はいしゃ。///

ある男と女の話。

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奴隷になることを嫌がって彼女は逃げ出したそうだ。
そうすると、結局、彼女に行き場所はなかった。
逃げ出した奴隷なんざ、ほとんどが見向きもしない。
むしろ人でもないものがうろついていれば、そんなものは好きにいたぶっていいわけだった。

彼女が道でぐったりとしていた。
体を売って日銭を稼ぐのがせいぜいの生き方。
疲弊して、ぼろぼろの彼女が胡乱な目をこちらへ向けた。

「……僕のところに、来てくれないか」

手を差し伸べたら彼女はためらいがちに手を取ってくれた。
家においで、と彼女をそのまま連れて帰った。

夜伽をしてくれようとする彼女を押しとどめて、僕は彼女の両手を握りしめて目を合わせた。
戸惑っている彼女に、僕は不躾に「僕の奴隷になってくれ」と頼み込んだ。
彼女はそもそも、奴隷が嫌で逃げ出したのだから、僕はきちんと彼女に条件を告げた。

「君が嫌がることはしない。君は、死にたくなかったんだろう?」

だから、君の命を危機にさらすようなことはしない。
君はその分、ここに暮らしてほしい。
僕は時々君を抱かせてほしいと頼むだろう。
君が嫌なら、それも断ってくれて構わない。

どうだろうか。
そう聞いたら、彼女は控えめにうなずいた。目は警戒の色だけだった。

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どうせ、売られるのだろうと思っていた。
甘い言葉で釣り上げて、すぐ捨てるのだろうと思っていた。
彼はそうしなかった。
私にいつも優しかった。
それが不気味だった。

ちゅ、と彼が私に口づける。いつも、こうして挨拶をしてくる。
ためらいがちに「口づけていい?」と彼は聞いて、私が頷くと優しくキスしてくれる。
恋人にでもするような口づけだと思った。

明日には売られてしまうかもしれない。
明後日には裏切られてしまうかもしれない。
そう思うたびに、私は彼を遠ざけた。
彼はそんな私を見て、徐々に距離を置いていくようになった。
お互いに距離を測りかねていたのかもしれない。

だって仕方がないじゃないか。
私はずっと、一人だったのだし。
まして、こんなふうにやさしくされることに慣れてなかったのだ。

あまつさえ、彼は私にこんなことを言った。

「君の体は大事にしないと」
「いつか子供を産んでもらうかもしれないだろう」

なんて。

冗談のつもりではないようだった。
私のことを娶りたいなどとバカげたことを言っていた。
つい、私もそんな彼の熱に浮かされて頷いてしまったり、彼の子を欲してしまったりしたけれど。
冷静に考えれば、だって、ありえない。

だからなおさら、どうしていいかわからなかった。
少しずつ彼が離れていく。それでいいと思っていたのに、なのに。

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ある日、彼女が倒れた。

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目が覚めると、あの人が私の手をぎゅうと握ったまま眠っていた。

ぽけっと彼をみつめていると、私が起きたことに気が付いた彼が突然起き上がって、私の顔に触れる。
あわあわとしながら私の顔を覗き込み、しきりに具合はどうだと聞いた。

彼は少しやつれていた。
目の下にクマができていて、髪もいつもよりぐしゃぐしゃ。
そんな顔で、本当に心配という顔で私の顔を覗き込んで。

何も言わないでぼんやりと見つめていると、彼は慌てて立ち上がっておろおろ。

「水はいるか!?どうした?どこか具合が…?」

右往左往しながら、そしてまた戻ってきた彼にくすりと思わず笑いがこぼれた。
不思議そうに隣へ戻ってきた彼に手を伸ばし、その頬を触れさせるよう合図する。
意図を察したのか、彼がゆるりと身をかがめ、どうしたんだいと問いかける。

頬に自分から触れるのは、情事の時くらいなものだった。
そもそも、自分から彼に触れるなんてことはいままでしてこなかった。
くすぐったいよ、と言いながらどこか安心した顔をしている彼をもっと近づかせて、ちぅとキスをする。

珍しさに目を丸くした彼の目に自分が映っている。
嬉しそうに。馬鹿みたいに嬉しそうにほほ笑んでいる私がそこにいた。

「愛してます」

あなたのことを。

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はっきりそう言葉を捧げられた男は何と言われたのかわからないようだった。
一瞬、泣きそうにくしゃりと顔を崩して、もう一回とねだる。

愛してる。

それだけの言葉を女が返した。
ぎゅうと彼が彼女のことを抱きしめた。思わず、といった風だ。

僕もだよ、と男が返す。
そして彼は愛しそうに女の頭をなでながら、その背にナイフを突き立てた。
ぽたぽたと枕に、シーツに、赤い雫が落ちていった。

何が起きたのかわからなかった女が顔を上げる。呆然としているようだった。
どうしてと声をかける間もなく、口からごぼごぼと泡を立てて血が流れてくる。
その口に男は口づけながら笑っていた。

自分を突き刺してなおも笑っている男の顔を見ながら、女はゆっくりと瞼を下ろしていった。
いつもと変わらない、優しさばかりの笑顔。狂気などそこには少しもなかった。
結局、裏切られたのだろうか。
思いながら彼女は、それでも彼のおかげで甘受した束の間の幸せのことを想うと恨むことができなかった。

