「もしもし、一松さん?」

電話が繋がり、彼女の声が聞こえた。久しぶりに聞く声は、緊張しているのかどことなく固いのだが、紛れもなく唯ちゃんのものだった。

「……はい」

まだ何も話していないのに、もう手が震えている。
告白の返事をようやく聞けるのだろうか、と安心したのは一瞬で、すぐに期待と恐怖がまざりあって襲いかかってきた。その重みは何年も避けていて耐性がないし、数秒後には心臓が破裂してしまうかもしれないと思うほどだった。

「ど、どうしたの、唯ちゃん」

「元気だった?」と雑談を挟む余裕も、彼女のペースに合わせる余裕もなかった。待つだけなら散々待ったのだし。この電話をかけてきた理由をとにかく知りたくて、気が逸ってしまう。

「うん……えっと……」

電話の向こうで唯ちゃんは深呼吸しているようだった。微かな息遣いが、機械を通した音となって耳に染みる。
唯ちゃん今どんな顔してるんだろう。唯ちゃん、声だけじゃなくて、唯ちゃんに会いたい。

「一松さん、私とうとう別れたよ」

その声には、何かがふっきれたようなすがすがしい響きがあった。彼女の中のわだかまりが消え去り、晴れ間が見えたような。
それは俺の方も同じで、彼女があの男を選ばず、そして彼女を縛るものがなくなったことに、正直心の底から安堵した。
でも、そうしたら次に彼女は誰を選ぶのだろうか。
俺に連絡してきたということは、と考えたとき、口元が隠しきれないほど不自然なかたちに歪められた。

「……そっか、おつかれさま。……で?」

先ほどとは違う感情、びりびりとした興奮がつま先まで駆け抜けていく。
ほとんど確信に近い期待で胸がいっぱいだった。彼女の言葉を待つ時間が刻々と流れていくのを永遠のようにも感じながら、数回、瞬きをする。

「うん、整理がついたからその報告と、あとは……ちょっと時間がかかっちゃったけど、はやく一松さんに会いたいなあって思って……」

彼女の声が耳に入ってから、じわじわと昂奮が身体を巡って、目頭まで熱くなった。
今にも雪が降り出しそうな空の下にいるはずなのに、指の先まであたたかい血が流れているのを鮮やかに実感できる。

もういいよね、と自分に語りかける。
彼氏と別れて、そのあとに俺に会いたいだなんて、もう彼女の答えはほとんど決まっているはず。
そう考えた瞬間、恐怖のために抑えつけていた感情が決壊したように溢れ出した。
彼女のことが好きな気持ちとか、自分に自信がないこととか。それでも彼女のそばにいたくて、自分が彼女を愛するように彼女にも愛されたいと思っていることとか、胸の底に沈んでいたすべてが舞い始める。

「今すぐ行くからどこにいるか教えて」

いてもたってもいられなくなって急いでそう伝えると、彼女は少しだけ困惑したように「これから家に帰ろうとしてるから、家の前とかで待っててくれたら……」と答える。苦笑いしているのが目に浮かんだ。
けれどもう待つのは嫌だった。今すぐ追いかけて彼女に会いたかった。

「会いたいの。どの道から帰るか教えてよ」

自分でもあまりの必死さに笑いがこみあげそうになった。でも彼女は笑わず、真面目に居場所と帰るルートを教えてくれて、電話はそこで終わった。



***



荒い呼吸を整えて、やっとみつけた彼女の後ろ姿をじっと見つめる。走っているときは風が当たって寒かったけれど、立ち止ると、身体が熱くなって汗が滲んだ。こんなに真剣に走ったのは何年ぶりだっただろう。
本当に、唯ちゃんに関わると、失くしていたものがどんどん蘇ってくる。
やや坂になった道をのぼっていく彼女の背中を、崇高な絵画に触れるかのような気持ちで眺める。
彼女は自分にとって、何にも代えがたい特別な人だった。じり、と高まっていく気持ちに押されて、足が自然と前へ出た。

「唯ちゃん!」

気付くと自分でも驚くくらいの大声で彼女の名前を呼んでいた。幸い、道に人影はなく、振り向いたのは彼女だけだった。
目が合ったら、心臓が止まりそうになった。
久しぶりに顔を見られただけで嬉しいのに、彼女は全部わかっているような表情で俺を見て微笑んだから。
やっと、こっちを見てくれたんだなって気がする。その背中を追いかけて追いかけて、ようやく追いつける。彼女の手を掴むまで、あと少し。
一歩ずつゆっくりと彼女の方へ近づいていく。坂の上、ずっと俺の先を歩いていた彼女は、立ち止って俺のことを待っている。あと5歩分ほどの距離になったとき、唯ちゃんは「一松さん」と口を開いた。

