姉ちゃんが手負いの鰐を連れてきた話。///

 ねえちゃんがかわいくなりたい、と相談してきたのがすでに数ヶ月も前のことだ。その意味がわからないほど馬鹿ではなかったからいずれこうなるだろうという予想はしつつ、心の準備期間をうっかりと与えられていたのは幸いといって喜んでいいのだと思う。

 ただ、あまり予想していなかったのは、ねえちゃんが連れてきた相手が外人だったことだとかではなく、まさか挨拶がどうのこうのをすっ飛ばして僕もいるうちに一緒に暮らすことになったというのと…… 明らかに、どう見ても、ずたぼろで疲弊しているその金髪の男に対して、事件の匂いしかしなかったことだった。
 そもそも、飛び出してったねえちゃんから連絡が来たと思えば、「彼氏を連れて帰るから治療の用意をしておいてくれ」である。端的でわかりやすい一文に、何事かと思いながら、了解の旨を返事した。それが大体、数時間前。きちんと救急セットを用意した僕のことをちょっとは褒めてくれていいと思う。いや、冗談だけどね。

 申し訳なさそうにやってきた上で、治療について渋る相手を思わず僕が率先してとっ捕まえたのは、なにも僕の良心が傷んだからというだけじゃない。それくらいズタボロ怪我だらけではあったけど。
何よりねえちゃんが連れ帰ってきた男だからというのもある。嫉妬がないわけではないけど、むしろ彼に重大な何かあったときのほうがとばっちり待った無しなわけで。
 あとは、そう。やはり、ねえちゃんが心配そうにしていて落ち着かないというのもあった。姉ちゃんが(ぱっと見ではわからないかもしれないけど、どう見たっていつもより遥かに)おろおろと右往左往している光景なんて珍しくって仕方がない。こっちまで落ち着かなくなってきてしまう。
 そんなわけで、姉ちゃんに落ち着いてもらうためにも、僕が落ち着くためにも、彼をとりあえずリビングのソファに座らせて、事情聴取をしながらの手当を始めることにした。

「……その、悪いな」

 決まりが悪そうに眉尻を下げてる怪我だらけの男にまでとやかく言うつもりはない。へらっと笑ってるが、その顔にだって傷ができていた。

 なんとなく彼の、そんな様子に見覚えがあって、どうして僕がこの男のことをどこかほうっておけないのかぴんときてしまった。いつこの光景を見たのか考えて思い当たったのは遡った記憶のはるか遠くのことだ。
 僕が小さい頃、母さんと出会った頃のこと。そのころを思い出した。あの頃の幼い僕とこの大の大人が似てるなどと思うのはおかしいのかもしれない。が、なんとなく、似ているのだから仕方が無い。
 人に傷つけられることを傷つけられているのだとわかることもなく、ただそれが自分の身に降りかかるごく当然のことだと思っていたあの頃。母と慕うあの人に助けられなければ今頃とうに命を落としていたが、ともあれ僕は存在しなかっただろうと確信の持てる、あの薄暗い部屋の日々。
 怪我だらけの男の持っている薄暗いものは、あの頃の僕がとりつかれていたものとなんの変わりもない。

 だから、放っておけないのか、と我ながら納得した。

 僕は昔、救われた。別に、それと同じことをしようなどと思い上がったことは考えないが、それでも…… 見て見ぬ振りはできなかったというだけだ。

 姉ちゃんに連れられてリビングで居心地の悪そうにしてる彼の手を取った。男性らしいしっかりとした手には、あきらかに、相当何かを殴ったであろう跡が滲んでいる。喧嘩、だろうか?

