松野一松は、猫背で口数が少なくて眠そうな目をした人。

薄目をあけて見た冬空の星と星をつなぐように、彼の印象がぽつぽつと心に浮かんで瞬いた。
あかりのついていない部屋に月光が満ちていく。ベランダは銀河の端みたいに暗く、私はそのほとりに一人立っていた。

数日前、この部屋で私は松野一松さんに告白されたけれど、その返事はまだできていない。

一松さんと出会ったのは私が踏切の中に立ち尽くしているときで、あの時は死んでもいいと思っていて、そんな気持ちにさせたのは今私が付き合っている人が原因だった。
その人のことが好きで好きでたまらなくて、その人とともにいる自分が自分のすべてだと思い込んでいた。
だから彼が私以外の女の人とも関係をもっていることを知ったとき、自分のすべてを裏切られた気がして、彼に「お前には価値がない」と言われたような気がして、私は踏切へと進んでいったのだと思う。

とはいえ別に大それた気持ちではなかったのかもしれない、と今になって思ったりもする。仕事で嫌なことがあったり、彼から大事にされてないと思うと軽率に死にたくなったりするのは常のことだった。誰かから大事にされない自分のことが大切に思えなくて、可愛がれなかった。
あの日の一松さんにはそれを見抜かれていたような気がする。そのせいか、彼は、私に明確な救いの手を差し伸べてはいなかった。
結局のところ、私は一松さんの声をきっかけに本当の恐怖に気付いただけで、自分の意志で死の淵から一松さんのいる生の岸に還っただけだった。

もしあの時一松さんが声をかけてくれなかったら。私はそのままあそこに立ち尽くしていたのだろう。
一松さん自身はあまりそうは思っていないのかもしれないけれど、彼は紛れもなく私を救ってくれた恩人だった。
それなのに、私の前でも、一松さんの言葉はほとんどいつも「俺なんかが」とか自分を卑下するものばかりだった。
誰かの期待に応えられないのが怖いから、初めから期待させないよう、ひたすら自分を小さく見せようとしていたのだろうか。私の目にはどんなふうに見えているのかも知らずに。

特別な何かを持っている人ではないけれど、思い出す一松さんの姿にはどれも謙虚なあたたかさがあった。
待ち合わせした居酒屋の前で、彼が私を待っているところを見ると、どうしようもなく安心してほっとしてしまっていたのだと今更になって気付く。

私も彼も、自分を大切に出来ないという共通点があった。でも一松さんはどういうわけか私の誘いには必ず応じるし、私に対してとても一生懸命みたいだった。

「俺、唯ちゃんの彼氏になりたい。今の彼氏よりもずっと大事にする。一生大事にする」

そして私のことを、一生、大切にすると言ってくれた。
いきなり「一生」だなんて、恋愛のことをなんにも理解していないみたいで、まるで子供のような告白だ。けれどその幼さが、私は涙がでるほど嬉しくていとおしかった。

依存していたのは、肯定されていたのは、「私の方だったのかなあ」。

息を吐いたらしばらくの間空中で白くきらきらと輝いてから、跡形もなく消えてしまった。愛情も、一瞬でいいからその姿が見えるとしたら、どんな形、色をしているんだろう。

私はスマートフォンを手にすると、画面上に見慣れた名前を探して、電話を掛けた。

「もしもし、うん、そう……会って話がしたくて」



***



二週間も待っている間に、街はすっかり冷え込んでいた。
唯ちゃんは告白への返答を「一週間待って」と言っていたのに、もうその倍の日数が、死んだように過ぎていっていた。
なんにも手につかなくなって、ここ数日何をしていたかほとんど記憶がなく、空気中の塵がきらきらと舞うのを居間で横になって眺めていたことくらいしか思い出せない。

「最近一松兄さんどこにも出かけないよね〜……」
「あー、確かに」
「あの女の子の家に泊ってきてから変だよね。ふられちゃったのかなあ……」
「おい、そっとしとけよ、トド松」

