「お店は私が決めますから付いて来てください。あと一松さんはお財布出さないでくださいね。私がお礼したいだけなんですから」

そう言われたけど言う通りにしておいていいの?と、俺は自分に聞いたが、答えはなかった。そもそもそんな問いに対する引き出しがない。
うちの長男だったら、「ラッキーただ飯♪」とか思うだろうが、これはあてにならない。女の子となにか食べるときって男は必ず金を出すきまりとかなかったっけ?と、よく女の子とデートしているらしい末の弟に訊きたかった。
でも、いつも煩わしい兄弟たちは、今この必要なときには傍にいなくて、自分ひとりだった。
まあ彼女がそう言うならいっか、お礼というわけだし、第一にそんな金も持ってない。

「そういえば名前……」

本当に今更思い出したのでぼそりと呟くと、彼女は「あ、すいません、唯といいます」と教えてくれた。

「唯ちゃん……」

女の子の名前なんて久しぶりに呼んだ気がした。「さん」じゃなくていいか、年下みたいだし、とは思ったけれど、これでは馴れ馴れしいだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、急に、安物のサンダルとか着古したジャージが恥ずかしくなって、俺は彼女の一歩うしろを歩いた。



つれてこられたのはいつも兄弟と飲んでいる安い居酒屋とはちがい、通りに面した小綺麗なバーみたいなところだった。
店の中はけっこう混んでいたから、唯ちゃんはテラスの席を選んだ。外の方が静かで落ち着いていて、俺もそこがいいと思った。
席に着くと、テーブルの上でキャンドルの灯がゆらゆら揺れて、俺と唯ちゃんの顔を交互に照らしていた。ちょっと、おしゃれすぎて、帰りたいんですけど。でもそんなことを言うわけにもいかず、見慣れないメニューをひととおり眺めて結局ビールを注文して、唯ちゃんの話を聞くことにした。

「一松さんはここが地元なんですか?」
「そう。ずっと同じとこに住んでる」
「実家?」
「まあ、そう」
「そっか、なら安心ですね。わたしこの間のことがあってから、一人暮らしがちょっとしんどくなっちゃって、家にひとりでいるとすっごく寂しいんですよ。いままでは彼氏がいるから寂しくないと思ってたけど、二股されてたし、ほんと信じられなくなっちゃって」

飲み始めてすぐに、こちらから話を振るまでもなく、彼女は彼氏の話をし始めた。

「……彼氏とはまだ会ってるの」
「はい、そうなんですよー、だめだと思いつつも、やっぱり好きなんですよね。わたし都合のいい女なんですかねー」

唯ちゃんはさっそく酔いが身体にまわってきたみたいで、ヘラヘラとした笑みを浮かべながら自嘲していた。それを見てたらなぜか胃がむかむかしてきたので、俺は「いつもこんなとこ来てるの?」と話を変えた。

「あ、ここは家が近くて。いつもはもっと安いとことかも行きますよ」
「ここならうちも近い」
「えっほんと?やったあ、ラッキーですね」
「なにが?」
「だってそれならまたいつでも会えるじゃないですか」

彼女は笑ってグラスを揺らしていた。俺はなにも答えられなかった。
正直、あんまり何度も会う気はなかった。(二股していたことを除けば)まともな彼氏がいる女の子と会って、俺になんのメリットがあるというんだ。
今日の食事で彼女が俺に恩を返したとすれば、もう会う理由なんてなくなると思っていた。ここから先は、俺は恩人ではなくただのひとりの人間になってしまう。だから、距離を縮めようとする彼女から、どうにも逃げたくなってしまっていた。

「一松さんって普段なにしてるの?」
「そのへんぶらぶらしてる」
「そうじゃなくて。えっと、まさか学生さんではないでしょ?」
「まあ、フリーターみたいな」

なぜからしくもなく見栄をはってしまった。店に向かいながら、彼女の彼氏は大企業に勤めていてイケメンだとかなんとかくだらないことを聞かされていたせいだ、きっと。
さすがにニートとご飯だなんて、彼女に申し訳ないから。

それから唯ちゃんは自分のことや彼氏の話をいろいろと俺に聞かせた。
俺の話はあまりしなかった。だって、口を開いてなにか自分のことを話そうとしても、なんにもなかった。自分が無職で社会の燃えないゴミだってことを、自分から話す気になんかなれるはずがなかった。



