エラムの先導で、東へ向かって駆けていく。
デマヴァント山とエクバターナを往復するのに、どれだけ急いでも数日はかかる。王都にヒルメスが籠城し、アンドラゴラスが城壁の内外から揺さぶりをかけているこの状況で、あえてそこを離れるなど、まともな人間ではまず思いつきもしないだろう。
しかし、エラムから事情を聞かされたミトとギーヴは、意外にもすんなりと納得してしまったのだった。



――結論から言えば、アルスラーンはパルス王家の血をひいていなかった。

タハミーネ王妃と再会し、彼女の口から聞いたのだそうだ。
アルスラーンは、アンドラゴラスとタハミーネの本当の息子ではないこと。タハミーネの生んだ子が女児であったために、他人の男児と入れ替えたこと。アルスラーンの本当の親は、王族とは関係のない中程度の騎士であったこと。彼らは王家の秘密を守るため、すでに殺されていること。

それらを聞かされ、彼自身がこれまで感じていた「自分は何者なのか」という疑問へのいったんの解答は得られた。
しかし、そうとなればアルスラーンには王位を要求する資格はない。そのうえ、もともと彼の運命は押し付けられたものに過ぎなかったとはっきりわかってしまった。
事実を聞いたアルスラーンは、すべてを放棄することもできた。彼がパルスのために自分を捧げる義務は最初からなかったし、彼の王太子たる責任も、抱く必要のないものだったのだから。

しかしアルスラーンは、決然と「デマヴァント山へ往く」と宣言したという。
王位を継承する者の資格としてルクナバードを手にし、自分こそが国王になると決意したのだ。ダリューンやナルサスでさえも、アルスラーンが運命に屈するかどうか、立ち向かうかどうか、最後までわからなかった。その試練を、彼は見事に越えたのだ。



「ナルサスさまはおっしゃっていました。『アルスラーン殿下も、過去の英雄王や聖賢王と同じように、不死の王となられる可能性がある。俺はそれに賭ける』と」

人も国もいつかは死ぬが、偉大な王たちが成したことは人々の記憶に残り、いつかそれを受け継ごうとする者も現れる。そういった意味での不死性を、ナルサスは名も無き騎士の子であるアルスラーンに視たのだ。

「……殿下のお姿を見て、私は、胸が熱くなりました。名もない解放奴隷の子に過ぎない私ですが、ずっと殿下のおともをしたいと思いました」

目を潤ませて言うエラムに、ミトも胸が締め付けられた。
ミトのような不可思議な力があるわけでもなく、高貴な血が流れているわけでもない少年が、歴史を変える可能性をもっている。そのことが、人々にとって一体どれだけの希望となるのだろうか。

「殿下もよくぞ仰せられたものだ。しかし、人生の道は正しく進めても、デマヴァント山への道は俺が案内してさしあげねば迷ってしまわれるかもしれん。急ぎ追い付くぞ、ミト、エラム」

ギーヴもはずんだ声で冗談を言い、速度をあげた。



***



少し日が傾いてから、ミトたちは先行していたアルスラーン一行に追い付いた。
エクバターナ潜入が無事に終わったことを喜びながら、アルスラーンはいつも通りの謙虚な態度で「戻ったばかりですまないが、すぐにデマヴァント山へ向かう。これは私の我侭なのだが……ついてきてくれるか、ギーヴ、ミト」と尋ねた。
それがミトには嬉しかった。彼が彼のままで王になることを、ここにいる誰もが望んでいるのだから。

「はい!もちろんそのつもりです、殿下」
「このギーヴが案内役を務めますとも、殿下」

二人で揃って応えると、少年はこころからの笑みで頷いてくれた。



***



デマヴァント山の禍々しい影が霧の向こうに現れていた。その山の長い裾野の先に、小さな村が一つある。以前にギーヴが単独行をしたときに、この村に立ち寄っていた。
ミトたちはここで食料などを調達し、一晩宿をとって休み、翌日に出立することにした。

村に一軒だけある宿には、当然宿泊客はおらず、貸し切りの状態だった。あまり広くはない食堂に皆であつまり食事をとっていると、食べ終わる頃になってギーヴが不意に「さてご一同」と声をあげた。

「デマヴァント山までにはもう村はないはずです。ここが最後になりましょうから、今夜はゆっくり休んでいくのがよろしいかと」
「そう言いながら、おぬしが手に持っているのはなんだ?」
「たまたま、宿の主人に頂いたので」

