乾いた大地の上に、何万という軍勢が並ぶ。鉄の匂いが熱風にのって吹き抜けていく。
この地はアトロパテネ。
昨年の秋、ここで行われた戦いでルシタニアが勝ち、その勢いのままエクバターナを占領されてしまった。今、その時と同じように、パルスとルシタニアの軍が東西に座し、睨み合っていた。
パルス軍――正確には、王太子アルスラーン配下の軍である――は、十ヶ月前の雪辱を果たそうとし、ルシタニア軍はかつての輝かしい勝利を再現しようとしていた。
八月十一日。第二次アトロパテネ会戦がはじまった。


このとき、アルスラーンの軍は二万五千。ギスカールの軍は十万だった。まともに戦えばルシタニアが負けるはずがないのだが、いくつかの事情が重なり、結果からいうと、それは覆された。

第一に、ギスカールはパルス軍の総兵力を正確に把握できていなかった。アンドラゴラス、ヒルメスが別々に行動しているのは知っていたが、王太子アルスラーンのことを彼は失念していた。アトロパテネでアルスラーン軍と対峙したときも、それが独立した動きなのか、国王の軍と連動しているのかどうか、最後までわからなかったのである。
ギスカールは有能で計算能力にすぐれた人物である。そのことは、彼のパルス侵略の歴史を見ても明らかだった。だが、おかげでナルサスにとっては「得体の知れた」敵手となってしまった。
ギスカールは有能であるがゆえ、「パルス側はどう見ても兵力が少なすぎる。どこかに多数の伏兵がいるのでは」と疑念を抱き、兵力の一挙投入をためらってしまったのだ。
それに加えて、王都から持ちだした財宝や糧食を守るために二万もの兵を割いていた。以前の戦いでアルスラーンの軍に糧食に火を放たれたことがあったので、警備を強化しなくてはならなかったのである。

「十万人全部に戦わせはせんよ」とナルサスが自信ありげに笑っていたが、見事そのとおりになった。
アルスラーンの率いるパルス軍の兵数を気付かせぬよう、巧みにルシタニア軍を翻弄し、じわじわと戦力を削り、ついに一気に突き崩したのだ。



ルシタニア軍は敗戦した。
側近も次々に討ち取られ、どうにもならない状況となってしまった。それでもギスカールにはまだ自信と執念があった。軍が全滅したとしても、自分が生きてさえいれば、再起してみせる、と思っていた。
しかし、彼がまさに馬に乗って戦場を脱出しようとしたとき、空から黒い塊が降ってきて兜を突かれた。彼は驚いて馬の背から滑り落ち、地面に叩きつけられてしまう。
息をつまらせながら、ギスカールは身体を起こそうとした。だが、銀色の長剣が突きつけられているのに気付き、動きを止める。

「お手柄だな。アズライール」

ギスカールの視線の先で、黒衣の騎士が言うと、鷹が一声鳴いた。

「この御仁が、ルシタニア王弟ギスカールに相違ないか」

黒衣の騎士はさらに言葉を続けた。するといつのまにか自分を包囲していたパルス騎士の中から、ひとりの少女が歩み寄ってくる。
ギスカールは目を剥いた。彼女は、かつて自分を守るために二度も盾になった少女だ。それが今、太陽を背にして、ギスカールへ視線を落としていた。

「……はい。間違いありません」



***



パルス軍の本陣では、黄金の兜をかぶった少年が、左右に騎士たちをしたがえて敵軍の将を迎えた。無論、捕虜であるので歓迎の色は微塵もないが、かといってすぐにでも殺してしまいそうな雰囲気でもない。
武器などを取り上げられただけで手足も縛られずに、王太子の前に引き出されたギスカールは、対話すべき人物からは目を逸らして周囲を見回す。その目は、記憶にある少女を探していた。

「……ギスカール」

やがて視界の端から声がかかる。その方に視線を向け、どこか申し訳なさそうに目を伏せる少女をみつけると、ギスカールは力なく息を吐き出した。

「ふ、おぬしがこちらへ来てくれぬから負けてしまったわ」

先日、彼はミトを自陣に引き渡すようパルス軍へ交渉を持ちかけたが、結局その願いが達成されることはなく、皮肉にもこんなかたちで叶うこととなった。

「……俺はイアルダボートの神にはもう期待していないが、ミトにだけは期待していた。此度もまた救ってくれるのではないかと。実際二度も救われたのだからな。おぬしは俺を導く女神だとさえ思っていた」

彼は、彼を恨むものたちばかりに囲まれながらも取り乱すことはなかったのだが、しかし悲しげな表情を隠そうともしていなかった。

「……ギスカールがここまで来たのは、私の力じゃなくて、あなた自身に力があったからです」

ミトは言いながら、彼の人生に必要以上に立ち入ってしまったことを悔やんだ。そうしなければ彼はどこかの時点で死んでいたのかもしれないが、その運命を捻じ曲げて責任をとれるだけの器がミトにはなかった。
ちらりと視線を向けた先には、ミトの存在を誰よりも想ってくれる人がいて。この身はもう、別の誰かのためにつかうと決めてしまった。

