くほどの太陽の光。赤みを帯びた土が足元から遥か彼方まで広がる。その中に点在する緑の木々。踏み固められただけの大地。
だけど、ああ、この場所は。
何かが大地を打つような力強い音が飛び込んできた。陽炎の先から現れたのは、馬に乗った人間の集団だった。荷車も引いている。きっと、街へ向かう行商隊なのだろう。
道の脇へ退き、走ってくる彼らに手を振った。彼らは速度を落とし、目の前で止まってくれた。

「エクバターナへ行きたいのですが、乗せていっていただけませんか?」

確信を持ってそう口に出す。あの日、最初にこの世界に来たときは右も左もわからなかったけれど、今は違うのだ。



***



庭で草木が揺れている。ほどよい日差しの中、光を受けてきらきらと輝くそれらを、ナルサスは絵に描いていた。
何日かかけて色を塗り重ねた画布が、そろそろ完成しそうだった。そこそこ納得のいく出来で、これならダリューンもようやく自分の才を認めてくれるだろう、などと密かに考えている。
けれど、何かが欠落する。絵にも、自分自身にも、あの日以来いつも何か埋まらないものを感じていた。あの日の行動が正しかったのかどうか、いまだにわからない。これから何を目標にして生きていけばいいのかも、悩んだままだった。
愛していたこと、愛されていたことを思い出す。目に映る景色の色彩はずいぶん褪せてしまっていた。彼女が世界からいなくなってからは――



一瞬、強い風が吹いて瞼を閉じた。
ふたたび見た世界は、今までと何も変わるはずがないのに、視界の端で光がふわりと揺れた。

「ナルサス」

陽光がいくつもの筋となって降り注いでいた。名前を呼ばれ、眩しさに目を細める。そこにいる少女のはにかむ姿は、何年も、何度も、失っても手に入れても、ずっと焦がれ続けたものだった。
言葉にならず、絵筆がぽろりと手から落ちる。
駆けてきた少女に思い切り抱きつかれて、椅子からも転げ落ちた。草の上は青々とした緑の匂いがした。

「やっと会えた!」

満開に咲く花のような笑顔が、視界にいっぱいに映った。倒れた自分の上に馬乗りになるようにする少女は、以前よりも髪が伸びて、少し大人びていた。初めて、彼女の時間も自分と同じに流れだしたのだとわかった。

「……また、だいぶ待たされたぞ」

驚きで呆然としながら、そんな言葉を口にした。三年間久しく感じていなかった感情が、胸の中に次から次へと湧き上がって苦しかった。だが、甘く涙が出るようなその痛みに、心がいっぱいになる。

「俺の健気さに感謝してほしいものだ。一途におぬしを思って他のことには目もくれず働き、パルスもここまで復興させた。見たか?数年で、人も経済も建物もここまで復興させたのは奇跡だぞ。我ながら見事なものだ。殿下やエラムも日々成長していて、もうこの国は安泰といってよいな。ミトがいない間に、俺も歳をとってしまったがそれも……」

続きは唇を塞がれてしまい、言葉にならなかった。瞼を閉じる彼女の顔が、重なるように、自分に覆いかぶさる。

「軍師さまは相変わらず小言が多いんだから。いや、今は宰相なんでしたっけ?」
「……。……」

大胆さに驚いて、言うべき言葉がみつからなかった。嬉しいのはもちろんだが、驚きの方が強くて。彼女には、また、いつも、驚かされる。

「……会っていない間によからぬ経験でも積んだのか?」
「そんなこと、ないってわかってるくせに」

笑いながらミトはナルサスの手を掴んで、身体を起こさせた。草の上に二人で座り、じっとみつめあった。そして、今までの時間を埋めるように、ゆっくりと指を絡める。
こういう未来になるとは、思っていなかった。もう二度と会えないのでは、という不安の方が大きかった。日々の繰り返しのなかで少しずつ痛みが薄れていくけれど、一生消えることはない寂しさとともにずっと生きていくのだとさえ考えていた。
でも今、目の前にいて、触れている。幻ではない世界に、二人がいる。

「ねえナルサス。私はあなたが大好きです。なにもかも全部。だからかわからないけど、願っていたら、またこっちに来ちゃった。何度でも、あなたを追いかけて出会う、そのために、私は生まれたんだと思う。もう私にはナルサスを守れるような特別な力はないかもしれないけど……でも、これからこの世界であなたと一緒に生きていくことを、赦してもらえますか?」

長い告白を静かに聞き届けたあとで、ナルサスは「ひとつ訂正してもいいか」と顔を傾けた。落ちかかる髪の一本一本が風に揺れて、きらきらと輝く。

「ん?」
「追いかけていたのは常に俺だった。俺ばかりがミトを見ていたんだよ。ちっとも気付いていないようだったが」
「……それは、だって、ナルサスみたいな人が私をって……」
「それから、ミトと一緒にいることを赦してほしいのは俺の方だよ」

謝罪するように頭を垂れて、ナルサスは手を差し出した。

「……ようやく。ようやくミトと同じ世界に立てた」

躊躇いがちにおずおずと手を伸ばしていたミトの手を、ナルサスは待てないとばかりに自分から掴んだ。いまさらのことなのに、なぜか恥ずかしくなってミトは頬を染めた。

「俺にしては、みっともないほどに時間をかけてしまったが」
「……でも、それくらいでないとナルサスには物足りなかったんじゃないですか?」
「ああ。俺をこんなにも驚かせ、困らせ、満たしてくれるのは、ミトだけだ。俺は、ミトのことが好きだ。俺の生命が尽きるまで、すべてのものからミトを守り、厭というほど愛してみせるよ」
「……うん。お願い、ナルサス。また離れるのは、いやだから」

ミトの目から涙がぽろぽろと溢れた。どちらともなく身体を寄せ、ぎゅっと抱きしめ合う。
「この期に及んで、俺が、ミトを離すと思うか?」と訊かれて、ミトは笑って首を振った。

「二度と離さない。ここへ戻ってきたこと、後悔させるものか」
「うん、うん。私、ナルサスのことが大好きすぎる……」
「俺もだ」



この小さな異変に気付いた仲間たちが、庭の外に集まり出していた。
懐かしい顔、ずいぶんと成長した顔、新しく誕生した顔も、そこにはあった。この世界の人々が、色鮮やかにミトを迎え、祝福してくれていた。

幻でなく、夢でもなく、まぎれもない自分の世界で、ふたりはまた出会った。重なる手のひらのあたたかさ、陽光の眩しさ、乾いた空気も、なにもかも、ようやく本当のことになった。そして、ここから、当然のようにふたりの生活が始まり、世界の一部となり、ありふれた幸せをかたちづくることになる。

きっとどの世界でも、もしも、ふたりが出会うならば――


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