ギーヴが掲げていたのは葡萄酒だった。聞けば、戦の最中で街道の往来も激減したため、酒がかなり余ってしまっているという。

「このところ戦闘がなく体も心もなまっているであろう、ダリューン卿」
「む……」

ほがらかなギーヴの様子に、少しくらいならば宴の空気を楽しむのもいいか、という雰囲気が蔓延していく。王都から遠く離れたこの村では、過度な警戒も必要ないのだから。
ギーヴは「さ、殿下もどうぞこちらへ」とアルスラーンにも声をかける。彼とて、ただ騒ぎたいだけではない。何が起こるかわからない明日に向けての壮行会といったところで、彼なりの気遣いなのだろう。

「では、私は部屋の準備を……」
「おいエラム。おぬしも付き合うがよい。座れ座れ」

立ち上がりかけたエラムの腕をギーヴが引き、椅子に座らせる。遠慮がちに視線をあげたエラムと、ミトの目があった。彼が座ったのはミトの隣だった。

「そちらの娘は走り続けて疲れているのだから、おぬしが世話をしてやらねばな」
「ちょっと、エラムだって同じくらい走りっぱなしでしょ」
「……わかりました」
「えっ、エラム!?」
「ミトさま、私からの酒は飲めませんか?」
「う、うう、いただきます……」

酔うとミトの頭がゆるゆるになることは彼も知っているし、一番心配していたはずだが、珍しくギーヴの言うとおりにし、珍しくミトにお酒を飲ませるエラムに、なんだかたじろいでしまう。
ちら、とナルサスの方を見ると、緩んだ様子でダリューンと談笑していた。
「まあ、この面子なら悪酔いはしないかなあ……」とぼんやりと思っているうちに、盃になみなみと注がれていく。

この夜が、この瞬間が、永久に続いてほしい。この先で何かが消えてしまうならば、誰も失わず、誰も嘆かず、すべてが夢の途中のまま。ずっとこのままでいい。それでいいのに。
この歴史を止めたくないと思う自分がいることを、ミトは心の奥底で感じていた。



***



「ふあ、も、飲めないよ、エラム〜……」

食器を脇によけて、ミトは食卓の上にぐったりと伏せっていた。
どれくらい飲んだのか、あれから何時間経ったのか、もうよくわからない。エラムやら、ギーヴやらに随分と飲まされてしまった。汗ばんだ肌に、髪がぺたりとはりついていて、呼吸のたびに小さく揺れていた。

「だ、大丈夫ですよ、ミトさま。私が介抱いたします、お部屋までお連れいたしますので、もう少しだけ……」
「おや、おぬしもこの楽しみを覚えてしまったか?」
「……はっ、い、いえ、ちがいます!」

酒気にあてられたためかエラムもどこか恍惚とした様子でミトに酒を勧めていたが、ギーヴにからかわれてふと我に返る。
周囲を見渡せば、ファランギースのまわりには酒瓶がいくつも倒れていて、彼女の膝で眠りこけているアルフリードがいて。アルスラーンとダリューン、ナルサス、ジャスワントは、部屋の隅で兵法のことなどを熱心に話し込んでいてこちらは気にしていないようだった。

「ミトさま、ここは危険です!わ、私もこのままでは危険……ですので、お部屋にお連れします!失礼いたします!」

ミトを守れるのは自分だけだ、ととっさに思い至ったエラムは、力の入らないミトの身体を抱き上げ、急ぎ食堂から出ていった。



***



食堂から各部屋まで続く廊下は、うっすらと月灯りで照らされていた。月が明るいので星は掻き消されていたが、静かな村ではこのくらい明るい方が都合がよい。神秘的な光に包まれて、ミトの白い肌もぼんやりと浮き上がって見えた。

「……ごめん、エラム、もう大丈夫」

ぐったりとして声もあげなかったミトが、廊下の途中で彼の肩を叩いた。ミトが寝る予定の部屋がすぐそこに見えていたから、ここで大丈夫という意思表示だった。

「あっ、失礼しました。あの、ミトさま、体の具合はいかがですか、調子にのってやりすぎてしまいました……」

エラムはあわててミトの身体から手を離すと、申し訳なさそうに少し頭を下げた。
壁によりかかりながら、ミトは笑って息を吐く。

「いや、私もちょっと飲み過ぎちゃった。けど、他の人たちに比べればエラムは全然優しかったから」
「いえ、その、こんなにするつもりはなかったのですが……」

だんだんと声が小さくなる。視線を泳がせた彼にミトが首を傾げると、「なんというか、ミトさまがとても可愛かったので」と呟いたのが聞こえてミトは思わず「えっ」と声をあげた。
突然のことにミトの心臓がぎゅっとしめつけられる。しかし、エラムがこういうことを言い出すのは今までにもあった。あまり真に受けるとかえって恥ずかしい。