「……随分と暴れたみたいですけど」
「あ、あー…まぁ、大分殴った気はする」

 血がにじんでいるので、とりあえず消毒を。しゅ、と脱脂綿にしみらせて手の傷に当てて血を拭っていく。そうしながら、ちらと姉ちゃんに視線を送れば心得ているとばかりに口を開いた。

「私が把握してる限りだと、ジーノが兄二人にに強姦されていた。兄貴分の方は叱っておいたが、あちらの家に置いておくわけにもいかないかと思ってな」
「兄に強姦、ね… 御愁傷様。その分だと初めてってわけでもなさそうだね。 ……まぁ、保護名目なら妥当じゃないかな」

 ちらりと男…… ジーノの方を見ても、肩をすくめるだけ。多少思い出して苛立った様な目つきとともにため息を漏らしたが、悲壮感はあまり漂っていない。強姦、とのことだがなるほど。少なくとも今回はじめてというわけではなく、どころか、それなりの回数男を相手にしたことはあるようだ。
 そういうあたりもやけに、似ているのかもしれないなと思いながら、あまり深く聞き入っても本人がかわいそうかと話をけるために「で、兄ってどこの誰なの?」と姉ちゃんに続けて問いかける。

「アラール・ガルテリオとP・ガルテリオだな」

 一瞬、「あー、」と悩むように声を出して、天井を見てから、その二つの名前を告げた。アラールと、P?

「アラール……P…… アラール?アラールアラール… あ、アラール・ガルテリオって、モデルの?」
「……あぁ、金髪碧眼のモデルならそれがうちの長男だな。ピー助の方は、あんまり目立つ奴じゃ無いが、ロガンの近くでクリーニング店やってるな」
「あぁ、わかった。姉ちゃん、随分と有名どころの弟捕まえたんだね。玉の輿狙い?」
「アホを抜かせ。私が、ジーノに、惚れたんだ」

 すぱぁん!と後頭部を叩かれて痛みに悶絶しながらも、僕はわかってるよ知ってるよと呻くのが精一杯。照れ隠しなのもあってか、力加減というものを銀河の果てまですっ飛ばしてしまったらしい。姉ちゃんの渾身の一撃でダウンしなかった僕を褒めてくれていいと思いながら、後頭部をさする。
 むしろ、だ。姉ちゃんに見初められた(?)彼のほうが玉の輿なのかもしれない。母親はかの財団支部長で、自身も元・財団員(今もいちおう半ば財団員なわけだけど)で、現在特殊公務員。うん、安定をいうなら、彼のほうがラッキーなのかもしれない。

「しかし、まぁあのモデルでもこんな一面があるとはねぇ…… はい、腕出して。打撲と咬み傷か、なかなかアグレシッブだね。ちょっとしみるよ」
「っ…! ……あー、まぁ普段はただのアホ兄貴なんだけどな、アラールも。無理しすぎなんだよあいつ。ピー助もそれを面白がってるしさ… どっちかっつーとアラールにそのこと言わないあいつも俺も悪いとこがあると思うんだけどな…」
「ピー助って、彼でしょ?掃除屋Mr.P、なんて名前の。はい、逆。…んー、ここ痛い?湿布貼っとこう。二の腕にも傷があるし、肩は?…うん、背中にもチラッと見えてるし、悪いけど上脱いで」
「お、おう。……何から何まで悪いな」
「姉ちゃんの彼氏なら無碍にはできませぇん。はい、腕出して」
「…ん。それにしてもお前、 …あー、悪い、名前なんだっけ?」
「もみじ。赤井もみじ」
「もみじな。お前、ピー助のこともだし、詳しいんだな。驚いた」
「まぁねぇ」

 彼が、ジーノが言いたいことの意味はよくわかる。シャツを脱いだ彼にだけ聞こえるように声を潜めて少しだけ耳元に口を寄せる。姉ちゃんに聞かれるのを彼も僕もよしとはしない。
 なんたって、僕は財団の情報部所属なわけだからね。”彼”のことを全く知らないわけじゃない。姉ちゃんがどこの誰と付き合おうとも姉ちゃんの自由だというのはわかっているけど、全く調べていないわけじゃあない。

