「帰らない」とは言ったものの「泊めて」と言うのがどうにも恥ずかしくて、ソファにもたれて、とりあえず付けたテレビをぼーっと聞き流していた。すっぴんで恥ずかしいからとか言って彼女は部屋を暗くしていて、テレビの光だけが仄暗く壁を照らしていた。
唯ちゃんは今シャワーを浴びていて、その水音が遠くの方から囁くように聞こえてきている。
異常だ、この状況。
なんで彼氏を追い出した唯ちゃんの部屋にいるのがこの俺なんだろう。

彼女とたまに会えて一緒にいられればそれでいい、というのが今の俺が望める最大の幸せだと思っていた。付き合うだとか男女の関係になるなんてもってのほかで、クズニートに甘んじている俺に与えられる権利ではないと思っていた。
それなのに、唯ちゃんはエリートの彼氏という存在を放棄しようとしていて、そいつがいるはずの場所に俺をおいてくれていて。ああもう一体どういうつもりなんだろう。
ずっと彼氏と別れて欲しいと思っていたし、それが叶いつつあるのに、現実をうまく受け入れられなかった。
唯ちゃんの彼氏がいなくなったところで、自分では結局どうすることもできない。前にも後ろにも進めない。

「いちまつさ……」
「ヒッ」

急に肩を叩かれて、俺は情けない声を出してしまった。彼氏にばれないよう隠れるという非常事態のときの感覚がまだ身体から抜けていないようだった。
驚く俺を見て、彼女は少し笑っていた。薄闇の中で、唯ちゃんとの距離がどんどん縮まっていく感じがして、俺はなんとなく戸惑っていた。
ずっと望んでいたことなのに、いざ手に入れることを考えると、怖くなってしまう。

「シャワーあいたけど、つかう?」
「……借ります」
「じゃあ、タオルと着替えおいておくね」
「……」



そうして、生まれてはじめて一人暮らしの女性のバスルームに入った。
シャンプーが唯ちゃんの匂いと同じだと思ったら興奮してきてしまったので、必死になにか別のことを考えて気を逸らしていた。
あまりの緊張で朦朧とする意識の中、かろうじてひととおりの興奮を味わって、お風呂から上がった。ふと唯ちゃんの歯ブラシをみつけたとき、それが一本だけで、彼氏のものと思しき歯ブラシが隣にないことに安堵したりして、本当に何を勘違いしているんだと自分で自分を嘲笑いながらも、心のどこかで本当に期待していた。

今日なにかが起こるかも。
俺と唯ちゃんの関係が変わってしまうかもって。よくも悪くも。
ただ、自分の性質上、どうしても悪い方しか想像できなかった。唯ちゃんと一緒にいられるという関係が終わるのが怖くて、結局のところ俺は唯ちゃんの部屋にいながら彼女に殆ど触れることもできずに終わるんだろうなと思って溜息をついた。



用意されたスウェットに着替えて部屋に戻ると、唯ちゃんはベッドの上で横たわっていた。
眠ってはいないようで、俺の方をちら、と見て「サイズとか大丈夫?」と訊いてきた。

「ん、大丈夫。ありがと」
「ちょうどよさそうでよかった」

言いながら身体を起こした唯ちゃんは、髪を耳にかけながら笑い、立ち上がって二人掛けのソファの端に座った。その自然な仕草に、心臓がまたとくとくと静かに時を刻み始める。
唯ちゃんにドキドキし始めてきたら、なぜか「あ、そういえば」と思い出したことがあった。
俺は彼女から目を背けてスマホを探した。
家族に、夕飯はいらないと伝えたけど、泊まってくるとは言っていなかった。いい大人な年齢とはいえ、彼女もいないし、自宅以外に泊まることなんてめったにないから、一報いれておいた方がいい。

一番はやく連絡がつくのはトド松だと思うけど、とりあえずこういうのは長男に連絡しておくべきか、と思って「今日は泊まるから帰らないよ」とだけ打ったメッセージをおそ松兄さんに送った。
すると、すでにチョロ松兄さんから「女の子の家に行く」ことを聞いてだいたい予想がついていたのだろう、返信もすぐにきた。
「お、おう……」という文字と、吐血しながら親指を立てているスタンプがあって、どこでそんなの買ったんだよ、とつっこみたくなる。そしてその後に浮かび上がったのは「まあ、頑張れよ」という言葉だった。

家を出るときにもチョロ松兄さんから「がんばれ」と言われたけど、あの兄弟たちも案外応援してくれるものなんだな、と意識の端で考えていた。
6人の兄弟の中から、誰かがどこかへ行ってしまうのが怖かった。置いていかれるのも、自分だけがどこかへ行くのも嫌で、ずっとこのままでいいと思っていたけれど。
変化の恐怖に耐えるくらいなら今のままでいいし、何も持たなくていい。そう思ってしまう自分の性質が、家族に対しても唯ちゃんに対しても後ろ向きで、楽しさとか幸せとかいったものから積極的に逃げ出していることが、痛いほどに、自分でわかっていた。

