御隠居の話。///

 「なぜ」と思った。
 こんな山奥くんだりまで来てしまうなんて、とも。

 あの瞬間。お前の顔を見た瞬間の俺の顔を、お前は見ていてだろうか。いや、きっと気がついて無いか。観察力もまだまだ甘いし。仮にも足が悪い俺にあっさりと組み敷かれる程度だし。
 本当はあの時、俺は心底動揺していた。次に会う忍びは殺す相手だろうと思っていただけに予想が裏切られ、本当に驚いていたのだ。

 里を抜けた後に追ってくる人物がいるとは思っていなかった。最も、少々頂戴してきた物品や情報が紛失していることに気が付いたら追いかけてくるだろうということは予想していたが。だが、二年ほど経って、ようやくきちんと庵にたどり着けたのは、殺気もなく気配を殺しきれてもいない、普通の忍びだった。

 正直、拍子抜けもした。手練れの連中か上層部の先鋭でも送り込まれてくるかと思っていただけに何かの間違いかとも思ったほどだ。あるいは、俺の評価が著しく低かったか、だ。
 気配は確実に俺を探していたが、なぜ殺気が弱いのかさっぱりと分からない。この程度なら少々足が悪くても何とかなるだろうと、しまい込んだクナイや刀ではなく包丁を手に取ったのもそのせいだった。



 そうそう、あとから「囮とは考えなかったのですか」と間抜けな忍びは俺に尋ねてきた。もちろん、囮の可能性は考えたが、別の罠に反応がなかったことから相手が単独であることに見当をつけていたことを教えてやった。その時になってこいつはようやく、「あ、本当だ…」と何か所かに仕掛けていた鳴子や罠に気が付いたらしい。
 こういうところがまだまだ甘いんだよなと思ったが、「そこまで教えてくれなかったじゃないですか」と少々反撃を受けたので、「気が向いたらな」とその話は終わらせたが。



 「誰だ」と誰何すると、小さく「ウェザーです」と答えるのを聞いて、面倒を見たことのある忍びだとわかった。筋が悪いわけではないが飛び抜けたところもないやつだったな、とすぐに思い出した。取り押さえられても不思議と抵抗せず、敵対するそぶりもないので、俺は話を聞くためにも解放した。
 座り直しながら様子を伺うと、薄く出血している部分を指先で確認しているのが見えた。一応、面で顔を隠してはいるし忍びの姿をしている。「個」が分かるようなものは見つからない。だが、俺はこいつの… ウェザーの”声”を思い出していた。昔から、忍びにしては穏やかな声音で、やけに耳に残るのだ。

 そして話を聞けば、俺に会いに来たのだと口にする。柔らかい声音に、嘘は無いように聞こえた。その言葉に俺がどれほど安堵し救われたのか。まだ年若く、どこか間抜けなお前には分かるまい。


「どうして、急に里を抜けたんですか」
 ウェザーは俺にそう問うた。
 語るに語れず、伝えられる言葉を多くは持たぬ俺は、暫し考えた。ああだこうだと、思うことは山とあった。だが、その一つ一つを口にするのは憚られて、結局ただひとこと「嫌になった」と返した。きっと、答えたときの俺は情けない顔をしていたことだろう。
 実際、まるで稚児の癇癪のような理由しか俺にはない。何もかもが嫌になった、などという。だが全ての出来事の先にあったのは「もう耐えられない」と思った、あの日の俺の姿だけだった。

「俺の脚はもうほとんど動かないし。動けんといってるのに指南役はやらされるし、里の運用に書類整備だのなんだの……」

 些細な理由ばかりを口にする。足が望む通りに動かなくなったのは、なにも最近のこと。これだって止めになったのは里を抜ける時だ。足が今ほど動かなくなる前に、とうに嫌気がさしていたのだ。指南役も、まぁ面倒ではあったが若い連中のためになるのなら苦ではなかった。里の運用だって。それが職務ならば俺は。その先に確かな繁栄があるのなら。一人でも生き残れるのなら… …

「ええと… それが普通では?」
 ウェザーの不思議そうな声に、話ながら沈みかけていた意識を引き戻される。
「そうだな」
 普通。忍びにとっての、普通。
「それが普通だ。俺たちは忍びだからな」


 俺がそれに、耐えられない男だったのだと。君は思わないのだろう。


 心の臓が、軋む。
 雨が近づいてる訳でもないのに足が痛む。肩に重石が乗るようなこの倦怠感を催す感情の名前が分からない。俺たちはそうしたものの名を知らない。
 悲しみに蓋をして、喜びを砕き、幸福とは無縁。知ることは悪。心をひた隠しにし、消し去ろうとする者こそが忍びなのだ。だが一度知ってしまえば、見て見ぬふりはできなくなる。できなくなってしまった。それが、理由などと。