「本当は貴方のことも知ってるけど、プライバシーと守秘義務あるから黙っといてあげる。姉ちゃんが知ったらブチ切れそうな仕事もしてたみたいだし?」

 ……と、伝えれば一瞬、目を見開く。
 「なるほど、情報通なわけだ」と参ったな、などと言いつつも口元が笑っているあたり、この男もなかなか図太いようだ。

「ありゃまー、脱いだらあちこち傷だらけだなぁ…… 腰のあたりも大分赤いし、ちょっと下も脱いでもらっていい?」

 悪いね、といいつつ悪気は全くないので促せば、まぁ仕方ねぇよなと苦笑しながらかちゃりとジーノがバックルを外す。しゅるり。ベルトが抜かれて緩んだズボンの隙間からちらと傷の確認をしたところで思わず目を疑った。

「……大分こっぴどい抱かれ方したようで……」

 なんちゅー兄貴たちだ、と見たことのある彼の兄二人に対する認識を改めたほうがいいのかなと思っている横で、姉ちゃんががっ!と勢いよく僕の肩を掴んだ。えっ、何事。
 さっとジーノが顔を青くするし、姉ちゃんは姉ちゃんで鬼気迫る顔で僕を見る。
 みしっと僕の掴まれた肩から音がしたことを除けば、いい雰囲気にも見えたかもしれないが……いかんせん、これはどう見ても修羅場です。姉ちゃんいたい。マジで痛い。

「ジーノの下半身は無事なのか」

 真顔も真顔で姉ちゃんが重おもしく問いかけてきたのは、よりによって下半身の無事。
 ちら、とジーノサンを見れば、まーた困った顔して笑ってるもんだからよほど姉ちゃんは彼の下半身事情について心配をしていたらしい。御愁傷様。さすがに僕も同情する。

「まぁ、多分?」
「多分じゃ困る!穴は無事なのか!?いちもつは!?いちもつは無事なんだろうな!?」

 彼女からしたら真面目な心配なんだろうけど、彼女にこんな大声でケツといちもつの心配をされるうえに、彼女の弟分に聞かれるわ見られるわでさすがに可哀想になってくる。
 デリカシーがないというか、いや、まぁ、すなおなのはいいところではあるのだけど、たんにちょっと相手がかわいそうになるというだけだ。僕? そんなのとうになれました。

「あー、うん、みとくから、みとくから。姉ちゃん先に部屋片付けておいでよ。うちに泊まるんでしょ?仮にも彼氏連れ帰っておいて、準備なしってわけにもいかないでしょ。僕たち二人でまじまじみて怪我が治るわけでもないんだし」
「む……それもそうだな、少し片付けてくる」

 はい、いってらっしゃい、と姉ちゃんを見送って、はー、とため息をついたのは残念なことに二人で同時。このままだと姉ちゃんにパンツごと引き摺り下ろされるのは目に見えていたから、仕方がない。

「で、ケツの方はどうなの?」
「……いてぇよ?」
「だろうね。わかったわかった、はい、脱いで」
「や、やっぱり脱がなきゃだめか?」
「あとで僕もろとも姉ちゃんにどつかれてもいいなら、見ないけど」
「……なんかこう……すまん……」
「いいよいいよ、そういう経験なら僕もあるから」

 お互いに遠い目になるのも仕方がない。なぜって、むしろ僕が聞きたい。
 何が悲しくて、本気で慕ってる姉ちゃんの彼氏の、傷だらけだから治療のためには仕方がないとはいえ、姉ちゃんの彼氏の!全裸を見ないといけないのかっ!!向こうも思ってることだろうね!何が悲しくて、彼女の弟の前でパンツまで脱がなきゃならないのか、ってさ!!