男の背に手を回して、しがみつくように抱き着こうとしたが力が入らない。
ずるずると、彼女は男にもたれかかり、やがて動かなくなった。
ぱたりと腕が落ちるのを見届けて、男がそっと女をベッドに戻す。

不思議なことに、女の体がさらさらと砂のように消えていく。
男は口に広がる血の味を飲み込んで、両手を組んだ。祈りをささげていた。

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「彼女はたしかに、愛していると僕に言った」

血まみれのベッドの横で膝をつき、彼はその血の跡に祈るようにしていた。

「僕は、愛している彼女を殺した」

指先が白くなっている。それほどの力を込めて握りしめている両の手から、彼女の返り血が滴っていく。ベッドにはさらに汚れが広がり、しみこんだ。

「条件は満たした」

男がぽつりと宣言をすると、ふっと部屋の明かりが消えた。

「確かに、受け取った」

突然暗闇に沈んだ部屋の中。男以外の誰かの声がした。
男がぎちりと歯をかむおとがした。

「約束は果たしてもらうぞ」
「もちろん」

ぎろりとにらみあげる彼の顔は、いつもの優しい顔つきからは想像もできないほど冷たい。そして、一度も誰にも見せたことがないだろうほどの憤怒に染まっていた。

「彼女を助けろ」
「承った。では、最後の条件を」

蝋燭がぬぅっと目の前に現れる。
男は一瞬、身を引き、逡巡するように目を閉じた。
すぅと息を吸い、はぁーと長い溜息のように息を吐いた。

「僕の目を。僕の声を。僕の髪を。僕の心臓を。僕の血肉を。僕の存在すべてを。この魂を、お前にやる」

蝋燭を受け取りながら男が答えた。
ゆらりと火がゆれるのを見ながら、彼はその火を両手でつかんだ。
じゅっ。
灼ける音がした。
一瞬の苦悶の声ののち、瞬く間にその火は燃えあがり、男を包む。
全身を炎に包まれ、焼かれながら彼はその痛みのうちに自らのすべてが溶けていくのを感じていた。

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「お前はそのすべてを失った。お前の記憶だけではない。お前という存在はこの世界からなくなる。それでもなお、あの女を救いたいとお前は祈った」
「そうだ」
「だからお前はもうなくなる」
「そうだ」
「お前の名前もなくなったし、この世界にはもはや誰もお前を知るものはない。お前が愛して命を捧げた女でさえ」
「そうとも」

「無様だなぁ」
「どうとでも」

そして彼は燃え尽きた。

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灰があった。
ぽたりと雫が落ちてきて、その灰が固まった。
人の形をしていたその塊は、もはやただの灰の塊であったので、灰になる前がなんだったのかなど誰も知らなかった。
灰を見て、胸を締め付けられる想いをした女でさえその灰をみてどうして心が苦しいのかなどわからなかった。
ただ、何か大事なものが燃え尽きてしまったような気がしたのだ。

灰の塊が風に吹かれてどこかへと散っていく。
彼女は名残惜しそうにその様を眺めていた。

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「ペル」
「なんでしょう、お嬢様?」

金髪が風に揺れた。
ペルと呼ばれた男が振り返り、へにゃりと笑う。
相変わらず、抜け殻めいた男だと思った。

違うか、と彼女は一度思ったことを切り捨てた。
彼は…… 彼は、燃えてしまった後なのだろうと思った。
これ以上燃やすための芯もなく、ただ崩れるだけの燃えカス。
すべて終わった後で、もう容量もなにもない。
持つものもなく、持つための両腕もただの灰の塊。
だから、彼はなんでもかんでも捨ててしまう。

捨てずにはいられなかったのだろう、と思う。
持ち続けることができないことをわかっていたから捨てるしかなかったのだろう。
誰だって大事にできるものさえ、一度燃えてしまったから。
手にしていることが怖いともいうべきかもしれない。

「……持ってても、いいんだぞ」
「?」

これ以上彼が燃えることはないから、燃えてしまうとしたら、奪い上げられるとしたら、彼が持っている大事なものになってしまう。
それがたまらなく嫌だから、かれは持つことをやめたのだろう。

「ペル」
「なんです」
「お前の名前、なんだったかの」
「ペルデンテですよ」
「どういう意味だったかの」
「敗者」

負けたんです、俺。
何に負けたのかもわからない。でも、俺は負けたからこんなんなんです。

へにゃと笑う彼はいつも通りだった。


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一度、愛する人のために燃え尽きたから、ここにあるのは灰の人形。
いつか崩れるだけの灰の人形。
記憶も彼自身も、存在さえ燃え尽きて、残ったのは灰だけだった。
その灰が人の形をしたのは、誰かがそう創り上げたからだ。
でも、彼はそれがどうしてなのかさえ覚えてない。
気が付いたらうつろな目でそこに座り込んでいた。
何もにでもなく、何物にもなれないことを最初からわかっていて、
つまりは未来がないことを目覚めた時から知っているのはどんな気持ちだっただろう。
なにも持てないし、何を手に入れることもできないし。
唯一できることといえば、捨てることだけだった。
だから今日も捨てている。次は何を捨てるのか。
覚えたての言葉も捨ててしまう。いつかまた、自分のことも捨てる。
焼却炉に戻してしまう。いつか、そうやって灰に戻る。
いつか。明日かもしれないけれど。いつか。
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敗者。灰捨。

mae//tugi
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