苗字さんの帰りが遅い。そのことに気づいたのは、苗字さんがお手洗いに行くと言って出て行った20分後のことだった。いくら何でも遅いだろうとドアを見てみるが、帰ってくる気配はない。そわそわする私に気づいたのか、狡噛さんが手を止めずに話しかけてくる。



「なんだ、常守監視官。苗字が気になるのか?」
「はい。いくらなんでも遅すぎると思って。苗字さん、まだ慣れてないようですし……迷ってるんじゃないかと」
「電話してみればどうだ?」
「そうしてみます」



手早く苗字さんへコールをするが、出る気配がない。しばらく経ってから電話が突然切られ、部屋に沈黙が戻る。まだ扱いに慣れていないようだったから、間違えて切ってしまったのかもしれない。苗字さんの性格からして、電話を無視するなんてなさそうだし。
もう一度電話をかけると、今度は苗字さんが出た。切羽詰った声で閉口一番に謝られる。



「ごめんなさい!電話なんて初めてで間違えて切っちゃって……!」
「そうだと思ってましたから、大丈夫ですよ。苗字さん、今どこにいるんですか?」
「それが……どこにいるか、よくわからなくて」



二回目の予想通りの言葉に、マップを表示する。苗字さんの発信信号を探すと、かなり離れた倉庫を行き止まりに向かって直進しているのが見えた。どうしてそんなところに行ったんだろう。



「苗字さん、回れ右です。そのままだと突き当りですよ」
「え?あ、こっち?」
「はい。苗字さん、お手洗いには行きましたか?」
「それが、まだで……常守さんさえ良ければ、道順だけでも教えてもらえない?仕事中にごめんなさい」
「いえ、仕事しながらしているので、このままナビします」
「ありがとう!」



機械越しでも苗字さんの安堵した顔が伝わってくるような声は、長い間迷っていた事実の裏付けだ。電話を聞いていたらしい狡噛さんが視線を寄越し、それに頷く。電話を面白そうに聞いている縢くんと心配そうな征陸さんにも笑いかけて、ナビを再開した。



「突き当りを左です。ここに来るまでにお手洗いありませんでした?」
「あったんだけど……その、最初にお手洗いだと思って開けた部屋が、違って……その」
「どうかしたんですか?」
「部屋のなかで……だ、男女が……子作りしてた」



苗字さんの言葉に、縢くんが飲んでいたジュースを吹き出す。慌てて机を拭く姿を見ながら、何も飲んでいなくて良かったと心の隅で思った。
苗字さんは部屋から出るたびに何か起こす人物みたいだ。私が言えることじゃないけど。



「それで次に開けた部屋が会議中で……それからドア開けるのが怖くなってトイレ探してたらこんな時間に……」
「帰ってきたらナビの出し方教えますね」
「ありがとう!……それにしても、何で他人の子作りなんか見なくちゃいけないのかしら。恋人もいたことがない、か弱くて純情でぴかぴかの生娘な私のトラウマになったらどうすんの。しかもあの女、絶対あそこで交尾するつもりだったのよ。だって赤のレースでスケスケだったもの」
「は、はは……」



苗字さんは初めて電話を使ったと言っていた。だから、この会話がこの部屋にいる人に聞かれているなんて思ってもいないんだろう。事実を伝えるべきか迷っている間に苗字さんはひとしきり文句を言い終わって、落ち着いたトーンで問いかけてきた。



「ねえ常守さん、シビュラシステムってどんなことをしているの?お見合いサイトに職業判断、荷物を運んでくれるのは知ってるけど」
「苗字さんはよくシビュラのことを知らないんですよね?」
「ええ、まあ。閉じ込められた部屋で何人も呪文のように何か言ってたのは覚えてるんだけど……呪文だったら私だってルーラ唱えたい気分だったわよ」



遠くで征陸さんが笑うのを見て、いまのはシビュラシステムが出来る前の話だと当たりをつける。苗字さんはよく昔の話をして、征陸さんだけはそれがわかって納得したり笑ったりするのだ。ほかの人は置いてきぼりで、だけど苗字さんはそれを気にする様子がない。



「シビュラシステムのモットーは『成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である』なんです。誰もが適切な場所で働き、給料を得て、職業に貴賎はない。貧富の差もありません」
「なるほど、それはいいね」
「はい。昔は問題だったいじめや就職に関する悩みもほぼなくなっています」
「……それは、いいことね」



ほうっと安心するように息をはく苗字さんは、シビュラシステムにいい感情を抱いてくれたのだろうか。過去から来たというのは信じられないが、いま苗字さんがシビュラに反発したり疑っている行動は、シビュラシステムが導入された時の暴動に似通ったところがあるらしい。カツカツという勢いのある靴音と明るい声が聞こえてきて、意識をナビに集中させた。



「あのね、シビュラにもいいところがあるってわかってたの。でもはいそうですか、なんてすんなり納得できないじゃない。反抗期の子供と一緒ね。まずはシビュラのことを知って、それから文句も賛辞も言わないと公平じゃないわ。不満を持っている私を、シビュラは他の人と同じように保護してくれているんだから」
「シビュラシステムが生きてるみたいに言うんですね」
「生き物よ。いくら機械とはいえ、それを運営しているのが人間である以上、どこかに必ずその人の考えや癖が入るわ。……と、いうのは私の持論だけど!常守さんは全然まったく気にしないでいいけど!」
「ふふ、そうですか。そこの角を右に曲がって、五つ目のドアが一係の部屋です」



苗字さんがやわらかくお礼を言う声が聞こえて、ドアが開く音がする。帰って来れたー!と喜ぶ苗字さんに笑ってナビを終了させると、狡噛さんが最もな疑問を口にした。



「で、トイレはよかったのか」
「……あ」


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