「一松さん、この間言ってくれたこと、まだ変わってない?」

どこか不安を感じているように眉を下げて、彼女は俺に問いかける。

「俺が唯ちゃんを好きってこと?」
「……うん」
「この2週間で変わるくらいなら最初から言ってないんだけど」
「うん」
「俺、本気だよ。本気で唯ちゃんのこと好き」

彼女はぎゅっと唇を結んで頷いた。しっかりと俺の目を見ているから、こっちも逸らせない。
本当に真剣に、彼女のことが好きで、愛してみたいとはっきり思っている。今の自分の気持ちだけは、誤魔化せるようなものじゃなかった。

「俺はまだ全然唯ちゃんの隣に立てるような人間じゃないし、たぶん一生かかっても無理……かもしれないけど、好き。これからもずっとね」
「うん」

ゆっくりと慈しむように道を踏みしめ、5歩分の隙間を埋める。
これが最期の呼吸になってもいいと思いながら、息を深く吸って、吐いた。

「唯ちゃんは?こんな俺のこと好きになってくれる?」

やや背の低い唯ちゃんの顔をじっと見つめて、一番聞きたかったことを口に出す。でもそれは一番聞くのが怖いことでもある。ああもう唯ちゃんと出会ってから、何回こんな体験をしているのだろう。いい加減慣れればいいのに、この恐怖さえも、本当のところは自分が真剣なんだと思えて嬉しかった。

「うん。私も、松野一松さんのことが好きです」

彼女の唇が紡いだ言葉は、俺が一番欲しかった言葉だった。
心臓が聞いたことのない音を立てる。感じたことのない感情が胸に溢れて、もうどうしたらいいかわからなかった。
頬を赤く染めながらこっちを見上げる彼女があまりにも可愛くて、思わず視線を逸らしてしまう。

「……ねえ、なんで、俺なんかのこと好きなの?」

彼女は俺のことを好きだと言ってくれたけれど、やっぱりまだ自信はないし実感もない。幼稚だとは思うけれど、なんで俺?と尋ねずにはいられなかった。

「いろいろあるけど、まずは初めて会ったときに助けてくれたことと、私に対して一生懸命なところが嬉しかったの」
「……」

唯ちゃんに対して必死だったことばれてんじゃん、と思ったら顔が熱くなってしまった。そんな俺を見て彼女は穏やかに微笑んだ。俺の好きな彼女の笑顔だった。

「それから、言葉にできないくらい、本当にたくさん好きなところがあるよ」

そんな言葉を他人にかけられたのは初めてだった。
心が底の方から思い切り揺さぶられて、じーんとして泣きたい気持ちになったのは俺の方なのに、なぜか彼女も目を潤ませていた。

「ねえ、それ、う、嘘じゃないよね」
「嘘じゃないよ、本当に真剣だよ」

一生懸命に頷く彼女を、視線を泳がせながらちらちら見ていた。
追い付けたけど、なんとか彼女の隣に立ってはいるけど、やっぱり彼女の光は眩しくて、俺はもっとそこへ近付かなければいけないんだと改めて思う。

「俺は人としてだめだけど、唯ちゃんのことは大事にする。もう、唯ちゃん以外考えられない。唯ちゃんがいい」
「ありがとう。私、その言葉をずっと待ってたのかもしれない」

嬉しそうに言って彼女は睫毛を伏せた。俺と一緒にいたら、唯ちゃんをずっと大切にしてあげるし、ずっと唯ちゃんが一番に決まってるでしょ。
でも本当に唯ちゃんの一番も俺でいいのだろうか、といつもの不安に襲われたから、もう一度確認したくて彼女の目を見る。

「ねえ、本当に俺なんかでいいの」
「そう、一松さんがいいの」

少しも躊躇わずはっきりそう言う彼女に、俺は引き寄せられるようにおずおずと手を伸ばした。初めてでやり方もわからないから、ぎこちなく背中に腕をまわして、彼女に抱きつく。
今が冬でよかった、とぼうっとする頭で考える。着込んだ衣服の上からでも、彼女のやわらかさがわかってしまうのだから。