家族への連絡を終えると、いよいよ彼女の家に泊まるという実感が沸いてきて、また不安になる。
テレビを見てこっちには背中を向けている唯ちゃんに、「ねえ、俺なんかがほんとに泊まっていいの」と恐る恐る訊いた。

「……俺なんかって?帰らなくていいって言ったんだよ?」

こっちを振り返った彼女は、当たり前だというように眉を寄せていた。

「……じゃあそうする」
「一松さんがまだいたいって言ったんだよ、違うの?」
「ちがくない」

彼女の言うとおりだった。俺が唯ちゃんのそばにいることを心から望んでいて、彼女も彼氏を追い返してまでして俺をここにおいてくれた。それは紛れもない事実で、俺の不安も臆病さも差し挟む余地はなかった。

「期待していいの」
「ん?なにか言った?」

唯ちゃんは、たぶん俺のことは嫌いじゃないんだろうけど、俺は彼女とはどうやっても釣り合わないってわかっていた。そうは言っても好きなものは好きで、もう気持ちは誤魔化しようがなかった。
でも、唯ちゃんに近付こうと思って一歩踏み出したら、自分の髪からふわりと唯ちゃんの匂いがして、思わず躊躇した。
今他の誰よりも唯ちゃんの近くにいるのに、この場には他に誰もいないのに、どうしてなんにもできないんだろう。
期待や思慕よりも恐怖の方が勝ってしまって、動けない。でもそれって俺は唯ちゃんのことが本当に大事で、好きで仕方ないせいで壊したくない気持ちが強いのだから、それはそれで正しい感情じゃないの、とごちゃごちゃ考えながら、彼女の小さな背中を眺めて一歩も動けずにいたら、不意に唯ちゃんがこっちを振り向いた。

「一松さん」
「な、なに?」
「こっち座っていいよ?」
「う、うん」

俺は促されるまま裸足で冷たい床をそっと踏んでソファへ近付き、唯ちゃんの隣に座った。微妙に触れあわない距離に落ち着いて、我ながら感心するのだけど。

「いつも外で会って話してたしなんか変な感じするね?」
「へ、変な感じってどんな」
「んー……一松さんがうちにいるのが不思議なのかな」
「……俺と唯ちゃんは他人だもんね」

ぼそりと呟くと、唯ちゃんは「他人?まあそうだね……」と考えこむようにやや視線を下げた。
彼氏じゃないし家族でもなくて、たまに会って話すだけの人との関係性に名前なんか必要ない。でもそれが心地よくて、これが続くなら彼女との関係に名前を付けなくても構わないって、俺は自分にずっと言い聞かせていた。

「でも私もう一松さんのことは他人だと思ってないよ」

それが、唯ちゃんの一言で、氷のように冷え固まっていた考えが融けていく感じがした。同時に、俺を守っていた壁もひとつ壊されてしまった感じ。目に見えて縮まっていく彼女との距離が、怖いのに、こんなに心が揺れ動いていた。

「……じゃあさ、何?ずっと聞きたかったんだけど、俺って唯ちゃんにとって何?」
「んー……」
「教えてよ」
「ん、考えてる」
「教えてくれるまで帰らないから」

隣にいる彼女の視線はぼんやりとテレビに注がれていたので、その横顔をじっと見つめて言うと、急にその目が俺を捕らえた。

「教えなかったら帰らないの?」

暗くて静かな部屋に二人だけ、テレビの音もどこか遠くから聞こえてくるような気がして、平衡感覚を失ったような心地がした。彼女の瞳に自分が映っていて、驚くほど情けない顔をしていた。

「……なんで唯ちゃんは、いつもいっつも勘違いさせるの」
「え?」
「俺は、正直言うと本物のニートで、なんにももってなくて、なんにもあげられないのに、唯ちゃんの特別になりたいと思ってるんだけど」

俺は唯ちゃんのことがずっと好きでいられたらそれでいいって思ってたのに、いつの間にか身の程もわきまえず、求めてしまっていた。
もう望まずにはいられなかった。彼女は自分には不相応で不釣り合いだという自覚はあるけど、彼女に見合う努力すら1ミリもしていないのに、唯ちゃんのことが好きでもう我満できなかった。

「一松さん……?」

彼女の顔を見ることが出来なかった。完全に目を逸らしながら、手探りで彼女の手に自分の手を重ねあわせた。

「一松さん?」
「その……す……」

言いかけて、また口をつぐんだ。
唇が乾く。恐怖と興奮が交互に襲ってきて、手に汗をかきはじめた。それでも彼女は俺の手を払いのけもせず、じっとしていた。
思わずちらっと横を見ると、真剣な表情でこっちを見ている唯ちゃんと目が合ってしまった。
ああもう唯ちゃんが好き。もうだめだ。黙っていられない。

「……ねえ、今から唯ちゃんに告白するけど、いい?」

そう言うと彼女は一瞬ぽかんとしていたけれど、すぐに意味が理解できたみたいで、驚いて顔を赤らめていた。


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