「でも、あなたの願いをきけず、ごめんなさい」
「いや、もとよりこの身体は二度死んでいる。そのうえさらにミトに頼ろうなどと、俺が甘すぎたのだ。ただ……」

ギスカールが急に跪いたので、周囲に一瞬緊張が走った。
しかし、彼に抵抗する気配はなく、ただ、懐かしそうにミトを見上げただけだった。

「ただの一度でよいから、死ぬ前に会いたかった」

二十年も昔。彼がまだ幼く、出来の悪い兄への憎しみも自覚することなく、純粋で聡明な少年だった頃。彼を救ったあの日の少女が、少しも変わらぬ姿で、今も目の前にいる。
――こんな奇跡を自分が手にいれられる訳がない、と彼は自身を嘲笑った。

「……あれから、ひとりで大変だったね。ギスカール」

しかし、彼女はかつて少年にそうしたように、優しい言葉をかけた。
彼ははっと息を呑む。悲しいほどのあたたかさがギスカールの身体に沁みて、もういつ死んでもよいと思っていた心がひび割れ、ふたたび生への執着を思い起こさせてしまった。
まだ死にたくはない。自分の未来はまだ閉じたわけではない。まだいくらでも戦える。戦って、勝ち取れるだけの強さが、まだ自分には――

「……俺をどうするのだ。殺すのか。パルスの王太子」

ようやく王太子へと視線を移したものの、言いながら、情けなくも声が震えている。このあたたかさを思い出してしまったら、途端に死が怖くなったのだ。

「いちいち尋かねばわからぬのか。やっかいな御仁だな」

王太子の代わりに、若い騎士が答える。彼――軍師ナルサスのことはギスカールも見覚えがあった。ミトを渡すよう求めた森で、交渉した相手だった。

「……そうか、やはり殺すのか」
「いえ」

今度の声は、王太子からのものである。

「あなたを殺しはしない。放してあげるから、マルヤムへ行くといい」

その言に、ギスカールは驚き、目を見開く。まず、殺されるだろうということしか考えていなかった。当然だ。いったい何のために生かすというのか。ギスカールは信じられない気持ちで少年を見つめる。

「俺を生かしておいて何の得があるのだ。俺が感涙にむせび、パルスとの間に永遠の平和を誓うとでも思っているのか」
「別におぬしの感涙など見たくもない。吾々がおぬしに期待するのはただひとつ、マルヤム王国にもどり、例のボダン総大主教とやらと、はでに噛み合ってくれることだ」

ナルサスの返答に、ギスカールは沈黙した。
彼を生かしておくのは、偽善でも情けでもない。パルス人どうしが王権をめぐって争うように、ルシタニア人どうしも争わせようというのである。
殺しさえすれば終わるというのに、くだらない時間稼ぎだ、とギスカールは思う。だが、殺してしまうよりもこれがパルスの利益になるのだと、相当はっきり未来を読んでいる者がいるのだろう。国内を安定させるまでは、国の外で争わせておけばよいなどと、まともな人間なら自信をもって言えるはずがないが。

「さしあたり、馬と水と食料をさしあげますので、どうぞご無事でマルヤムの地にたどり着いてください」
「……なかなか見事な算術だ」

ミトをめぐって駆け引きしたときから感じていたが、この軍師は只者ではない。この男に引きずり回されたおかげで、圧倒的優位だった戦に敗れ、すべて奪い返されてしまったのだと、ギスカールは唐突に理解する。
感心したといってもいいほど呆けた表情をする彼に向かって、軍師は「ああ、それと」と言葉を重ねる。

「今後は、二度とミトに近づかないでいただきたい」
「おい。殺気を飛ばしすぎだ」

軍師の脇にいた黒い騎士が少し笑っている。
完敗だ、と悟ると、ギスカールはかえって胸をはった。自分の拠り所であった少女に見放されたせいではなく、自分に運がなく、そしてこの者たちが自分にとって悪魔じみていたためだ。これは、勝てる戦ではなかった。


こうしてルシタニアの王弟ギスカールは、長年探し続けた少女と王都を背にして、西北のマルヤムへと馬を走らせることとなった。
せいぜいボダンめを打倒し、将来のパルスにとってやっかいな存在になってやろうと思いながら。



***



「私としても必死の策でしたが、いまはこれでよいでしょう」

捕虜がいなくなった場で、ナルサスは緩んだ声で言った。先程までの冷酷な表情は消え、やや疲れた様子でさえあった。
それも当然、ルシタニアに比べ少数のパルス軍は休む暇などなく戦場を駆け回っていたのだから。彼だけでなく、この場にいる全員が、休息を必要としていた。
ナルサスがギスカールを解放した理由のひとつがこのためである。
ルシタニア軍の兵のうち戦に参加したのは六割ほどで、まだ後方に戦力を残していた。ギスカールを捕虜のままにしておけば、兵が彼を奪還しようと押し寄せるかもしれないし、パルスにはそれを撃退する余力はなかった。だが、ギスカールを解き放ちマルヤムへと向かわせれば、忠実な部下は彼を追っていくだろう。

ひとまずの危機を退けた王太子の軍は一時的に緊張を解き、今日ばかりはとそれぞれが休養をとることとなった。

「ここまですればギスカール公もおぬしを諦めるだろうな」
「まあ……」
「俺の策は不服だったか?」
「そうではなく……」

ナルサスが敵でなくてよかったと思っただけです、とミトは眉を下げた。すると彼も、俺もミトがあちら側でなくてよかったと心から思っているよ、と返す。
肩にぽんと手を置かれると、この、ただひとつの身体は彼のためのものだ、とやっと安心することができた。

ひとつずつ、駒が進んでいく感じがする。そしてひとつずつ、取り零し失くしていく。終わりが近いことを着実に悟る。
それでも彼の手だけは離してはならないと、ミトは自分に強く言い聞かせた。

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