瞳から溢れた涙は、あの頃の私のように堕ちていく。
瞼の裏ではいつもあの出来事がフラッシュバックする。
私が世界を好きになり…人を嫌いになった、あの日を




それは小学4年生の時。
私は遠足で美術館に行った。
そして、モネが描いた「サンタドレスのテラス」に目を奪われた。
それと同時に自分の瞳から涙が溢れた。

まだ10歳だというのに、この絵はあり得ないと瞬時に感じた。
鮮やかに描かれた風景…
こんな世界は存在しないのに。
今私が住んでいる「この世界」も、人間のせいで汚れてしまっているのに。
どうして、この絵はこんなにも綺麗なんだろう。

自分の中で浮かんだ疑問の答えが分からなくて、
見学の時間ずっとその絵を見ていた。
結局、美術館に行ったというのに見た絵は1枚だけ。
1枚の絵の前でずっと涙を流しているという異常な光景になってしまったが
そのおかげで、疑問の答えが分かったような気がした。


この人は知っているんだ。本当の「この世界」の姿を。
この世界は何も変わってはいない。
私たち人間が愚かで自己中心的であるから、そう見えないだけなのだ。
この世界は、あの絵のように綺麗で美しいのだ。

私はそのことにやっと気づけた。
そしてみんなにもそのことに気づいてほしい。

どうしたらこの感動に…真実に気づいてもらえるのか。
その方法にはまだ気づけなかった。


それでも、どうしてもこの感動を誰かに伝えたくて。
家に帰ったらすぐに両親に遠足の話をした。
そしたら両親は笑顔で答えた。
「璃南も絵で魅せればいいんだ」って。

私はその日から絵を描き始めた。




絵を描くようになってから、私の全てを絵に注ぐようになった。
今まで放課後は友達と遊んでいたのに、それも一切やめて、
部屋にこもって色々な絵の具で、色々な描き方を試した。
何のテーマのときにはどの絵具を使うとか、独学で探し出した。

やがて学校にいても絵のことしか考えなくなり、
クラスメイトや先生から無愛想など言われるようになった。
でも私にはどうでもいいことだった。
両親だって好きなことを全力でやるのは良いことだと言ってくれた。
そして私の幼馴染である不二周助は、同級生の中で唯一離れていかなかった。
それどころか私の描いた絵を気に入ってくれた。
彼の趣味が写真なのも、それが関係してるのかもしれない。




気が付いたら小学校を卒業していて、私は周助と同じ中学校―――――
青春学園中等部に入学することになった。
クラスは同じではなかったけれど、彼の勧めでテニス部に所属することにした。
彼はテニス部員として、私はマネージャーとして。

マネージャー業も決して楽ではなかった。
小4から引きこもり始めた私にはとても辛かったが、
テニスをしている先輩方や周助たちの姿を見ると元気が出てきた。
テニス部は元から人気だったらしく、部員だけでなくマネージャーの先輩の人数も多かった。
部員と先輩、どちらも優先しないといけなくて。
先輩たちがやりたくない雑用を押し付けられるときもあった。
もちろん同級生のマネージャーも私だけではなく、先輩ほどではないが結構いて。
どの子も先輩がいないときに陰口を言っていた。
私は別に雑用が苦だとは思っていなかったので、そういう子を宥めるのが大変だった。
その中でも特に印象が残った子が1人。

緑野みどりの 眞夜まや

どこかで見たことあるかと思ったら、彼女とは同じクラスで。
たぶん彼女が同級生のマネージャーの中で1番棘があることを言っていたと思う。
そしてなぜか私は同級生マネの愚痴り相手となっていて。
みんな先輩に何か言われたら私の元にやって来るようになった。
そしてさりげなく押し付けられた雑用を押し付けてきた人もいた。


そんなこんなで中1の夏。
3年生の先輩たちは引退してしまった。
風の噂だが、部長であった大和先輩が腕を故障してたと聞いた。
3年の先輩が引退したことによって、2年の先輩が調子に乗ってきたことは誰にでもわかることだった。
マネージャーの中では2年の先輩だけではない。
眞夜も、その内の1人に含まれていた。
何故だか自分でもよく分からないのだが、私は眞夜とずっと一緒に行動していた。
教室にいるときも、移動教室の時も、部活の時も、帰り道も。
彼女に対しての第一印象は「苦手な人」だったのに
ここまで仲良くなれるのか、と他人事のように感心したことを覚えている。
だがそれは、私の思い違いだったらしい。


事件は2年生の先輩が臨海自然教室でいなかったときに起きた。
初めて1年生だけで行う部活。
少しは同級生の愚痴から解放されるだろうと、ちょっと気分が舞い上がっていた。
部室の扉を開けると、珍しく早く着いていたみたいで。
部室には眞夜しかいなかった。
私が静かに自分のロッカーを開けると、隣から小さな声が聞こえた。
まるで嘲笑っているかのような
何だろうと思い眞夜のほうを見ると、凄く不気味な表情をしてこっちを見ていた。
口からは「ふっ…ふふふふふ…」と声が漏れている。

