篠崎の言うとおりその日のうちに退部届けが5つ出され、一週間のうちにもう2つ、一ヶ月以内にもうひとつ受理されてついにマネージャーは名前ともうひとりだけになってしまった。
 ふたり残ったと喜んだのも束の間、もうひとりのマネージャーは福富に熱烈な恋をし、よりによってインターハイ一ヶ月前に告白をした。そして当然のごとく玉砕し、福富にいささか厳しいことを言われたらしい彼女は泣きながら退部届けを出した。
 まさかの展開に篠崎と名前は頭を抱えたが、彼女は自信過剰なところがあり「福富さんは絶対にわたしを好きになる。もしいま好きじゃなかったとしても好きにさせる自信があるし、わたしがいたらインターハイももっと早く走れるはず」と根拠のないことを信じきっているようだったので、この展開はある程度予想できたものとも言える。
 篠崎はやんわりと告白することを止めたのだが、止められると余計に燃えたらしく、全力でぶつかって砕け散った。

「……とうとう名字さんだけになっちゃったね。わたしはインターハイが終わったら、追い出し走行会まで待たずに一足早く引退する。名字さん、あとは任せたよ」

 まさかマネージャーの業務が自分ひとりの肩にのしかかるとは思っておらず、名前は怯えながらも頷いた。
 逃げるつもりはない。インターハイで負けた王者を再び王者たらしめるために、名前も尽力を惜しまないつもりだった。
 
 篠崎が引退するとマネージャーはついに名前ひとりだけになり、お昼ご飯もひとりで食べることとなった。元から人見知り気味で男子とあまり接してこなかったおかげで選手ともそこまで親しくなく、部活中は以前より人と話さないようになっていた。孤独を感じていた名前の心の支えは銅橋だった。
 銅橋を特別扱いしない自信はなかったが、話すと恋があふれだす自信はあった名前は、銅橋をできるだけ避けていた。今まで交わした会話は数え切れるほどで、銅橋は覚えていないだろう短い会話すべてが愛しい宝物だった。
 名前の恋は誰も知らなかった。一番親しかった篠崎でさえ名前の思い人を知らず、引っ込み思案な名前をたまに気にかけてくれる東堂を好きだと思っていたほどだ。

 インターハイが終わると、名前の仕事は一気に増えた。毎日必死に仕事をこなしているうちにあっという間に追い出し走行会の日が来て、名前は部室でひとり、先輩たちが走る様を思い浮かべて仕事をしていた。
 名前はロードバイクに乗れない。一度自転車競技部の備品であるロードバイクに乗ってみたのだが、身長がわずかに足りずに乗ってみるだけで終わりになった。今日は車も出ないため、名前がゴール地点にいるのは難しい。
 走行会のあとの打ち上げの準備を黙々としながら、誰もいない部室を眺めてため息をつく。すこしでも銅橋の近くにいたい、選手を支えたい一心でマネージャーを続けているが、ひとりきりの時間が多くてめげそうだった。このあとの打ち上げでも、ひとりで壁際にいるかジュースやお菓子を配っているかだろうと考えると憂鬱だ。
 お世話になった先輩たちがいなくなるのは淋しいしお礼を言いたいが、お礼を言われるほうは名前などいてもいなくてもどっちでもいいだろうと思うと泣きたくなった。すべては名前が尻込みしているのが悪いのだが、女子に話しかけるならまだしも男子の群衆のなかに女子がひとりという状況で気さくに話しかけられるような性格ではない。

 準備を終えて一息ついていると選手たちが帰ってきたが、飾り付けなどがすっかり終わっていることにお礼を言うのは最初に部室に入ってきたひとりだけだった。ジュースが全員の紙コップに注がれ3年生たちが一箇所にかたまると、泉田の声で打ち上げが始まった。
 次々となくなっていくお菓子やジュースを出しながら、銅橋を横目で見る。銅橋はすこし離れたところでジュースとお菓子を食べていて、姿を見るだけで名前の心は癒された。

 お菓子を食べる手が止まりはじめ、用事があるからと帰る部員も現れたころ、名前はそっと部室を抜け出した。これでは壁の花どころか壁の雑草だ。
 冷たい外の空気を吸い込むと、体の中が綺麗になるような気がした。打ち上げの片付けをして帰るからそれまで時間を潰さないといけないと考える名前の目に映ったのは、夜になりかけている空を見つめている真波とそこからすこし離れたところで談笑するふたりの先輩の姿だった。
 今日で引退するその先輩たちは主役で、こんなところじゃなくて部室にいるべきだ。
 先輩たちに声をかけるか考えはじめたとき、先輩の声が聞こえてきた。大きめの、真波にも聞こえているであろう声。