 懐からキセルを取り出し指先で遊ぶ。麓で仕入れた煙草の葉を刻んだものを取りだし、指先で丸めて詰め、火を着ける。漂う紫煙の匂いがすっかり部屋にも、俺にも染み付いていた。最近では手持ち無沙汰になるとこれを吸うくらいの頻度で、口内から肺へと煙を満たす感覚にも慣れきっていた。
 忍びは匂いを纏ってはならないため、煙草や香といった匂いは厳禁である。逆に、極端に匂いがないという三流の忍びも存在するほどだ。潜入に際し小道具として使うこともあるが… 里を抜け、自由になって真っ先に破った禁がこれだった。
 匂いという形で、手っ取り早く自分を示せるものを得たかったのかもしれない。

 里にいる時の俺は、良くも悪くも「正しい忍び」であったと自負している。里に拾われてからというもの、俺は忍びという選択肢しか持たなかった。それしかないのだから、当然その職務を全うした。正しい忍びであるということは、同時に極力個を削ぎ落す必要がある。俺には他の忍びとの差異もなく特徴もなかった。
 運よく生き延び続けることができたという点において、俺は差異を認められるに至った。それは個の認知をもたらしたために、俺に与えられる役目は指南役と呼ばれるものに変わり、次代の忍びの育成を任されるようになったのである。

 それまでの俺は他の忍びなどさして気にしたこともなかった。向上心といったものがあるでもなく、ただ与えられた役目をこなすだけ。
 しかし、指南役になってからはそうも言えなくなった。忍び一人一人の特性を見極める必要があった。それは、嫌でも、我々が決して同一の存在ではないことを認めることでもあった。

 その生活の中で導かれた結論はただ一つ。
 我々はどうしようもなく、個を持つ人であるということ。ただそれだけだった。

「里は個を認めない。せいぜいあるとしたら、技の向き不向きによる種分けのみ」
 嫌というほど身に染みているその事実。ウェザーが口を開く気配を感じた。
「不満でしたか」
 ふぅぅ、と長く息をつくように煙を吐き出す。宙を舞いながら霧散していく煙の向こう側からウェザーが俺を見ていた。その目を見ながら、奥底で延々と蟠っていたものを共に吐き出す。ただ、一言。

「ずっとな」

 ずっと、不満だった。俺は。
 その事を口にするとウェザーの眉根が少し下がるのがみえた。ほとんど見えない彼の目元の変化に、気がつく事ができる人物は恐らくもう里にはいまい。

「……その、今日お会いするまでは、まったく」
 気が付かなかった、とぽそと小さな小さな声でウェザーが答える。
「それが俺の適正だった。平均的ではあったが、よくて器用貧乏。向きの不向きもないが、強いて言うなら理想的な忍び。故に、与えられたのが指南役だった。が、向いてなかったんだろうな」
「向いてなかったって… 先輩、が?」
「…… お前が、俺をどう思っていたのかは、わからんが…」

 驚いたと言うようなウェザーの声が返ってくる。その様子を見て、里にいた頃の俺は随分と上手く皮を被れていたのだなと安堵をした。同時に、ふと目の前の後輩の今後が気になって、どうするつもりなのかと尋ねる。

 抜け忍には原則として抹殺命令が下される。里に関する情報を他に漏らされることを封殺するためであるが、勿論それが総てではない。
 里がいくら個を圧し殺したとしても里にいる忍びは「人」だ。ひたすら意思のない人形の振りをしたところで、何かしらの功績を認められて振り分けられた上層部になればなるほど、個を得る。
 個が集えば、やがて不和を生む。

 詰まるところ、里は一枚岩ではないのだ。忍びという職務をもつ共同体でありつつも、上層部ほど互いの利益を牽制しあう。そんな醜い事実は勿論、下の連中には知るよしもない。

 里の忍びの中では嘘をつくことが下手な愚直な後輩如きでは、俺に会ったことは即座にばれるだろう。だが、嘘をつくのが下手であっても、忍びとして使いようはあるのだ。

 …例えば、俺の居場所を探らせて持ち帰らせるだとか。そのような情報収集において、これほど有能な駒は無い。
 もしもウェザーが帰れば、こいつは忍び生活に戻るだけだろう。晴れて俺の居場所を突き止めたことで巧みに利用されることだろう。俺は恐らく殺されることだろう。だったら、まだこいつに俺の首でも持ち帰らせる方が連中の出鼻は挫けて言いかもしれないなぁ。
 などと考えながら提案をしても。「なにも考えてなかった」と言う。そうだろうとも、と納得をしながらさて、と再び考えを巡らせようがそこで遠くからかすかな声が聞こえた。