「も、もう、あんまりからかわないでよ」
「いいえ。真剣ですよ」
「え……エラム……」

はっとして顔を上げると、あまり背丈の変わらない少年が月を背にしてこちらをじっと見つめていた。なんとなく後退ろうとしたが、すぐ後ろは壁で、逃げ場もない。
彼の目を見たら、どうしたらいいかわからなくなってしまった。言葉のとおり、確かに真剣で、誠実で、熱っぽく、だがとても悲しそうだったのだ。

「え、えっと……」
「なんだか今日が最後になるような気がしたので、言わせてください」

そう言われてミトははたと気が付いた。
この夜が、この瞬間が、永久に続いてほしい。そう思っているのが自分だけではないことを。
エラムも、他の皆も、ミトについてすべてを知っているわけではない。しかし終幕が近いことは感じ取っていた。長かった戦もじきに終わる。歴史は一度閉じる。そのときに、少女の身に何が起こるのか。

「俺も子供じゃありませんから。俺じゃだめなんだってことはもうわかっています」
「え……?」
「でも、それでも、ミトさまは、俺の初恋でした」

一瞬、すべての音が遠くなり、すべての景色が意識の外にあった。彼の声と表情以外は。
どこか吹っ切れたような少年の表情を、月光が白く照らす。
敬意と慈愛のこもった、こころから好きな人への言葉。
恥じらいはなく、胸をはって、曇りのない瞳を向ける。大きな黒い瞳のなかに、ぼんやりと驚くミトの姿が映っていた。

これは告白だった。少年から少女へのひたむきな想いがかたちとなり、音となり、確かに伝えられた。
それなのに、どうしてこんなに寂しいと思ってしまうのだろう。泣きそうになってしまうのだろう。

「急にすいませんでした。ミトさま。いま言ったことは朝までに忘れてもらえると助かります」

ミトの返答はきかず、エラムは眉を下げて少し笑う。月が彼の姿を照らし、表情は影になっているのだが、柔らかい笑顔だった。

「でも、今だけは俺をそういうふうに見ていただけませんか」
「……うん。わかった」

誰を見るようにかなんて、口にする必要もない。お互いに、ずっと同じ人を見ていたのだから。

そっとエラムの手がミトへ伸び、肩へまわって身体を引き寄せた。
神秘的で、清らかで、愛情に満ちた抱擁だった。ミトも彼の背に手を添わせる。少年だと思っていた彼の腕はずっと強く、背中も大きくて、あたたかい。彼の体温に、意識が緩み、安心してしまう。
いつもならば、こんなことになれば感覚は敏感になり、顔は熱くて心臓はもっとどきどきとうるさいはずだ。それなのに、今はお互いの呼吸を丁寧に感じることができた。

それはしばらく続いたと思う。けれど、時間にしたらきっと一瞬で終わってしまった。
そっと、決して傷つけないように、エラムはミトから身体を離す。名残惜しさは感じなかった。これ以上ないくらいに彼らは愛を伝えあった。

「……ありがとうございました。貴女に出会えてよかった」

年端もいかぬ子どもの純粋な交わりのようであって、宝石を扱うかのような丁寧な作業だった。気持ちの高ぶりを極度に抑えた、それなのに心から満たされるような不思議な時間だった。

「ちょっと、大人すぎるよ、エラムは」

だから、ミトは彼にそう言う。数時間前の子どもの彼がいなくなってしまったわけではないけれど。彼は彼の望むままに振る舞ったのだとしても、そう言うしかなかった。

「いえ、まだまだです。はやく追い付かないと。私が尊敬し、ミトさまが好いておられる御方はもっと立派ですから」
「うん。でもエラムも十分。大好きだから」

酔いなどいつの間にか醒めていた。真っ白な月が空にぷかんと浮いている。いつか夢に見たような夜。少年は渓谷の奥へ帰っていく。

「ではまた明日に。おやすみなさい」


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