***



最初の話のとおり、彼女は会計をカードですませ、俺に「行きますか」と声をかけた。
久しぶりに美味しいご飯と美味しいお酒をご馳走してもらった俺は、ふわふわとした気分になっていた。それは、気を抜けばしあわせか何かと錯覚してしまいそうな、浮ついた気持ちだった。

「一松さん、今日はありがとうございました、ではここで……」
「あ、送ってく……」

店に出るとすぐにこちらに向き直った彼女に、俺は意外にも普通の男が言いそうなことを口走っていた。きっとお酒を飲んで気が大きくなっていたせいだろう。

「こっちの方面なんですけど大丈夫ですか?」
「じゃあ近い」

唯ちゃんもとくに嫌がる様子はなかった。俺たちは自然に並んで道を歩いた。



しばらくまた他愛もない彼女の話を聞いていると、「あ、ここです」と唯ちゃんは足を止めた。
それは白くて新しくて大きなマンションだった。ニートの自分は、この建物の前にいるだけで消滅してしまいそうなダメージを受けるはずなのだが、そんなことよりも今は別の衝撃の方が勝っていた。
全然そんなつもりはなかったのに、彼女の家の場所を知ってしまった、ということ。



***



飯をおごってもらったのは俺の方なのに、唯ちゃんは何度も何度も頭を下げてお礼をして、やっと家に帰っていった。
可愛くて、優しくて、自分ともふつうに話ができる女の子。
正直ここ何年も、こんな女の子とは出会っていなかった。だから、嫌でも、彼女は特別な女の子なんだと思わざるをえなかった。俺にとって特別な。俺のことを遠ざけずに傍にいてくれる女の子。”今のうちは”。

俺は唯ちゃんがいなくなったあとも、しばらくの間マンションの前でぼーっと突っ立っていた。
別になにかを待っていたわけじゃない。ただ、考えごとをしていて動けなかった。
彼女はどうして自分に優しくしてくれたのだろう、たった一度声をかけただけなのに、何千円分もおごってくれて、俺はそんな価値のある人間に見えたのだろうか――
思考がだらだらと引き伸ばされていたとき、俺はこちらへ走ってくる人影をみつけてぎょっとした。
なぜか、家へ帰ったはずの唯ちゃんが走って戻ってきていた。

「あ、一松さん、よかった!まだいた!」

唯ちゃんは鞄も持たず、上着も着ていなくて、スマホだけを握りしめて、俺の前で安心したように笑っていた。見送ったにも関わらずいまだにマンションの前に突っ立っている俺への不審感なんてまったく抱いていないようだった。

「あの、連絡先きくの忘れてて、教えてもらえませんか?」
「……また会う?」

なんでそんなことを訊いたのかは自分でもよくわからなかった。会ってくれるの?会ってもいいの?会いたいの?という疑問が頭の中を通りすぎていく。

「いやですか?」
「……ん、別にいいけど」

彼女を踏切の中でみつけた日には断った連絡先の交換が、最先端の技術であっという間に済んでしまった。それこそこちらの思想など挟む余地もなく、お互いのデータがお互いの端末におさまった。

「あと、その……用意してたお礼、いまでも渡せるんですけど、次に会ったときでもいいですか?」

なんでそんなことするんだ、と俺は思ったけど、口をつぐんだ。まさかまた会うための口実ってやつか?いやいや、間違えるな、唯ちゃんが俺に気があるわけがない。ただ、静かに話を聞いてくれる人がいてほしいだけなんだろう。
他人と友達の間、ぎりぎりの距離を保ってくれる人物を、彼女は求めているだけだ。

「……いいよ、次で」

俺は彼女に近付きたくなかった。近付いたら、俺のことを知ったら、きっとがっかりさせてしまうから。
しかし、次に会うことは承諾していた。
ほとんど他人の今のままなら、案外気楽に楽しめるのかもしれないと、俺にしてはひどく楽観的に思ったから。
俺は彼氏持ちの彼女の方に一歩踏み出す度胸はないし、彼女も俺の方にこれ以上歩み寄ってはこない。ずっとこのまま、どうせ他人なんだ。


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