 麓の子供たちの明るく陽気な声。目の前にちょこんと座っているウェザーの姿は典型的な忍び装束。すぐに村人の格好になるように指示をすればぱっと姿を変えて出てきた。
 …記憶にある姿と変わらない姿であった。

 カラカラと入り口が開き、子供たちが「せんせー!」と俺のことを呼びながらやってきた。最初に入ってきたのは妹が寝込んでいる女児。一度診療に麓へ足を運んだが、幸い軽い熱程度だった。その後の様子を尋ねると熱も下がり始めているようなので、弱い薬を新たに用意する。子供たちは興味深そうに手元を見たりもしたが、すぐに飽きて部屋の中をうろちょろとし始める。……当然、それを見越しているので子供たちの手が届く範囲には危険なものは一切置けないのである。
 同時に、子供たちは見慣れない人物への興味を隠し切れない様子であった。薬を持たせながら、そういえば体力はあるだろうしちょうどいいだろうと子供たちの遊び相手をウェザーに押し付ける。慣れていない様子が見て取れるその様子は微笑ましい。

 子供の手は小さくやわらかい。
 俺やウェザーのような手とは違う。性差や年齢だけではない決定的な違いがある、無垢な手だ。その手にべたべたと顔を触られることがどれほど俺たちには稀有な経験だろうか。そして里に置いてきた連中のどれほどが、その柔らかさや温かさに揺り動かされるだけの心を遺せているだろうか。
 肩車でもしてやれ、と伝えた通りウェザーは外で子供たちに囲まれて肩車に興じていた。現役の忍びゆえ、麓の大人たちより体が丈夫で体力もある。馬の代わりにされようと、おんぶをしながら抱っこをせがまれようと、5人同時に持ち上げないと誰かしらが不満で泣き出す事態にも対応できる。脚が悪い俺と違って。というかそれくらい出来てくれないと困る。主に俺が。そういう視線で縁側からのんびりと子供たちがウェザーではしゃいでいる姿を眺めながら、膝の上に乗ったままの子の頭をなでる。

「お前たちは、外に行かなくていいのか」
「うん。あのね、せんせーといる」
「そうか」

 きょとと大きな目を真ん丸にしながら子供が笑う。「せんせー、あしわるいもん」と言いながらぺちぺちとその手で俺の脚を叩く。
 「だからいっしょにいてあげる!」と女児は笑う。後ろからはじ登るように背中に張り付いた子供が俺の着物をつかんだ。前後からの体温を感じながら、絹糸のように細く柔らかな子供の髪を手のひらで撫でる。
 子供たちは時々入れ替わりで俺のところに休憩にきて、水を飲んだりしてからまたウェザーへと飛びかかっていった。いい遊び相手ができて子供たちも楽しいのだろう。幸い、ウェザーが子供たちに警戒されている様子も見受けられず、また不慣れながらも子供たちと遊ぶのもそこそこにうまいようでこちらも安心した。
 俺の膝に乗りながらのんびりとしていた女児もいつの間にか寝ており、俺の周りは昼寝の子ばかり。ウェザーの周りは体力が有り余った男児たちが暴れまわっているといった様子で、そんな賑やかな時間を過ごしているうちに時間は飛ぶように過ぎていく。

「そら、帰る時間だぞ」
「んぅ…」
「やー、まだせんせーとあそぶぅ」
「寝てたろうが」

 いやいやと首をふる子供たちではあったが、辺りが次第に暗くなりつつあることを理解して「またね」と手を振りながら山を下りていく。完全に暗くなれば、この山とて獣の領分となる。俺が住む庵の周りと、麓に通じる道は多少安全なようにしているが言葉の通じぬ獣が相手では時々は襲われることもあるだろう。故に、日が暮れる前に夕暮れを背負って子供たちは必ず帰るようにしているのだ。
 またねと手を振る子供たちに小さく手を振る。きゃらきゃらと明るい笑い声が次第に遠ざかっていく。男児たちは走り出したようで、女児たちはそれを咎めているようだった。手を下ろしながら、共に子供たちを見送った阿呆な忍びへと視線を送る。

「それで?」

 子供たちが帰っていったのだ。もう夜になる。夜陰に紛れて事を起こすのであれば、この後。そう、この忍びが帰ることを選択するならば、もう時間はない。
 だからこそ問いながら答えを聞くために部屋に戻ろうとした。瞬間、不意に足の力が抜けよろめく。咄嗟に隣からウェザーの手が伸び俺の体を支えた。転ばずに済んだことに感謝を伝えながら、ありがたくその腕を借りて部屋へと戻る。
 式台で履物を脱ぎ、畳の上へと腰を落ち着ける。正面にするりと音もなく座ったウェザーへと視線を向けると、「俺、ここに住みます」と返事をひとつよこした。

