名字名前が銅橋を見たのは箱根学園に入学した日のことだった。入学式が終わり期待と不安をにじませて教室まで歩く生徒の列を抜けてトイレへ行っていた名前は、列から外れて違う道から教室に行く銅橋の後ろ姿を見かけた。体の大きさから上級生かと思いつつ、すぐに忘れてしまう一瞬になる前に事件はおこった。
 おしゃべりに夢中でまえを見ていなかった上級生ふたりが銅橋にぶつかり、その巨躯に驚いて謝ろうとした矢先に新入生の証である胸元の造花に気付いた。態度が途端に変わり、自分より背が高く態度も大きい新入生を睨めつける。

「お前、新入生だろ。ぶつかったんだから謝れよ」
「は? そっちがぶつかってきたんだろ。オレは歩いてただけだ」
「ぶつかっただろ!」
「そっちがぶつかってきたんだろうが!」

 喧嘩っ早い銅橋が進み出て上級生の胸ぐらを掴むと、名前が想像していた以上に簡単に上級生の体が持ち上がった。平均的な体つきをしている上級生は、どう考えても軽々と持ち上げられそうにない。
 持ち上げられた生徒はもちろん、それを横で見ていた生徒も驚いて恐怖し、生意気な新入生を謝らせようという気持ちなど吹き飛んだ。銅橋が手を離すと同時に小走りで逃げていき、それを見た銅橋はフンと鼻を鳴らして何事もなかったように歩き出した。
 このとき銅橋は、中学のときと変わらない扱いや同じことをする生徒がいることに落胆していたのだが、名前にそれがわかるはずもなかった。気弱で頼みごとをされると断れず、面倒くさいことを押し付けられることも慣れていた名前にとって、銅橋の存在は衝撃だった。
 間違っていると思うなら、相手が誰であれ折れずに自分を貫く姿勢。腕力に頼ったのは感心できないが、入学したその日に上級生に絡まれたのに物怖じせずにいる度胸。なにもかも名前にないもので、憧れているものだった。

 普通ならば銅橋を危険人物だとして近付かないようにするだろうが、名前はそうしなかった。銅橋がふたつ離れたクラスにいることを突き止め、自転車競技部に入るということを知るとその日のうちに本屋に行ってロードバイクについてのありったけの本を買い、勉強しはじめたのだ。
 自分のことを意気地なしで気弱だと思っている名前が、実は頑固で一度決めたことはやり通す人物だということを知っているのはごく少数の親しい友人だけである。

 そんなわけで銅橋と出会ってから二週間、できるかぎりの知識を頭に詰め込んだ名前は、仮入部期間が終わったあとに自転車競技部へ入部届けを出した。今年のマネージャーは10名で、ここから半数近くがやめるのはマネージャーも選手も変わらない。部員から「3年続けそうな新入部員」としてチェックをつけられているのも知らず自己紹介をした名前は、主将である福富の言葉に凍りつくこととなった。

「箱学の自転車競技部は常勝だ。優勝することが当たり前で、重責も期待も他校より大きいだろう。だが、これは誇りだ。練習は甘くない。ハードな練習についてきてなおかつ結果を出す者でないとインターハイメンバーにはなれない。そしてマネージャー。選手を好きになっても構わないが、選手はマネージャーを支える存在として見ていて恋愛に発展することはない。浮ついた気持ちで入部したなら即刻退部するように」

 福富が話し終え、部室に静寂が広がる。誰かが挙手して「わたし、浮ついた気持ちで入部しました。いますぐ退部します」というのを待っているような空気で、あまたの視線にさらされた名前は体が震えた。福富は、名前はそういう感情で入部してきたとは思っていなかったが、実際は名前の思いが一番強かった。
 挙手したほうがいいのか悩んでいるあいだに福富は口を開き、さっそく一年生をタイプ別に分けて練習することを伝え動き始めた。止まっていた時が動き出し、部室に温度が戻る。
 マネージャーも集められ、さきほどの福富の言葉の補足を話しはじめた。

「さっき福富も言ってたけど、部内恋愛は禁止じゃないけどマネージャーでいる以上選手との恋愛はないよ。誰かひとりを特別扱いすることがあれば選手と接しない仕事をしてもらうし、部内を乱すようなら退部してもらう。好きな選手が自分を好きになってくれて公私混同しないなら文句は言わないけど、マネージャーも部員だから、女というより仲間として見られる。わたしもマネージャやって3年目だけど、マネージャーが部員と付き合ってるのなんか聞いたことないし、先輩もないって言ってたから、そういうのがないと嫌だって人はやめたほうがいいよ」

 厳しい言葉に視線を交わし合うマネージャー候補がちらほらいるのを見て、名前は生きた心地がしなかった。福富があんなことを言ったのは自分の邪な気持ちに気付いたに違いない。いますぐ自分の気持ちを言って退部したほうが銅橋の邪魔にならないかもしれない。
 震える名前を見て、さきほど新米マネージャーたちに厳しい言葉をかけた篠崎はいくぶん表情を和らげた。篠崎はもちろん名前のことをそんなふうに思ってはいなかったが、脅しすぎたと気付いたらしい。

「とはいっても、思ってたより仕事がきつくてやめるほうが多い。わたしの代だって残ったのはわたしだけだし、二年はいない。今日一日しごくから、キツくて続けられそうになかったら遠慮なく言ってね」

 退部届けを出しやすいようにさきほどより優しい声で言ったあと、やることを羅列した紙が配られた。マネージャーの仕事ずらりと書いてあり、それぞれ今日やることが割り振ってある。
 名前はトレーニング室の掃除と、全員でするドリンク作りだった。紙には丁寧に掃除の仕方が書いてあり、よこしまな思いで入部したマネージャーたちのことを気遣ってこの紙を作成したことがわかって、話したこともない銅橋への淡い恋心が音をたてて軋んだ。

「何かわからないことがあったら聞いてね。あなたたちの持ち場を回ってるか部室にいるから」

 さらに簡単に説明したあと放り出されたマネージャーたちは戸惑って先輩を見たが、事態はなにも変わらない。どうする、というささやきが交わされるなか、名前は紙を握りしめて窓の外を見た。
 すぐ近くに銅橋がいる。そしてたぶん、自転車に乗っている。先輩に文句をつけられていた時の苦々しい顔ではなく、好きなことをしているときの必死だけど楽しんでいる顔で。
 篠崎にトレーニング室の場所を聞いた名前は、まだ動き出さない女子の群れから抜けて歩きはじめた。退部するにしろ、やるだけのことをやってから退部しよう。この紙は先輩の手作りで、作るのに時間がかかったに違いない。

 トレーニングをしている選手の邪魔にならないように掃除をはじめた名前は、やりはじめたらとことんやるという性格から、トレーニング室を隅々まで掃除した。モップ、雑巾がけ、さらに乾拭き、窓や窓のさんの清掃を終え、トレーニングマシンを丁寧に拭いているところで篠崎が現れた。
 集中して篠崎が入ってきたことにも気付かなかった名前は声をかけられて軽く飛び跳ねた。

「お疲れ様。すこし休憩したら?」
「あ、はい」

 言われるまま雑巾をおいた名前は、掃除をはじめてもう一時間以上たっていることに気付いて驚いた。ちゃんと水分をとって休憩してね、と渡されたスポーツドリンクをお礼を言ってから受け取り、勢いよく飲みはじめた。喉が渇いていたらしい。

「名字さんだっけ? ずいぶん頑張ってるね」
「いえ、そんなことは……。あの、二年のマネージャーっていないんですよね?」
「一年前まではよく働く子がふたりいたんだけど、ふたりとも選手に告白して玉砕、気まずくなってやめちゃった」
「そうだったんですか……」
「思わせぶりな態度とるほうも悪いんだけど、なんていうか、その思わせぶりなのって誰に対してもそうなのよね。それを見抜けなかったから告白しちゃったんだろうけど」

 名前の心臓が嫌な音をたてて血液を送りはじめる。言うなら今だ。まだ恋になりきっていない淡い思いとはいえ、銅橋を特別扱いしない自信なんてなかった。

「あの……その」
「もしかして、さっきの話気にしてる? うちの部員は顔がいいのが多いから、きつめに言うことにしてるんだ。たぶん今日で7人はやめるだろうな」
「そんなにですか?」
「部活見学に来ずに当日になって入部届けを出しに来た子が8人。名字さんは大丈夫だろうけど、ほかの子はたぶん東堂や新開狙いかな? 残りそうな子が名字さんしかいないのよ」
「でも部内恋愛には厳しいって、福富さんも……」
「そりゃ建前はね。だけど女と男がいるんだから、そういうことも当然あるでしょ。さっきは部内恋愛なんてないって言っちゃったけど、本当はよくあるんだ。わたしも、ひとつ上の先輩と付き合ってる。向こうはもう卒業しちゃったけど」

 内緒ね、と笑う篠崎を見て名前の口が開く。まさか厳しいことを言った本人が部内恋愛経験者だなんて、誰が思うだろう。

「名字さんだから話したんだ。だから誰にも言っちゃだめだよ、あれはふるいにかけるための罠なんだから。わたしは先輩と付き合ってたけど、誰にも文句は言われなかったよ。きちんと部活と恋愛はわけてたからね。お昼ご飯を一緒に食べるくらいはしたけど」

 はあ、という相槌しか打てない名前を見て篠崎は笑った。この真面目そうな少女を、好きな人がいるのかなんてからかえそうにない。

「大丈夫よ、何かあったらわたしに相談して。悪いようにはしないから。一緒に選手を支えていきましょうね」

 差し出された手を戸惑ってから握る。握った手からじんわりと歓迎と期待が伝わってきて、名前はようやく重責を感じた。篠崎は、名前が残ると判断して打ち明けてくれたのだ。この期待を裏切ることは出来そうになかった。


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