「………つらい」
「あー、心がね?わかるわかるはい、後ろ向いて。ケツ出して!…って、何これ!?!どんなハードプレイしたんだよ!?」
「あぁああ……つらい……!しにてぇ……!」
「自業自得だろ!?なんでこんな腫れて…ミミズ腫れひどいな!?お前の兄貴どうなってんの!?」

 ぱっしーん!思わず引っ叩いて追い打ちをかけてしまった音がリビングにむなしく響く。あぁ、引っ叩きやすかったのかな、と思わないでもないが、それにしたってこの腫れ方は凄まじい。痛みに悶絶してる彼のことは見なかったことにして、ケツのミミズ腫れに薬をぶっかけていく。

「腰のとこも腫れてんなぁ……湿布貼っとくから、あとで取り替えなよ」
「………はい………」

 さすがにケツに湿布はムレるし、傷がひどいから無理だと判断しながらケツほど酷い怪我はあまりないな、と下半身の確認を終わらせる。
 それから、力任せに掴まれて押さえつけられたのだろうな、と判断しながら腰の腫れてる部分に湿布をぺたり。

「うん、これで一通りかな」
「……わるい……」

 手間かけたな、とソファでぐったりした様子のジーノがこちらを見る。中途半端にお尻が上がった状態で力なく横たわりながら、半ば涙目で。しかもちょっとハの字に眉を下げて笑いながらいうものだから…… あぁ、道理で、と納得してしまった。
 見た目の割に、この男は随分と無防備なのだろうな。というか、人を信じているというか。すくなくとも、僕よりは警戒心が薄い人間なんだろう。

「あぁ、なんかわかったかも……」
「? ……何がだ?」
「ゲイに狙われやすそう」
「なんだそら」
「まずそうやって無防備だし。もてるんでしょ?気をつけなよ」
「……なんだそりゃ?」

 本人は無自覚とは空恐ろしいな、と思いつつぱっぱっと余った湿布を片付けるる。一通りは終わったから、次に必要そうなものだけは取り出しつつ… 在庫ももちろん確認している。打ち身が多いから、シップの買い足しが急務かもしれないな。

 いてて、と声がする。まぁそれだけ傷だらけなら何をしても痛いだろう。彼が呻きつつのろのろとパンツを履こうとしたところで、悲報である。
 ばーん!と音を立てて扉が開かれたのだ。本日何度目かの御愁傷様、という言葉が思わず口をついた。ご愁傷様。姉ちゃんのご帰還です。

「終わったぞ!」

 姉ちゃんおかえり、と言うより先にため息が出たのは許してほしい。パンツ履こうとしてたあなたの彼氏が固まってるよ、姉ちゃん。まぁ、姉ちゃんのことだから、パンツくらいどうってことはないどころか悲鳴を上げるのはこっちの役目になってしまうのだけど。

 そして半ケツのまま、ばっちり、姉ちゃんに見られちゃってあらまぁ。

「そのケツっ」
「姉ちゃん、治療なら終わったからこっちきて」

 姉ちゃんにがっつりケツを見られるのは、まぁ何も今ここじゃなくてもいいだろう。というか僕としても男のケツがっつりみてる姉ちゃんとかそんなに見たくないし、向こうだって見られたくないだろう。
 だって一瞬あのお兄さん、涙目でこっちみたぜ。わかる、わかってるって。姉ちゃんの気をそらしてくれって言いたいことくらいわかったから、そんな捨てられそうな犬みたいな目でこっち見ないで欲しい。
 ただ、まぁ、同じ男としてその尊厳を守ってやるために協力をしないとは言っていない。姉ちゃんが勢いのままにジーノのことを引っつかみそうだったから、それより先に声をかけてちょんと肩をつつく。

「まぁ、見た感じアレだけど、殆ど打撲打ち身、擦過傷、軽度の切り傷って感じだから当面生活してて痛むだろうけど困ることはないと思うよ」
「そ、そうか……よかった」
「んで、ケツの方は若干ミミズ腫れできてるからこれと、あと腰の方にこれ、湿布ね」