あいもかわらず居間に寝そべって、テレビを見るわけでもなく、どこでもない場所をみつめる俺に、さすがに兄弟たちも不安になってきたのか、声を顰めるようになった。
今も、末の弟と一番上の兄が自分のことを話しているが、聞こえないふりをして目を閉じる。
普通だったら、こんなに連絡もなく待たされたら、しかも当初は一週間の約束だったのにそれが二倍になるなんて、気がおかしくなって彼女のことは忘れるよう努力していたのだろう。
でもなぜか違った。彼女は必ず俺を選ぶという自信があるわけでもないのに、諦めているわけでもないのに、不思議と何十年でも待っていられるような気がした。むしろ答えなんて聞かなくてもいいと思っているのかもしれない。彼女の返答を聞くまでは、俺は唯ちゃんに受け入れられてもいないし拒絶されてもいないことになる。シュレーディンガーの猫でいい。現実を直視するのを恐れるあまり、箱を開けるのが怖くて、失う可能性はもちろん手に入れられる可能性すらも放棄して構わないと思っている。松野一松という男はどこまで行っても本当に憶病で救いがなかった。

とはいえ、実際のところは、連絡なんてなくていいと自分に言い聞かせながら、彼女からまた呼び出されるのをずっとずっと待っているような気がする。この擦り減らされた精神では何を考えてもよくわからないのだが。

「大丈夫かなあ一松兄さん」
「まあもともとこんな感じだけど、さすがにお兄ちゃんも心配になるわ」
「……僕ちょっと聞いてみようかな、あの子に」
「えっ、連絡先知ってるのトド松?」

彼らの話し声で、不意に身体に意識が戻った。
ぐるりと視線を向けると、トド松の手にはすでにスマホが握られていた。止まった時間を無理やり進めるみたいに、その指が画面を滑っている。

「けっこう前だけど、街で偶然会ったから聞いちゃったんだ。一松兄さんには内緒にしてよ」
「……トド松」
「はひ!?に、兄さん……」

久しぶりに発した声は枯れていた。抑揚のない響きに、名前を呼ばれた弟はびくりと肩を跳ねさせて、小動物のような瞳をこっちに向ける。
俺がのそりと身体を起こし、口を開くのを、トド松とおそ松兄さんはじっとして待っていた。

「……別にいいから。唯ちゃんに連絡なんかしないで」
「で、でも僕心配で……」
「いいって。唯ちゃんからそのうち連絡くれるから、待ってるの」

自分でもどうにもできないのに、他人に余計な介入をされて、あまつさえ聞きたくもない答えを得てしまったとしたら、一生忘れられない傷になってしまう。
兄弟にもこんな姿を見られるのは嫌だった。臆病で何もできないのに、そのくせ何も諦められない僕。視線に耐えきれず、ふたりに背を向ける。すると背後から「でも、兄さん」と思いもしなかった声が飛んできた。

「じゃあいつまで受け身で待ってるつもりなの、本当は自分でどうにかできるところを、放棄してるんじゃないの」

最近は喧嘩もほとんどしないし、めったにつっかかってくることがない末の弟が、諌めるようにそう言った。
驚いて振り返ると、ふたりとも真剣な表情をしてこっちを見ていた。家の中でこんな状況になったのは、いつぶりだろう。ひょっとすると思春期の頃くらいまで遡るんじゃないか。
どうして俺なんかのことで、他人がそんな顔をしなくちゃならないんだ。呆然としていたら、今度はおそ松兄さんが「一松」と穏やかに名前を呼ぶ。

「なあ、お前はまだ大丈夫とか思ってるかもしんないけど、ぐずぐずしてたら女の子なんかすぐにどっかいっちまうからな」
「……」
「お前のこと待ってるのは案外唯ちゃんの方だったりして」

自分の脳の中で異なる考えが議論しあってひとつの答えを導き出すのに似ていた。
僕がみんなで僕たちは僕。誰かに言われたのとは違う。これは自分の結論と等しかった。
彼女のことを考えたら、身体中がざわつき始めた。いてもたってもいられなくなって、スマホを握りしめて家を飛び出した。

寒空の下をしばらく走ってから急いで画面を開き、目的の名前を探す。
家族の連絡先くらいしか登録していない電話帳の中で、彼女の名前だけが特別な光を帯びていた。無機質な文字の並びだけなのに、こんなにいとおしい。
彼女に電話を繋げようと、名前に触れると、じわりと心の温度が上がった。

その時、いきなり指先から音が鳴り出した。
あまりの驚きと動揺で、息が止まりそうになる。同じタイミングでお互いのことを考えていたなんてときめきを覚える余裕もなかった。
画面には唯ちゃんの名前があって、彼女の方から俺に電話がかかってきていた。

さっきまでは答えなんか聞かなくてもいいとか思っていたのに、受話器を持ち上げるのに、なんの躊躇いもなかった。
その声が機械を通して出るだけのただの音だとしても、俺の望む結末を告げようとそうでなくとも、ただ、なつかしい唯ちゃんの声が聞きたかった。

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