そういえば、女の子と綺麗なバーでご飯だなんてほとんど人生ではじめての夜だった。
家に帰ってからもなかなか寝付けなくて、薄闇のなかぼんやりと目を開けると、自分と同じ顔をした兄弟たちがしあわせそうに眠りを貪っていた。いつものと変わらない風景。生産力のないニート6人。
ずっとそうだと思っていたけれど、今夜は自分だけが別のいきものになってしまったような気がした。まともな女の子と食事をして、連絡先を交換して。自分だけが、あんなきらきらとした体験をした。一番生きる気力がなくて、一番人と関わりたくないと思っている自分が。
目を閉じても、少しも眠くならなかった。しかも暗闇のかわりに、さっきまで会っていた女の子の顔が浮かんできてしまったので、俺は思わず目を開けた。
女が絡むとチョロいのはチョロ松兄さんであって自分ではない。女の子にあざとく付け入るのは末弟であって自分ではない。じゃあ松野一松は、女の子の前ではいつもどうしていたんだっけ?



結局ほとんど眠れずに、翌日は目の下に大きなクマができてなおさら無職感が増してしまったので、俺はマスクをして顔を隠した。
兄弟たちはすでにばらばらに家を出ていっていた。
自分も、家にいてもすることがないので、いつものようにネコを探しに外へでかける。

「……ここ、歩いたんだっけ」

昨日唯ちゃんと並んで歩いた道に出て来てしまったとき、昨夜のできごとがあまりにも自分のこれまでの生活とかけ離れていたと思い知らされて、あれは夢だったんじゃないかという錯覚に陥った。
それで記憶を取り戻すために、同じ経路を辿ってみると、当然といえば当然なのだが、唯ちゃんのマンションの前に辿り着いてしまった。

連れてきたネコが、まんまるの目で白い大きなマンションをみつめていた。
こんなところに住めたらいいよなあ。どんな生活しているんだろう。今日は平日だし部屋にいないだろうけど、洗濯物とか干しっぱなしにしてるんだろうか。
ぼうっとそんなことを考えて、しばらくマンションの前をうろついていると、突然背後から「一松さん?」と呼ばれて、俺は悲鳴をあげそうになった。
ネコが驚いて腕から飛び出す。恐る恐る振り返ると、仕事から帰ってきたのだろうか、きちっとした恰好をした唯ちゃんがいて、俺を見ていた。

「どうしたんですか?」
「いっいや、たまたま通りがかって」
「あれ、具合悪いんですか?」
「べ、別に」

マスクをして目の下にクマまでできている俺のことを、唯ちゃんは素直に心配してくれているようだった。表情が半分隠れていることにほっとしてしまう俺の気持ちなんて、彼女のようなきらきらした女の子には一生わからないんだろうな。

「今日ひまなんですか?よかったらうちでご飯でもどう?」

そう訊かれて俺の下腹のあたりが疼いた。いや、心臓のあたりだろうか、ぎち、と音を立てて苦しくなる。なんでこんな簡単に一人暮らしの部屋になんか招き入れようとするんだこの子は。こっちがひとりで変な気分になってるのがばからしく思えてくる。

「い、いや、やめとく。あんた彼氏いるし」

正直部屋に入ってみたい気持ちはあった。
可愛い女の子がどんな部屋で一人で生活しているのか興味がないといえば嘘になるし、その空間にふたりきりになったときにどうなってしまうか、といったことも想像していなくもなかった。
それでも良心みたいなのが勝って、ぷいと目を逸らして断ると、唯ちゃんは「えー」と語尾をのばして少しだけ残念そうな顔をしていたので、不覚にも胸のあたりがどきりとした。

「じゃあここでちょっとだけ待っててくださいね」

唯ちゃんはぱたぱたと駆けていって、マンションの中へ入っていった。「待て」と言われたので、賢いペットよろしく大人しく待つことにした。
いつの間にか逃げ出したネコが足元に戻ってきていたので、手持ち無沙汰になった俺はネコを抱き上げた。耳と耳の間をもふもふと撫でると、やはり不思議なほど気持ちが落ち着いた。

やがてまた小走りで戻ってきた唯ちゃんは、ネコを抱いてぼうっとしている俺を見て、やたら嬉しそうに笑っていた。

「ふふふ、一松さん」
「ん」
「これ、遅くなりましたけど、助けていただいたお礼です」
「え……」

あれ、なんで。と俺は声に出しそうになった。
たしか昨日は、要するに「お礼は次に会ったときに渡したいからまた会って」的なことを言われたと思ったのだけれど、あれ、勘違いだった?
差し出された紙袋を受け取るのを躊躇している俺に、唯ちゃんは首をかしげた。悪いけど、受け取りたくない。だって今はこれしか次に会う口実がないのに、俺にこれを渡すってことはもう。

「もしかしてもう会いたくなくなった?」

ぼそ、と呟いた言葉に自分でも驚いていた。唯ちゃんが一瞬目を丸くする。
無職の分際で何を言ってるんだ、俺は。昨日の今日で、家の前をうろうろされていて、ストーカーみたいだとか気持ち悪いとか思ったに決まってる。最初からこんな女の子は俺とつりあわないってわかってたのに、どうしてそれでも縋ろうとしているんだ。

「なに言ってるの一松さん。また誘うからだいじょうぶだよ」

彼女から顔を背けていた俺はあわてて視線を戻した。
自分の指先に優しくなにかが触れていたからだ。唯ちゃんの指だった。固くなったこころを解くように、唯ちゃんにされるがまま手をひらいて、俺は紙袋の取っ手を握らされていた。
唯ちゃんに触れられた部分が、汗でじんわりと滲んでいた。頭がぼうっとして視点が定まらなかった。

「じゃあね、一松さん。それ、一松さん見てたらはやく渡したくなっちゃったんです。また連絡しますね」

唯ちゃんは俺の抱くネコに顔を近付けて、慈しむように頭を撫でていた。ネコはしあわせそうにひと鳴きする。
俺はそんな光景を見下ろしながら、その手で俺を撫でてくれればいいのに、と思っていた。



***



紙袋は小さめだったが、意外と重さがあった。家に帰ってから兄弟にみつからないように、こっそりと高級感のある包みを開けてみると、中から出てきたのはネコの絵の描いてあるカップだった。
調べてみたら海外のブランドもので結構高価らしい……。まるで王女かなにかのような繊細さをもつネコの表情は、自分が路地裏で出会うネコたちとはちがって芸術品みたいだし、取っ手もネコのようにしなやかな曲線を描いていた。

「俺がネコ好きだから、ね……」

好みにあわせてわざわざ用意してくれたのか、と思うと、意図せず笑いがこぼれた。



正直、兄弟たちのいる前でこれを使ったら絶対何か言われるだろうし、へたすれば壊されたり売り飛ばされたりするかもしれないが、見せびらかさずにいられなかった。
こんなことをするなんて、自分でも珍しいと思うのだけど。

「一松兄さんどしたのこれ、すっごい高そうなんだけど」
「……ひろった」
「はあ?」
「でもこれ、俺のだから」

ちゃぶ台の上に置いてお茶を飲んでいたらすぐにめざとい弟が寄ってきたので、俺はにやっとした笑みを浮かべるのだった。


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