「眞夜?どうしたの?」

不安になって声をかけるが、眞夜は何も答えなかった。
そのとき私は、失礼だとは思うが「イカれてる」と感じた。
頭のどこからか警報が出される。
危ない、ここに居てはダメだ、すぐに部室から出るんだ、逃げるんだ。
そう思って1歩踏み出したときにはもう遅かった。



眞夜が不気味に笑いながら果物ナイフを振りかざしてきた。


「――っ!」
怖くなって目を瞑った。
だが痛みは感じない。でも確かに、眞夜はナイフを持っていたのに。
恐る恐る目を開けると、血を流していたのは私ではなく眞夜だった。
眞夜が手に持っていたナイフは私の足元に落ちている。
何が起こったのか全くもって理解できなかった。
何で眞夜は自分で自分の腕を切ったのだろうか?
そもそもなぜ果物ナイフなんかを持っていたのか?
とりあえずこの果物ナイフをどうにかしなくては。
落ちている果物ナイフを手に取って眞夜に話しかけようとすると、眞夜は大きな声で悲鳴を上げた。

「きゃあああああああああああ!!!」
「!?」

何故ここで悲鳴を?
私の思考回路が復活する前に、部室の扉が思いっきり開いた。
「どうしたんだ!?」
悲鳴を聞きつけてきたのだろう、男子部員とマネージャーたちの姿。
それを見た眞夜は声を震わして彼らに縋り付いた。


「璃南ちゃんがっ…、璃南が私の腕をあのナイフで切ったの!」

全てがフリーズした。
機械かってツッコんで笑わせる余裕もない。
今、何て言った?
切ったとはいえどほんの数ミリ単位のかなり浅い傷。
紙で切ったくらいのレベルの傷だし、誰もそんなこと信用するわけ……
そう思って彼らのほうを見たら、みんな顔面蒼白になっていた。
彼らの視線の先は私の手元。手に握られている果物ナイフ。
彼らの中の疑問が勝手に肯定された瞬間だった。


今思えば、眞夜が自分の腕を切ってから悲鳴を上げるまでのあの沈黙。
眞夜は私がナイフを拾うのを待っていた、そんな気がした。
何だ。友達かもしれないと思ったのは私だけか。
結局眞夜も、「醜い人」の1人だったんだね。
自分のことしか考えなくて、平気で裏切る行為をする。







これだから「人」は嫌いなんだよ





それから私は完全に「悪人」になった。
第3者が私が眞夜の腕を切ったところを見てたわけでもないのに。
勝手に眞夜が「被害者」で、私が「加害者」になっていた。
あんなに優しかった両親も私に対して凄く怒りを露わにしていた。
挙句の果てには「お前なんか私の子供じゃない」とまで言われた。
家に帰れば両親の口喧嘩。「お前が甘やかしてたからだ」とか言っていて
自分の子供を信じる、なんて言葉は2人には存在しないんだと思い知らされた。
小4のとき離れていかなかった周助でさえも、離れて行ってしまった。
この出来事は2年の先輩にまで伝わって。
同じ部の同級生から始まったいじめは、2年の先輩…クラスメイト、
そして気が付けば校内まで広がっていた。
廊下を歩けばみんながひそひそと私を見て話している。
親も学校も、私に対するいじめは放置状態だった。

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
私が眞夜に何をしたというの?
どんなに考えても、何1つ浮かばなかった。

いじめが始まってから数週間。
家に帰ると、リビングもキッチンもダイニングも両親の寝室も…もぬけの殻だった。
家具が置いてあったのは私の部屋だけだった。
勉強机に置いてあった置手紙。両親が書いたものだろう。



《離婚が決まり、2人して家を出ることにしました。
 一応戸籍上私たちが貴女の生みの親ということになっているので、
 ちゃんと節約なりなんなりすれば3年分くらいあるお金を置いておきます。
 もう貴女の親ではないので、独りで生きてください。
 万が一私たちに会っても、絶対に「親」と言わないこと。

 自分は天涯孤独だということを自覚してください。》


素っ気ない手紙だった。
ついに捨てられた。私は何もしていないのに
不意に足に何かが当たって。
床を見ると、


私が今まで描いてきた絵がビリビリに破られて床にばら撒かれていた。


罵られようと殴られようと蹴られようと、どんないじめでも我慢できた。
でも…これだけは我慢できなかった。
私の生きがいだったのに。
私の夢だったのに。
私の宝物だったのに。
私の思い出だったのに。

「…っ」

初めて辛くて泣いた。
悲しくて、苦しくて、苛ついて、憎くなって、

もう全てが嫌になった。






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