「……俺のこと好きになってくれて、ありがとう。お礼に唯ちゃんのことずっと大切にする。もう、後戻りも後悔もさせないから」

ぎゅうう、と音が出るくらい強く彼女を抱きしめると、「ありがとう。でも一松さん、ちょっと苦しい」と小さな悲鳴があがった。

「ごめん、力加減わからなくて……でも離さない」

やっと捕まえたんだから、と闇雲に抱き締める腕に力を込めていたら、彼女の手が優しく背中を撫でた。

「大丈夫、どこにもいかないよ。続きは家で話そう」

そう言われてようやく思い出したけれど、ここは道端だし、寒空の下で、気付いたら彼女の手もかなり冷たかった。

「……ごめん。俺、必死すぎだよね」
「そこも好きだからいいんだよ」
「……手、繋いで帰ろ」

恥ずかしくてそっぽを向きながら手を差し出すと、彼女は「はい」と笑いながら俺の手を握った。ひんやりとした感触が、汗でべたりとした俺の手にはりつく。

「……こういうのがいいの」

そうじゃなくて、と言いながら、指を絡めるようにして握りなおす。お互いの体温が深く混ざり合う心地がして、心臓がどきどきと改めて騒がしくなった。

「あのね、わたし一松さんに助けてもらったあの瞬間から、一松さんのために生きてたのかもしれない、と思うの。あのときに私は一度死んで、それで生まれ変わって、一松さんと出会ったような気がする」

同じ方向を向いて歩きながら、彼女は丁寧に言葉を紡いでゆく。
確かにあの踏切の中は生死の境があいまいになっていた気がする。彼女は生きてもいるし死んでもいたんだと思う。俺が彼女をみつけなければ、彼女はどうなっていたかわからない。でも俺は彼女をみつけて、もう一度生きさせた。
あのとき見た彼女の瞳が脳裏に蘇る。あの踏切で、交わるはずのなかった僕たちの運命が交差し、生まれ変わったと言ってもいいくらい人生が変わってしまった。
それは彼女だけでなく自分の方も同じだった。俺には彼女しかいない、とはっきり自覚してしまうなんて、これまでの人生では考えもつかなかった。

「それくらい、あれからのわたしは、一松さんがいないとだめになっちゃったんだよ」
「俺が唯ちゃんに依存するのはわかるけど、唯ちゃんはダメでしょ」
「なんで?」
「だって俺ニートでクズだよ」
「一生そのつもり?」

冗談のように彼女は笑ったが、正直もう冗談ではなくなってしまっていた。彼女とずっと一緒にいたいと思うなら、なおさらのこと。

「……唯ちゃんのためなら努力する……」
「急に無理しなくていいよ、一松さん。それ差し引いてるけどちゃんと好きだから」
「ふうん……けど、あんまり甘やかさないで。甘えたくなっちゃうから」
「甘えていいんだって」

彼女はそう言って、絡めている指にぎゅっと力をいれて握りしめた。恥ずかしそうに笑う彼女の顔を見たら、胸のあたりに変な緊張が走って苦しくなった。
好きな人と手を繋いでいることが、今になって奇跡みたいに感じられて、嬉しくてたまらない。

「うん。ずっと我慢してたけど、もう他人じゃないもんね……」
「そうだよ」
「唯ちゃんの恋人になっていいんだ」

確認するように言葉に出すと、彼女はやわらかくはにかんだ。それが彼女の答えだとわかると、全身にぞわぞわと甘やかな幸せが満ちていく。
俺みたいな人間がこんな祝福を受けていいのだろうか。でもいつまでもそう思わずに、ちゃんと幸せになっていいと思えるようにしないと。

「一松さんが私のこと大事にしてくれなくなったら死んじゃうかも」

彼女がふと口に出した言葉を聞いて、妙に腑に落ちた気持ちになった。
たぶん、それを聞いてやっと元の彼氏に並べた気がしたのだ。俺のために死んでほしいってわけじゃないけど、もうそれくらいこっちは好きになってしまっているのだから。

「俺ももう唯ちゃんなしじゃ生きられない。依存するけどいいよね?てかもうしてるけど……捨てられたら死んじゃうから」
「大丈夫。そのときは私が助けられたみたいに、一松さんのこと助けてあげるから」

ああもう彼女から逃げられないし、逃がさない。死んだってまた生き返って会えるかな?大袈裟だけど、二十数年生きていて一度も他人からの幸福を享受したことのない俺にとっては、空が落ちてくるくらいの衝撃が彼女との出会いにはあったんだから。
彼女のことを好きになって、受け入れてほしいと身に余る願いを抱いて、それが叶ってしまった今が、俺の人生の絶頂なんだと思う。でもそれは今のところの話で、この先もっと甘美な魔法を見せてほしいし、彼女にも同じものを見せてあげよう。

俺のこと好きになってくれてありがとう。
卑屈でも謙遜でもない素直な言葉が唇から零れおちる。強く、弱く、手を握ってその感触を確かめると、夢じゃないよと彼女が言ってくれたような気がした。


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