最奥
「ど、どういうことだよ、テンマ…」
ようやくテンマの元に辿り着いたジロウは声を震わせて聞いた。
目の前にテンマが居る。しかし、彼はテンマとしての記憶を持ち合わせていないと言う。
黒い影と一体になったテンマは、ただ、全てを壊すことを、自分が憎んだ世界そのものを壊すと言うことしか覚えていないのだ。
「じゃあ、オレのこともわからないのか?カトウのことも?」
「ああ、記憶にないよ」
「っ」
なんの感情も無い表情と声でテンマは言う。
身体中を黒い影で出来た刃に貫かれ、まるで生け贄かのように宙にぶら下がり、赤い血を滴らせたまま彼は言うのだ。
ここまで来て、存在を忘れられて…
ジロウは悔しさに似た感情を感じるが、
「リョウタロウは……?お前が最も憎んでた英雄リョウタロウのことは!?」
これだけはきっと、覚えているはずだと思う。
テンマは英雄の‘予備’として造り変えられた人間なのだから…
「……さあ…わからないな。ただ、僕は憎んでいる。何かを、全てを。この体には、そういった感情しか残っていないんだ」
「……う、そだろ?」
テンマの返答にジロウは大きく目を見開かせた。
「あんた、言ってたろ?生き残った人々にあんたの復讐の成果を見せ付けるって……でも、今のあんたは覚えてない……誰のことも…」
ギリッ……と、歯を軋め、
「でも、それでもオレは……どんなことがあろうとも、オレだけはあんたの前に何度でも立ってやる。何回でもオレの意思を伝えてやる。あんたに届くまで、絶対にーー……あの時の言葉を貫いてみせる…!!だからテンマ!!そんなとこに居ないで降りてこい……!帰って来い!!あんたに伝えたいこと、知ってほしいことが沢山あるんだよ…!!オレとカトウはそれを望んでいる…!!」
どんなに叫んでも、虚ろなテンマの瞳にジロウは映らず、その耳に声は届かない。
遅すぎたのだろうか?
どこかで好機を逃しただろうか?
そんなに長くなかった、この数日の日々の中で……
だが、ここで終わらせないと、世界が先に終わってしまう。
この外に待たせて来たナエラ達や、別の場所で別れたハルミナやネヴェル達が死んでしまう。
黒い影に取り込まれた両親やレイル、全ての人々も。
けれど、テンマのことも救いたい。
ずっとずっと、ジロウはそれを願っていたから。
「テンマ……オレは」
ジロウが何か言い掛けて、そこで黒い影の内部がぐらぐらと揺れ出した。
「なっ……なんだ!?」
ジロウが驚いて叫べば、
「餌の命を喰らう準備さ。ここに来る途中、見たんじゃないかい?」
「命を喰らうって……まさか!?」
ーー……
ーーーー……
黒い影の内部。
多くの人間、天使、魔族たちが取り込まれた場所では異変が起きていた。
取り込まれ、意識を失ったままの人々が急に苦し気に呻き出して、その場に残っていたミルダはその異変に目を細める。
そして、見る見る内に人々から生気が抜けていくのを感じ、
「まさか……」
ミルダはようやく現状を把握した。
この空間の主が動き出したのだ、と。
全てを壊す為に、ここに集めた命たちもとうとう消し去るつもりなのだーー……と。
すると、
「これは!?」
ミルダの背後から少女の声がして、深い闇の中から二つの姿を見つける。
「……ミルダ?」
次に男の声。
「……」
ハルミナとネヴェルだと確認し、ミルダは二人を見据えた。
ハルミナはミルダの姿を見て、
「…ミルダさん…!い、生きて……」
と、言葉を詰まらせる。
ミルダはそんな彼女を一瞬だけ横目に見て、すぐネヴェルに視線を移し、
「英雄の剣を持った人間が先刻、更に奥に進んだ。追うなら早く追え」
「…そうか」
ミルダの言葉にネヴェルは頷き、影に取り込まれた人々の中から見知った魔族の顔や、レイル、フェルサの姿を見つけた。
「…確かに、急がないと不味そうだな」
ぽつりとネヴェルは言い、
「ミルダ……俺は生き残るつもりだ。お前も、生き残れよ。カーラと話しは出来たが、お前やフェルサとも……今までのこと、これからのことを話せたらと思う。俺は……たくさん間違い、レディルもメノアも見殺しにしてしまった…」
「……」
魔界での事を知らないミルダは、レディルとメノアの話を聞き、静かに目を閉じる。
「…お前はここで最愛の女を守るつもりだろう?俺は先に進む。ここは任せたぞ」
ネヴェルに言われ、
「さっきも聞いた言葉だ」
と、ミルダはジロウを思い出し苦笑した。
ネヴェルは再び宙を舞い、ミルダの横を通り過ぎながら、
「…今でも、お前とフェルサを……友だと思っている、あの日々を、幸せだったと、懐かしく思うーー……ハルミナ、行くぞ」
と、それだけ言ってネヴェルは闇の奥へ飛ぶ。
ハルミナは目の前に生きて立つ実の父を戸惑う表情で見つめ、ネヴェルが飛んだ方へゆっくりと向かおうとした。
いざ、ミルダを前にすると、言葉が出なくて。
言いたかったことが沢山あったはずなのに、今は時間もなくて。
それにミルダはハルミナに背を向けている。ネヴェルとはちゃんと会話していたのに。
しかし、彼の視線の先にようやく気付く。
フェルサとマシュリの姿があることに……
それにハルミナは目を伏せ、自分はミルダとフェルサの娘らしいが、ミルダにとって大切なのは、今、彼の視線の先にある二人なのだろうと見せ付けられる。
(行かなきゃ…)
ハルミナは頭を振り、今すべきことに意識を向け、翼を羽ばたかせてミルダの側から逃げるように飛んだ。去り際に、
「ーーっ!!?」
ハルミナは飛びながら後ろを振り返ったが、もう戻る時間はなかった。
「……ミルダさんーー……お父……さん」
噛み締めるように、ハルミナは一人言う。
確かに聞こえた。
『お前は生き残れ』
……と。
その言葉と共に、今まで見たことのないミルダの表情が、微笑みが、向けられた。
それに反応するのが遅れ、何も言えなかった。
(あなたも、生き残って下さい……母と、マシュリさんと……絶対に)
しばらく飛ぶと、先に行ったネヴェルの背中が見えてきた。
ーー……
ーーーー……
「テンマ…!あんたの憎しみは、本当に全てを壊すことでしか癒されないのか!?無関係な人達を巻き込んで、自分自身さえも消し去って、本当にいいのかよ!!」
ジロウの叫びに、テンマは再び聞く耳を持たず、別の何かに意識を向けている。
そしてジロウも背後の気配に気付き、振り向いた。
「ハルミナちゃん……ネヴェル!!!」
二人は翼を閉じ、地に足を着け、
「ネヴェル……あんた、無事だったんだな…!じゃあ、カトウも…」
「ああ、大丈夫だ」
と、ネヴェルは頷く。
「ハルミナちゃんも、なんか久し振りだな、でも、なんで二人がここに?」
「それよりもジロウさん……あれは一体!?」
ハルミナは変わり果てたテンマを指して言い、ネヴェルも目を細めた。
そうしてーー……
人間。天使。魔族。存在をねじ曲げられた者。
それらがこの場所に揃った。