「すみません、次の壁外調査には行けないんです」
午後からの会議にぎりぎりに滑り込んできたナマエは、開口一番にそう言った。リヴァイ兵長の目が鋭く細められて、ナマエをにらむ。エルヴィン団長は、静かに理由を尋ねた。
立体機動は相変わらず下手くそだが、ナマエは運がある。思えばトロスト区の扉が破壊されて死にかけたときも、エレンが暴れてくれたおかげもあるが、ナマエを食う巨人はいなかった。壁外調査もナマエだけは奇行種と会うことが少なく、そのおかげで生還できていると言っても過言じゃない。
まだまだ半人前だが、それでも貴重な戦力だ。あれほど壁外調査に行くことに固執していたやつの発言とも思えなくて、みんなナマエの弁解を待つ。
「赤ちゃんができたんです。この子を産むまで、さすがに壁の外には行けないなあって。小学校に行く年になったらまた壁外調査に行きたいと思うので、そのときはよろしくお願いします」
ぺこりと頭をさげて言ったナマエの言葉が理解できなくて、口を開けたままナマエを凝視する。
みんなの視線がじわじわとオレに移っていくのを感じながらも、ぽかんとナマエを見ることしかできなかった。エレンが、なんでもないようにナマエに聞く。
「それ、ジャンの子か?」
当たり前だろ、なに言ってんだ。そう言いかけた口が止まる。
……なんでこいつはこんなことを聞くんだ? オレの子じゃないとすれば誰の子なんだ?
ここにいる全員は父親がオレだと疑ってもいないのに、こいつはおめでとうでもなく、一番先にこれを聞いた。まさか……まさか。
「おいエレンてめえまさかナマエに手を……」
「ジャンくんの子だよ。自力で妊娠なんて出来ないし」
「だよなー」
「紛らわしいことを言うんじゃねえよ死に急ぎ野郎! さっさと死にやがれ!」
「はあ!? 大声だしたら赤ちゃんが驚くだろ!」
オレとエレンのつかみ合いを、ミカサが慣れたように止める。それからナマエに向かって、おめでとうと言った。
それからはもう、おめでとうという言葉が降り注ぎ続けた。人が定期的に死ぬこの兵団では、喜ばしい情報なんてめったに入ってこない。
みんながおめでとうを言い終わったあと、ようやくオレに出番が回ってくる。実感がわくまで時間がかかったせいで、ナマエになにも言えていない。情けなくもすこし震える足でナマエの前まで言って、まだ平たいお腹に手を当てた。
「本当に……本当に、ここにいるのか。勘違いじゃすまねえぞ」
「大丈夫、いまお医者さんに行ってきたから。でもね、自分だけじゃ気づかずに次の壁外調査に行ってたと思うから、マルコくんには感謝しないと」
懐かしい親友の名前を聞いて、動きがとまった。どうしてここでマルコの名前が出てくるんだ?
「昨日夢でマルコくんに会ったの。どうしてか悲しくなくて、久しぶりって言って懐かしい話をしてね。ジャンくんの秘密も聞いてきたから、あとで教えてあげる」
「いま言え」
「ええ? じゃあ……テストでエレンくんより順位が下だったとき、八つ当たりで木を殴ったら虫が落ちてきて、マルコくんとふたりで大騒ぎしたとか」
──どうしてその話を知っている。それはオレとマルコだけが知っていることだ。そしてマルコがナマエのそばにいるときは、常にオレがいた。こんな話をしていた記憶はない。
つまり──つまり。
「私のお腹には赤ちゃんがいるから、次の壁外調査には行かないほうがいいよって教えてくれたの。そしたらペトラさんとオルオさんとグンタさんとエルドさんも出てきてね、あとネスさんとナナバさんとミケさんとクラウスさんと、あっクラウスさんっていうのは私がここに来てはじめての壁外調査のときにジャンくんのところまで送ってくれた人ね。とにかくみんな来てお祝いしてくれて、すっごく嬉しかった」
部屋が静まり返る。ナマエの言っていることは夢物語で、すぐに信じられるものではない。それでも信じたくなるのは、自分の夢にも出てきてほしい人物がいるからだ。
「私は早く生まれ変わってまたみんなとお話したかったんだけど、いまから生まれ変わるには時間がかかるから、もう少し見守ってるって。みんな、いまでも見守ってくれてるんだよ」
「ナマエ……それは本当か? 夢じゃないのか?」
「夢だけど、夢じゃないよ。ジャンくん、マルコくんがね、僕の言葉を忘れないでいてくれてありがとうって。いま何をするべきか、君はちゃんとわかっているねって」
「──マルコ」
その言葉を知っているのは、オレとマルコだけだ。立ちすくむオレを見て、部屋の空気が変わる。
ナマエはやわらかく微笑みながら、次々と遺言ともとれる言葉を紡ぎ出していった。
「リヴァイさん、リヴァイ班のみんなが、班が結成されたときに言った言葉は本当ですって。とっても光栄でしたって」
「……そうか」
「エルヴィンさん、ミケさんが、部屋の棚に隠してあるお酒は飲んでいいって言ってました。香りもいいって」
「……ありがとう。大事に飲ませてもらおう」
「ハンジさん、ナナバさんが徹夜もほどほどにしないと早く私に会うはめになるよって、笑ってました」
「ナナバは、こんなときでも人を気遣うんだね」
部屋にしんみりした空気が漂う。ナマエは言いたいことだけ言ったあとに部屋をでようとドアに手をかけて、ふっとオレを見た。
「子供にマルコって名前をつけようかって冗談で言ったら、マルコくんが困ってたから、マルコって名前はやめようね」
「男、なのか?」
「うん。マルコくんが言ってたから間違いないよ」
喜べばいいのか悲しめばいいのか懐かしめばいいのかわからない。いろんな感情がごちゃまぜになって押し寄せてきて、思わずナマエを抱きしめた。優しく頭をなでられて、子供じゃねえと言いたかったが、声にはならなかった。
「ナマエ。──ありがとう」
「こちらこそ、私を愛してくれて、ありがとう。すごく嬉しい」
そこは礼を言うとこじゃねえだろ。そう思ったけどやっぱり声にならなかったから、喜びを噛み締めることに集中することにした。
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