「それにしてもインハイの最後を真波に任せるなんてな。福富が走ってたら絶対優勝してただろ」
「だよな。何で二位なんかで引退しなきゃなんねえんだよ。あいつヘラヘラして悪びれてねえし」

 薄暗くて真波の顔は見えなかったが、さっきまで空を見ていた顔がうつむいているのはわかった。名前の顔がカッと熱を帯びる。
 あの先輩たちには見覚えがあった。努力している銅橋に文句をつけて嫌味を言って退部になったと聞けば喜んで、速くなろうともしないくせに人の足を引っ張ることには長けているような人間。

「真波じゃなくて別のやつが出ればよかったんだよ」
「オレのほうが速かったりして」
「なんだよそれ」

 笑い合うふたりを見て、名前の頭にのぼった血は沸騰して煮えたぎった。いつもの引っ込み思案など忘れて、怒りを燃え滾らせながら先輩のほうへ歩いていく。
 名前にこんな一面があるのを知っているのは、もちろん少数の友人だけだ。

「この恥知らず!」

 名前の怒声とともに平手がとぶ。しかも二回ずつ。まさかいきなり怒鳴られて平手打ちをされるなんて思っていなかったふたりはぽかんとして名前を見上げ、数秒してわきあがってきた怒りに任せて名前の体を突き飛ばした。
 よろけたが怒りで痛みも感じない名前はふたりを睨みつけることはやめず、部員の誰も聞いたことのない大声を出した。

「真波くんに失礼なこと言わないでください! あのレースを見て、真波くんが手を抜いてるとでも思ったんですか!? 福富さんが真波くんを出した意味がわからないんですか!? 真波くんに謝ってください、今すぐ!」
「なんだよさっきから。何怒ってんだよ」
「これを聞いて怒らない人間がいると思ってるんですか! インターハイを走った皆さんは真波くんに箱学の誇りを預けました! 真波くんはそれを受け取って走って、それでも僅差で敗れたのは、総北も同じように死力を尽くしていたからです! 真波くんのことをすこしでも見ているなら、優勝できなかったことをどれだけ悔やんでいるか、あの日に囚われているかわかるはずです!」
「あ? なんだよ、オレらに文句でもあるっつーのか?」
「あるに決まってるでしょこの馬鹿!」

 すべてを出し尽くして戦った真波にこんなことを言うのが許せず、また、毎日孤独にすごして身動きしない自分への怒りがあふれだして、名前の怒声は止まらない。

「銅橋くんにもひどいこと言ってたでしょう! 努力してなにを言われてもなにを思われても負けずに頑張ってる銅橋くんのこと悪く言わないで! 練習サボってたくせに、頑張ってる銅橋くんの足を引っ張らないで! 銅橋くんと真波くんに謝って、今すぐ! 今すぐ!」

 真波は唖然として名前を見つめた。誰かに嫌味を言われることは覚悟していたが、まさかそれを聞いていた名前が怒り出すとは思わなかった。
 名前の怒声に気付き、部員たちが部屋から出てくる。「馬鹿」と「銅橋くんと真波くんに謝って」を連呼していた名前は、何事かとやってきた泉田に気付いて詰め寄った。

「退部します! 退部させてください! こんなことを思ってる人がいるなんて思わなかった!」

 興奮していた名前の目から涙がこぼれる。怒りに悔しさがにじんで、両手で顔をおおって流れる涙を隠したが、震える声で泣いているとすぐにわかった。

「銅橋くんと真波くんに謝って……ひどい……」

 何があったのかと当事者である真波と先輩ふたりに視線が集まる。慌ててなんでもないというふたりに「そんなことはないだろう」という福富の鋭い声が刺さった。

「……すみません。せっかくの打ち上げを台無しにしてちゃって、本当にすみません。退部届けは後日出しに来ます」

 帰ろうとする名前を止め、泉田は微笑んだ。

「さっきまで名字さんのことを話してたんだ。どこか自分を抑えているように見えたし、最近は苦しそうだったからね。名字さんが自分の感情を爆発させたということは、先輩たちの心残りを消したということになる。怒りをさらけ出してくれて嬉しいよ」
「え……でも……」
「いつもそんなことをされたら困るけどね。今回はすべて名字さんが悪いというわけでもなさそうだ」

 泉田の鋭い視線がヤバイと言い合っていたふたりに注がれ、目が細められる。

「行こう名字さん、真波。向こうで話を聞くよ。そして先輩方、引退おめでとうございます」

 泉田のわずかな皮肉に気付いたものは少ないだろうが、向けられた本人たちはしっかりと気付いた。
 己に厳しいが他人にも厳しい男・泉田塔一郎は、元からふたりの部活に対する態度を好ましく思ってはいなかった。それでもあとで皮肉を言ったことを謝り、なんだかんだ言いつつ三年続けたことを見習おうとするのを、彼を知っている者なら容易に想像がつくのだった。


return
×