今、好きな女の子の部屋のクローゼットの中で彼氏にみつからないよう息を潜めているというかつてない体験をするはめになっているのだけど、「しばらく隠れてて」と言われたってことは、唯ちゃんは彼氏をすぐ追い返すつもりなんだろうか。
そうでなければ好きな女の子とその彼氏の会話を聞いているなんて、拷問以外の何でもないんだけど。
しかしそんなことをゆっくり考える暇もなくもう彼氏が部屋の前までやって来てしまって、唯ちゃんは玄関の鍵を開けに行く。
がちゃりと扉が開く音がして、また一気に心拍数があがる。
「久しぶり」という男の声が聞こえて、ああ、本当に大変な状況になってしまった、と改めて絶望した。
イケメンでエリートらしいし俺とは社会的な価値が比べ物にならない男。それを彼氏にしている女の子を好きになってしまった自分が悪いのはわかっていたけど、改めて対峙してみるとやはり勝てる気がしなかった。
いや、対峙していると思ってるのは俺だけで、彼氏の方は俺がここにいることも知らないというのが、また滑稽だった。

「ほんと久々じゃない?最近あんまり会ってくれないじゃん。なんか連絡しても冷たいし」と言う男の声と足音がだんだん近付いてきて、俺は無意識に呼吸を止めた。

「……だってあなた二股してたし。そっちだって別に私と会おうなんて言わなかったでしょ」

なんだか喧嘩しているみたいな雰囲気だったが、彼女たちの間で言葉が交わされるたびに、じくじくと心臓が痛くなってくる。

「それは俺が悪かったけど、あっちとはちゃんと別れるからさ」
「別にどうでもいいよ。私はもうあなたと別れるって言ったでしょ」

しかし唯ちゃんの言葉を聞いた瞬間、俺はまた動揺した。
別れる?唯ちゃん、今の彼氏と別れようとしてるの?

と、思わずクローゼットから飛び出して訊いてしまいたいくらいだった。
自分が傷付いててもぐだぐだでも俺が何を言っても、唯ちゃんはなんだかんだ彼氏とは付き合い続けるんだと思っていた。それが、別れようとしていたなんて。
じゃあ俺の立場ってどうなるの。
彼氏がいたから、この場所に甘んじていられたけど、唯ちゃんが彼氏のいないただの女の子になってしまったら、そんな危うい状態になったら、俺は単に唯ちゃんとたまに会って話しているだけの男でいるのが難しくなるんだって、唯ちゃんはわかってるんだろうか。

「え、あれ本気だったの?いつもの『もう死ぬー!』ってやつの延長かと思った」
「ちがうよ、本当だよ。本当にもう別れてほしいって言ったの」

狭いクローゼットの中から彼らの声だけを聞いて、別れるだのなんだの話してはいるけど、ああ、ほんとに唯ちゃんの彼氏はこいつなんだ、そして俺はそこからもっと全然遠いところにいるんだ、と思わざるを得なかった。
こいつは俺の知らない唯ちゃんをたくさん知ってて、ちゃんと彼氏をやっていたのだから。ふつうの男女ってこうなのかな、といちいち心臓が傷付く。

「もう別れたい?俺が浮気してたから?」
「うん。まあ、理由はいろいろあるけど……」
「他に好きなひとでもできちゃった?」
「……うん。そうなのかも」

また、ふっと時が止まる感覚。
そして唯ちゃんの答えが一瞬ののちに理解できて、めちゃくちゃに動揺した。
え、好きなひとって?だれ?彼氏以外の?だれ?他にだれがいるの?
まさかとは思うけど、俺……いやそれはない。でも、それでも、何かを期待してしまって自然と口元が緩んでしまう。ありえないってわかってるのに。もしかしたら唯ちゃんは彼氏と別れて俺を選んでくれるんじゃないかって、なんの根拠もないのに考えてしまっていた。
そこからはもう、会話の内容が全然頭に入ってこなくなった。



結局彼氏は俺の存在には気付かずに、部屋に来てから数分で帰っていった。
別れ話はまた今度するとか、明日早いから帰ってだとか言って、唯ちゃんがほとんど無理やり追い返したのだった。
彼氏は追い返して、俺のことはそのまま留まらせてくれて。
一体俺って彼女にとってほんとに何なんだろう。


彼氏がいなくなると部屋がしんとしてしまったけれど、俺はまだ緊張して息を殺していた。
唯ちゃんが俺をここへ隠したのだから、唯ちゃんが俺を引っ張りだしてくれないと。
俺は唯ちゃんの足音がだんだんこっちに近付いてくるのを待っていて、彼女がこの扉を開けてくれるのを待っていた。

「一松さん……もう帰ったよ」

足音が扉の前で止まって、彼女が呟く。俺だけに声をかけてくれて、また、ふたりだけの空間が戻ってきたんだと実感した。
ゆっくりとクローゼットの扉が開き、照明の光が入り込んでくる。座り込んだ俺のすぐとなりに、膝をついた唯ちゃんがいて、自分でもおかしいくらい、彼女が眩しく見えた。

「まあ、みつからなくてよかったね」

正直まだ身体にうまく力が入らないけど、そう言って肩を竦めたら、唯ちゃんは「う、あの、一松さん、本当に本当にごめんなさい」と言って、ほとんど土下座に近いかたちで頭を下げた。
女の子にこんなふうに謝られて、ちょっと戸惑っていた。まだクローゼットの中から出てもいないし。

「いいよ、別に」
「ごめんなさい……」
「いいって」

俺は言いながら、吸い寄せられるように手を延ばして、彼女の髪を撫でた。謝られているし、これくらいは許されるだろうという思いと、無防備な頭部が俺に撫でて欲しがっているように見えたから。まあそんなことは100パーセントありえないんだけど、緊張状態がまだ続いていて、変に積極的になれたのかもしれない。
いつも猫にするみたいに触ると、頭を下げたままの彼女の肩がぴくりと反応する。どきどきと静かに心臓が鳴っていた。感情って誤魔化せないものだなとつくづく思う。俺は彼女に触れて、緊張したり期待したり不安になったり幸せだと思ったりしてて、その全てが俺の心を文字通り揺り動かしていた。

「……ねえ、別れるの?」

彼女の頭を撫でて熱を帯びた手を止めて、ぼそりと呟くと、彼女は顔を上げてまっすぐに俺を見た。
部屋はそこそこ広いのに、なんでこんな隅のクローゼットに入ったまま会話しているのかと思うけど、この距離感が心地よくて動き出せなかった。

「うん、そう言った。実はこの間の一松さんとの約束延ばして何してたかっていうと、彼と別れ話してたの。ごめんね、なんか急に来たせいで、変なもの見せちゃって」
「……いや」

一番言いたかった「彼氏と別れて、唯ちゃんはどうするの?」という言葉はどうしても喉を通らず、彼女に尋ねることはできなかった。
答えを聞いても仕方ないとどこかで諦めていたのだと思う。俺の期待する答えはもらえないってわかってる。ただ単に唯ちゃんがもう彼氏に愛想尽かしただけかもしれないし、好きな人ができたってのも本当かわからないし別れる口実なだけかもしれない。
そもそも、何か勘違いしてるけど、俺なんて眼中にないだろうし。でもそれじゃあなんで俺ここにいるんだろう、彼氏を追い返してもらってまで、なんで唯ちゃんの部屋にいさせてもらえてるんだろう。
極度の緊張で疲れきった頭では思考がうまく整理できなかったし、これからどうしたらいいかもわからなかった。

「今日はなんかごめん……。俺、帰った方がいいよね?」

疲れてるのは俺だけじゃなくて彼女もだろう、と思ったけれど、そう言ったら唯ちゃんはやや上目遣いでこっちを見た。

「帰っちゃう?」

う、可愛い、と思ってしまってあわてて目を逸らす。でももう顔はばっちり熱くなっていた。

「……いや、やっぱり俺、今日帰りたくないかも」
「……うん」
「ひとりになりたくないし……」

唯ちゃんをひとりにしたくない。あとできればずっと一緒にいたいし。
そんな、彼女に言えるはずのない言葉を呑み込んでから視線を合わせると、彼女は照れたように笑っていた。


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