 姉ちゃんに説明しながら消毒と軟膏、湿布を手渡す。ほっとした様子の姉ちゃんが少しばかり落ち着きを取り戻したのを確認しながら、まぁあとは姉ちゃんに任せたほうが僕と彼の精神のためだろう、と結論を出したからだ。

「後ろの方は一人じゃできないだろうから姉ちゃんがやってあげなよ」
「あぁ、心得た」
「うん。あと、傷の方は見た目ほどひどくないからあんまり気にしなくていいよ」
「……そうか、よかった」

 よかった、と言う姉ちゃんがちょっと笑った。
 あーあー、姉ちゃんがこんな風に笑うとは、本当に愛されてるなこの半ケツ男。……なんて、ついやさぐれたくもなる。ぐっとこらえたけどね。
 そういえば今日からここに住まわせる、とか言っていたっけな。思い出して、くそ、これ毎日見せつけられるのか、と今から胃が痛い。

「……まぁ、そういうわけだから」
「……わるいな、もみじ」
「助かった」

 ようやくズボンを履いて、シャツを羽織るところまで来たジーノをじとっと見てしまったのも許してほしい。安心して笑っていた姉ちゃんは手渡された薬品類を机において、すぐに彼に寄って行った。甲斐甲斐しく服を着るのを手伝ってる姉ちゃんをみたら、あーあーと文句を重ねたくなるのも仕方がない。そう、仕方がない。やさぐれちゃう。そうもなるだろうということで、許してね。
 ……あーあーあーあー!姉ちゃんが彼女やってるよ!

「……んじゃ、僕ちょっと用事思い出したから出かけてくるね」

 こんなところにいられるか! と、僕はスマホを取り出して、パスコードを入力する。ロックの外れたスマホをぽちぽちといじりながらとある住所を取り出した。行き先はとある家。個人情報だから、本当ならこんな手軽に調べられるものではない。だが、僕のスマホの中にはそういうのもすぐ出てくるように改造が施されている。財団お手製のプログラムが積み込まれたスマートフォンだと知っているのは、僕と情報部で同じタイプのスマートフォンを所持している面々と財団の責任者である母さん。そしてつくった技術部員くらいだろう。もしかしたら、もう少し知ってる人はいるだろうけど、実は普段使っているのとこのスマートフォンは別だったりする。

 目的地までの途中に薬局があることも確認して、財布を掴んでリビングを出る。靴を履いているところで、ぺた、と足音がした。
 振り返れば、案の定。さきほどまでぐったりしてたジーノがそこに立っている。姉ちゃんはリビングにいるようで、扉の隙間からちらとこちらを見ているのが見えたけど、扉が閉まってしまってすぐに見えなくなった。

「……で?」

 ぱた、と扉が閉じきって僕が口を開く。

「あー、いや、なんというか…急に悪かったな。体良くなったら出るから、」

 と、そこまで言って彼が言葉を切ったのは思わず、本日何度目とも数えるのがバカバカしいため息が出てしまったからである。この姉ちゃんの彼ぴっぴ、わかってないな。あきれて物も言えないとはこのことか。

「もみじ?」
「姉ちゃんは、あんたとここで暮らすって僕に言ったんだよ」
「うん?」
「つまり、あんたと、同棲するって僕に宣言したわけ。わかる?」

 僕には姉ちゃんが言いたいことなんかよくわかる。それくらい長いあいだ一緒にいたのだから、当然だろう。それに、僕は姉ちゃんのことを心底慕っているのだ。ちょっとした雰囲気の違いで、姉ちゃんが何を思っているのか、全くわからないわけじゃあない。
 それに、姉ちゃんはもともと顔に出にくいタイプだ。僕が人の機微に強くなったのも、ある意味で姉ちゃんがそうだったからだ。

