来た道を引き返して、とうとう彼女のマンションに辿り着いてしまった。
ここまで来たら、何もせず帰るなんて選択肢はもうないでしょ。もとから何も持っていないから、失うものも何もないし。
ただひとつ、壊したくないと思っていた唯ちゃんとの関係も、たった今ぐしゃぐしゃにしたところだった。

やたら綺麗なエントランスに入ると、パーカーにジャージの俺は落ち着かない気分になった。
やっぱり彼女とはどうあってもつり合わないし、これ以上彼女と一緒にいても自分の期待が大きくなりすぎてそれに潰されてしまうだけかもしれない、と思う。

「……。……でも会いたい」

そうか、気付いていなかったけど、すでに期待でいっぱいだった。
もういっかい会って、謝って、許されて、また彼女と一緒にご飯を食べて彼女の話を聞きたい。その先は……その先だって、望んでいないわけがなかった。ただ、俺はそれに見合う人間ではないから、彼女に求める資格はないだろうってだけで。

彼女のことを考えていたら、いてもたってもいられなくなった。こんなに気持ちが急かされるのなんて、ほとんど初めてだった。唯ちゃんの部屋に彼氏がいるかもしれない?知るか、そんなの。

俺は背中を丸めて、唯ちゃんの部屋の番号をひとつずつ押していった。たった3桁の数字を押すのに物凄い時間がかかった気がする。そして緊張で吐きそうになりながら、やっとの思いで「呼出」ボタンを押した。

彼女を呼び出すベルの音が、エントランスに虚しく響く。

しばらく待ったけれど、彼女からの返事はなかった。当然エントランスの扉も、しんとしたまま開かない。

もしかして家に帰っていない?それとも彼氏が部屋にいる?俺、ただの迷惑なやつ?
せっかくここまで来たのに、ほかの何を失くしても彼女に会えればそれでいいと思って、焦って昂ぶっていた気持ちが、だんだんと萎んで、いつものとおり心が沈黙していった。
たった一回インターホンを鳴らすだけでどれだけエネルギーを消費したのかよくわからないが、とにかく、もう一度押す勇気は残念ながらなかった。
ここが俺のだめなところだってわかってる。
自分に自信がなさすぎて、人に拒絶されるのが当たり前だと思っている。唯ちゃんはそんな子じゃない、と思ってはいるけど、それも幻想かもよと頭の中で囁く声がした。

そのとき突然背後に気配を感じて、俺は勢いよく振り返った。
すると、自動ドアが開いて、マンションの住人と思しき人が入ってきた。一瞬唯ちゃんの彼氏かと思ってびっくりしたけど、たぶん違う。俺は若干の安堵とともに少し息を吐いて、その人のために壁際へ避けた。

住人は俺のことをとくに気にせず、普通にエントランスの扉をあけて、住人用のエリアに入っていった。

「……」

で、なにしてんの俺。
気付けば開いた扉が閉まる前に、身体を滑りこませていた。
こんなことしちゃダメなのはわかってる。でもせっかく来たのに開けてくれない唯ちゃんが悪いし、これも何かのお導きだと思うことにした。



結局そのままエレベーターに乗り込み、俺は気付いたらもう唯ちゃんの部屋の前にいた。
この扉の向こうに唯ちゃんがいるかもしれないし、いないかもしれない。ひょっとしたら彼氏もいるかもしれないし、いないかもしれない。
心臓がいろいろな意味でドキドキと大きな音を立てていた。気付かないふりをしてたけど、めちゃくちゃ怖い。
俺が勝手に彼女のことを好きになって、勝手にひとりで逆上して、勝手に急いで謝りに戻ったけど、結局唯ちゃんにはあいかわらず彼氏がいて俺はただの話し相手に過ぎないってことが、ここまで来てやっとわかったような感じがした。
こうまでしておいて彼女に拒絶されたらと思うと、足は動かないし、声が出なかった。

でも、どうせもともと望みなんてほとんどなかったんだから。
俺はぐだぐだ考えはじめるより先に思い切って唯ちゃんの部屋のインターホンを鳴らした。



ボタンを押して、深夜のマンションにベルが遠く響いてから、背中をだらだらと汗がつたった。
また、唯ちゃんからの反応はなかった。
俺、人間に向かって喋ってる?とさすがに不安になってきた。
でも、もう無視されてもなんでも構わない。こっちの気が済むまで待つ。通報されるまで待っててやる。本当に、何も失うものはないんだから。

「……唯ちゃん以外にはね」

ぽつ、と呟いて、扉を背にして座り込んだ。唯ちゃんを失いたくはなかったけど、彼女を手に入れたと思ってるわけでもない。むしろ彼女は他人の所有物だった。
でも自分はすっかり彼女という光に照らされることに慣れていたから、それが失くなったらたぶん枯れてしまうと思ったのだ。
何も求めない。こんな俺を好きになってくれなんて言わない。ただ照らしてくれさえすればいい。
ごめん、彼氏がいたって、俺には唯ちゃんに何か言う資格はなかったのに。



何分待っただろうか。かすかな酔いと静けさで意識がぼんやりとし始めたとき、急に扉の向こうに気配を感じた。
そぞろな足音がこっちに近付いてきていた。俺は思わず立ち上がって、扉に手を付けた。

「唯ちゃん」

久しぶりに震えた喉から漏れたのは掠れた声だった。聞こえただろうか。

「唯ちゃん」

もう一度呼ぶが、扉の向こうの気配は動かなかった。

「その、話したいことあるから、開けて。唯ちゃん」

それでも呼び続けた。厚い扉で阻まれて声なんて届いていないのかもしれないけれど、そんなのいつものことだった。自分の言葉はいつも思ったとおりに喉を通ってこないのだから。

不意に、がちゃ、と小さな音がして、俺は耳を疑った。
それは鍵の開けられる音だった。ただ、扉は開く気配がない。鍵は外したから、入りたかったら入れということだろうか。沈黙からは、何も読み取れなかった。
俺はおそるおそる手を伸ばして、扉を引いた。


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