「苦労するぞ」
「知ってます。でも、帰りません」

 ウェザーの目がまっすぐに俺を見返していた。その目は庵に差し込む光と同じ色に輝いていた。

 もっと迷わなくてよかったのか。本当にその選択でいいのか。後悔は、しないのか。ここにいたところで良いことなどないのに。狙われるようになるだけだというのに。本当に。いいのか。そう、問うべきだったのに、俺はただ「そうか」と声を出すことしかできなかった。

 結局、俺はこんなにも嬉しいと思う気持ちを捨てられなかったのだ。こいつのことを考えてやるのなら、俺はここで追い返してやるべきだった。いや、この首を断ち切って見せるべきだったのかもしれないのに。だが、そうはならなかった。できなかった。俺はまだ、死にたくなかった。己の為に、俺はこいつのためにできることを放棄したのだ。
 だから、やはり思う。俺は、忍びになど向いてなかったなぁと。
  
 さっそく、あくせくと働いてくれる後輩を見ながら、口許は自然と弧を描いた。


***
 

「ほら、早く寝ろ」
「え、いや…… 寝なくても別に……」
「阿呆。寝ろといったら寝ろ。早くしろ布団が冷える」

 横暴だぁ、と小さな声が聞こえる。早くしろと急かすと渋々といった風に近寄ってくる。「失礼します」とまた小さな声で断りを入れて布団に入る。足先が当たる。温いな。

「……先輩、にやにやしてる…」
「ん?温石代わりに丁度いいと思ってな」

 遠慮がちに布団のぎりぎりに寝ようとするも、そもそも布団は一人用。成人をしてる男が二人ではあっという間にはみ出す。もうちょっとこっち寄れ、と近寄らせる。もぞもぞとほんの少しばかり近づくも、俺とこの情けない遠慮しいな後輩の間にはまだ隙間があった。

「ほら、俺の言うことは聞いてくれるんだろう? だったら大人しく温石になってくれ」
「う… ぅう…… 言いましたけど…」

 こんなことをするとは思ってなかった、と蚊の鳴くような声でどこか気恥ずかしそうにしているのを見て、また頬が緩む。温い。相変わらず温い。頑なに近寄ろうとせず、どことなく落ち着かない様子で周囲へと視線を泳がせる姿のぎこちなさと言ったら、見ていて飽きない。だが、寝る前にそうもそわそわとされては落ち着かないのも本音である。
 少々強引なのはわかっていたが、ウェザーの首の下に腕をねじ込む。さっと。若干強引に腕を滑り込ませたので首筋にがつっと当たったが、まぁちょっと痛いのは諦めてもらうとしよう。そのまま頭をぐいと引っ張り込んで抱え込む。不意打ちで頭を引かれればいくらウェザーと言えど体が近くなる。若干腰が引けてるようだが、まぁこれ以上意地悪をしてやるとむしろ寝付けなくなりそうなので頭を押さえるに控えてやった。

「えっ」
「……よしよし、これでいい。おやすみ」
「えっ、ちょっ、えっ」
 
 がっちりと後輩の頭を押さえながら、ふとその頭を撫でてみる。暴れぬ程度にどうにか逃れようと最初こそなけなしの抵抗をしていたが、次第にそれも弱まっていく。とろとろとした目線を俺に向けながら、しかし目が合うと驚いたように布団の中に顔をうずめていった。ウェザーの体の力が抜けていくのが腕から伝わる。「せんぱい、」と小さくくぐもった声が聞こえた気がしたが、頭を緩くもう一度撫でてやると案外あっさりと寝息が聞こえ始めた。

 こいつは、慣れてないのだ。故に、抗えるはずがない。この温さの心地よさに。

 寝始めると、体は自然と寒さを嫌がるようになる。逃げ腰だったウェザーの胴体から下も、布団の内側へとするすると体を寄せてくる。そうそう、それでいい。血の巡りが悪くてすぐに冷える足先をありがたく温めさせてもらうとしよう。

 代わりに。
 代わりに、帰る場所も往く場所も捨ててしまったこいつに、俺が与えられるものはすべて与えよう。忍びとしての技術も、俺しか知らないようなことも、忍びには持ち得ぬだろう感情も、人との交わりも、こいつが知らないだろうことは総て教えてやろう。そのためならば、俺はもう一度、人であることを捨てても構わない、と。

 頬を撫で、指先から体温を感じながら、思案する。

 願わくば。お前だけは冷たくなってくれるな、と。お前が、誰よりも人でありますように。人として幸福になれるように、と。
 人でなしとして生きてきた俺には、過ぎたる願いと知りながらも。

===
御隠居の話。

mae//tugi
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -