ミトはしばらく廊下に座り込んで泣いていた。
エラムがいなくなったら、急にひとりぼっちになったような気がして、はらはらと涙がこぼれてきたのだ。
別れを告げられたわけではない。終わりを告げられたわけではない。満たされた気持ちだからこそ、心が溢れて、最後のことを思って怖くなった。


気持ちが落ち着いてからようやく立ち上がる。いつまでもこの穏やかな夜に留まれるわけではない。それをエラムもミトもわかっていて、境界を越えて互いのかたちを確かめあったのだから。怖くても寂しくても、時間を、進めなければ。

自分に割り当てられた部屋に入り、背中で扉を閉める。ふう、と息をつくと心地よい眠気が戻ってきた。――だが、しかし。

「遅かったではないか、ミト」
「……な、なな、なんでナルサスがここに……」

顔を上げると、夜空を切り取ったように大きく開かれた窓。そこに彼が腰掛けていた。
驚いて息が詰まった。確かに自分の部屋なのに、当然のように彼がいたこと。そして、この光景があまりにも美しかったこと。星の粒が散らばる空を背に少し笑みを浮かべる青年。肩に落ちかかる髪と艷やかな肌のうえを、月の光が滑り落ちる。思いがけず、絵画のような、夢のような、幻のような景色だった。

「……わ、わたしの部屋でなにしてるんですか」

しばらくぼうっとしてから、思い出したように声を出すと、「おぬしを待っていただけだよ」と笑って返される。

「……女子の部屋ですよ」
「いやなら俺の部屋で続きをするが?」
「そういうことではなくて……」

窓辺に腰掛けたナルサスを、ミトは目を泳がせながら眺めた。彼の呼吸にあわせて、月の灯りが髪をさまざまな光に輝かせる。綺麗で目眩がするほどだった。
確かに彼は、戦場には似つかわしくないほどいつも綺麗だけれど。しかし普段と違う空気に、心臓が勝手に高鳴ってしまう。どきどきを抑えようと息を吐くが、それはもうすでに思っていた以上に熱い。

「どうしたんですか、今日は、なんだか……」
「特別に見えるか?」
「はい……」
「そうだな。おぬしさえよければ特別な夜になるかもしれぬからな」
「……それはどういう意味ですか……」

尋ねると、彼の薄紫の目が窓の外に向けられた。同じ方へ視線を向けると、星の灯りの下に、奇妙に起伏した山陰がうっすらと浮かび上がっていた。

「明日、デマヴァント山で宝剣を見つけ出した後は、すぐに王都へ引き返す。そこからの数日で、休む間もなくすべてが決着するだろう」

誰も彼も、終わりが近いことを感じ取っていた。けれど今更慌てることもなく、この状況を静かに受け入れてしまっている自分がどこか寂しくもあった。もっと、みっともなく駄々をこねるくらいの方が愛らしかったりするだろうか?

「……こうしてゆっくり話せるのは、今日が最後になるってことですか?」
「……それは俺にもわからぬが、せっかくなのでな、俺もエラムに倣って言っておくとしよう」
「え?」
「先に言われてしまったが、俺にとっても、ミトは初恋だった」
「……!!」

不意にこちらへ視線を向けたと思ったら、そんなことを言われてミトは目を丸くした。なんと返事をしたらいいかわからず、しばらく呼吸も忘れていたと思う。
気まぐれで甘やかな告白の一方で、ミトの様子を見て、ナルサスはやや不服そうに「どうしてそんなに驚く」と零した。

「いや……エラムはほら、歳が若いからまだ初恋って言われても、そっかぁって受け入れられたけど、ナルサスみたいな人から言われると、なんか嘘みたいなのに生々しいというか、よくわからなくて、妙にどきどきするんですけど……」
「そうか。年齢に合わなくて悪かったな。だが知ってのとおり、俺は十年前にミトに出会ってからずっと、ミトのことを想っていた。その時間に嘘はない」

率直な言葉に、胸がぎゅうと締め付けられる。微かな星灯りのみが照らす彼の横顔が一層綺麗に見えて、その目に映る自分の姿を覗き見て、泣きそうになるほどの幸福を覚えた。

「やっぱり、ナルサスが私をそんなになんて……夢みたい」
「夢ではないよ、ミト。俺はこうしてここにいるとも」

彼は音もなく窓から離れる。するりと距離を詰められ、背が壁にあたった。身体はお互いに少しだけ触れるくらいで、それが余計に感覚を過敏にさせる。ナルサスは壁に手をついて、ミトを見下ろした。
どきどきして、目が潤む。胸が苦しくなって、呼吸が浅くなる。

「触れてもいいか?」
「は、はい」

彼の手が伸び、ミトの髪を撫でた。いつもなら心地の良い感触が、今はやけに鋭く刺激的だった。時折指が耳にふれ、身体がぴくりと反応してしまう。
しかし、いくら待ってもその手はそれ以上触れてくれなかった。
物足りなさでおかしくなりそうだった。今日は、今だけは、もっともっと触れてほしい。これが最後だからこう思っているわけではない。これまでにつみかさなった愛おしさが急に決壊してしまったかのような感覚だった。ちっとも足りないのだ。彼の顔をもっとよく見たい、もっと声を聞きたい、もっと触れてたくさん愛して欲しかった。そうして、自分をぜんぶ差し出しても足りないくらいの熱が胸の奥に広がって、恐怖も寂しさも塗り潰してしまう。

「……ナルサス、お願い。私を抱き締めて……ください……」

耐えきれなくなって、ついに願いを口にする。恥ずかしくて顔が真っ赤になっていたと思う。
すると彼は、満足そうな微笑みを浮かべた。ミトにこう言わせたくて焦らしていたのはわかっているけれど、彼の方も我慢の限界だったような、そんな笑みだった。

「……待っていた甲斐があったな」

背に腕がまわり、強く抱きしめられ、身体が重なり合った。息も出来ないくらいに圧迫されているのに、不思議と苦しさはなく、ただただ彼でいっぱいに満たされる。幸福で脳が痺れ、彼のこと以外にはもう何も考えられなくなってしまう。

「ん、すき、ナルサス、本当に、大好きです……」
「俺もだ」

一言ずつ想いを絞り出すと、聞き届けたあとで彼に押し倒され、くるりと世界が反転した。
つめたい寝台の感触が、やけに現実味を帯びていた。これほどまでに自分も彼も身体が熱くなっているのだとようやく理解する。大きな手のひらが、指を絡めてくる。そのひとつひとつの動作が、扇状的でたまらない。

「今夜だけは俺の我が儘をきいてくれないか」
「……うん、きく……」

うまく働かない頭でぼんやりと返事をすると、彼はそっとミトに耳打ちをする。
途端、その言葉で、目が覚めたようにはっとした。同時に、急激に身体が熱くなる。汗ばんだ肌に髪がはりつき、服も湿っていく。反射的に離れようとするが、両手はしっかり握られているし、彼がまたがっているせいで腰も動かない。

「え、え、えっと……」
「嫌なら嫌だと言っておいた方がいいぞ」

そうは言っても少しも離してくれそうな気配がない。強気な微笑みに、胸がどきりとした。このあとに起こることを想像して、くらくらしてしまう。

「……い、嫌じゃない」
「本当か?俺でいいのか?」
「うん。本当に。ナルサスが……いい。ナルサスになら、ぜんぶあげます」

言ったあとで物凄い恥ずかしさに襲われて、ミトはぎゅっと目を瞑った。かすかな笑い声のあとで、髪を撫でられ「可愛いな、ミト。好きだ」という呟きが聞こえた。
もう、とっくに自分はどうにかなってしまっている。彼のことが好きすぎて、幸せすぎて、身体がとろけてしまいそうだった。もう何も考えられない。今夜だけは、なにもかも脱ぎ、大事なものも捨てていいから、とにかくいっぱいに満たしてほしくて。

「ああ、もう、ナルサス」

自由になった片方の手で、ミトは顔を覆った。恥ずかしくてとてもじゃないが彼を見れないし、こんな顔も見られたくない。

「なんだ?」
「……したい」
「ん?」
「……したいの」
「……」

なぜか長い沈黙になった。少しも動きがないから、時間が止まっているみたいだった。

「あっ、えっ、その……だめだった?」

不安になったミトは慌てて顔をあげ、焦ったような声を漏らした。俯く彼の表情は見えず、恐怖心が煽られる。幻滅されてしまっただろうか、とさらに慌てて、もう一度「ナルサス」と呼ぼうと口をひらくと、突然、それを彼の唇で塞がれた。

「……!」

うけとめきれないほどの愛情を注がれる感覚。はじめは驚いて目を見開いていたが、次第に、その甘さに夢中になり、とろけるように睫毛を伏せた。彼のやわらかな唇が、一度離れ、またすぐに重ねられる。飽くことなく求め続ける行為に、心もからだもいっぱいになる。

「……すまぬ。嬉しすぎて一瞬何も考えられなくなったぞ」

しばらくしてからようやく開放されたが、ナルサスはめずらしく余裕のない表情でこちらを見下ろしていた。ただ、ミトはそんなことに気付けるはずもなく、荒い呼吸のなかで、受け止めきれない、でももっとほしい、などと、ぼーっとした頭で先程までの快感を反芻していた。

「う、うん……そっか……えと、ナルサス、もういっかい……」
「そんなによかったか?」
「……うん」

もはや恥じらいも限界を越えて、よくわからない。ただ素直に頷くと、ナルサスは妖艶といってもいいような笑みを浮かべて、指を絡めた。

「まったく、おぬしのせいで歯止めがきかなくなりそうだ」
「えっ……だめ、そんなの私の方がとっくにおかしくなってるんだから、ナルサスはちゃんとしてて……」
「それはまた。なおさら無理だ」

ふたたび落とされる口付けに、ミトは身を委ねるしかなかった。好きな人の腕の中にいて、深く深く愛される幸せに、今だけはなにも考えずに溺れてしまおう。この一瞬一瞬がなによりもいとしくて永遠に続いてくれてもいいと思う。でもそうはならないから、なおのこと、彼を好きになり、この時間が大切になっていく。



からだが落ち着いてから息を吐く。汗で、寝台がぐっしょりとしていた。幸福な夜は、余韻とともに、まだ、これからもっと深まっていく。この人と一緒にいるならば、もっともっと。
ミトは彼の手をとって、自分の頬に添えた。

「ナルサス。あなたのことが世界でいちばんすきです」

何度目かの告白をする。自分の過去も未来も現在も、すべてが彼のためにあると信じられた。少しでいいから彼もそうであってくれたら嬉しいのだけど、と思って目を伏せると、彼の腕が伸び、ぎゅっと抱きしめられた。

「……俺も、ミトが好きだ。誰よりも何よりも」

雲のない明るい夜だった。彼の顔をみつめて愛おしさに耐えきれなくなり、今度はミトから、唇を寄せるのだった。

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