「い、いや、そうは言っても、俺は……その、」
「姉ちゃんは」
「うん?」
「姉ちゃんはあんたを選んだんだよ。弟分にしかみれない、長く一緒だった僕じゃなくて。これ以上喧嘩売るならぶっとばすぞてめぇ」
「お、おう……でもよ、」
「でも、もだって、でもない!それが事実なんだよ!もー!あんたはただ、姉ちゃんといたいかいたくないかだけ考えればいいの!わかる!?」
「……けど、」
「しつけぇ!女々しい!姉ちゃんがあんたを選んだんだ!あんたは堂々と姉ちゃんに愛されてろ!馬鹿野郎!」
「……もみじ?」

 うだうだとしつこい!
 思わず声を荒げてしまったせいで姉ちゃんがひょこっと顔を出す。はぁ。ため息混じりに息をついて、髪をかきあげた。めんどくさいなこのカップル、と思ってしまったのは心が荒んでるせいだから仕方がない。そうとも!仕方がないんだ!
 長いあいだどれだけ僕が彼女のことをしたっていたと思っているのか。僕にとってこの人がどれほど大事な人だと思っているんだ。いまさら、何を言っても無駄であることは重々承知の上で、そんな風に思ってしまうくらい、苛立っている。あまり冷静ではいないことを自分でわかっているからこそ、額に手を当ててはー、と深く息を吐いた。
 わかってる。これまで何もしてこなかったのは自分だ。奪われたなどとは思っていない。自業自得だとは、どこか思ってるが。

「姉ちゃん、こいつこのままここに住まわせるつもりなんでしょ?」
「あぁ。どのみちあの家に帰らせるわけには行かないしな」
「同棲ってことでいいんでしょ?」
「む……まぁ、事実上そうなる、な?それがどうした」
「ほらな」
「まじか」

 まじか、と心底驚いた顔でジーノが呟いて、姉ちゃんを見る。それがどうした?という顔をしている姉ちゃんに、はぁ、とため息をついた。僕何回、今日のこの短い間でため息が出たことやら。

「姉ちゃん、ちゃんとそういうのは本人にも言ってあげなよ?困ってたよ、ジーノ」
「言ってなかったか?それは悪かったな。ジーノ、今日からここで私と同棲だ。いいな」
「お、おう……?」
「はー、もうやだ疲れた……」

 とん、とつま先を地面に当てて靴を整えたところで姉ちゃんがさも思い出しましたとばかりに声をかけてくる。

「もみじ、どこ行くんだ?」

 今の今まで彼氏が心配で、姉ちゃんは僕のことを気にとめてなかったんだろうな、とふと思って若干悲しくなったけど。まぁ、わかりきってたからもういいや、とどこかで諦めがついてくる。

「湿布とか買ってくるよ。あと夕飯とか明日の材料。二人分しかないしね。ちょっと寄り道してくるけど、そんな遅くならないから」
「そうか、わかった」

 こく、と姉ちゃんが頷いていってらっしゃい、と言って一足先にリビングへ戻っていった。どこか複雑そうな顔でこちらを見ていたジーノが、「……迷惑かけて悪いな」などとまたいうものだから、いよいよ僕も呆れてしまった。

「本当にそう思ってるなら、出てってくれればいいんだよ。そのつもりじゃないなら、気にしないで。言ってるでしょ、姉ちゃんが決めたなら、構わないって」

 がちゃん。鍵を開けてふと思う。この扉を僕はあと何回開けられるのだろうか、と。

 案外そう遠くないうちに僕は家を出るだろう。でもまぁ、こうなってしまったからには仕方がない。どうせ、僕は選ばれなかったわけだし、そうじゃなくても、どーせまた海外出張がぼくを待っている。案外、このまま仕事が恋人になる日も遠くないのではないだろうか。それはそれで、僕としては嫌なわけではないから、構わないのだけどね。

 きぃ、と慣れた音を立てる玄関からでたところで、「もみじ」と名前を呼ばれる。
 さっきまで多少困ってたようだったけど、どうやらようやく飲み込めたらしい。なに、と振り返ったところで、調子の戻ったらしいジーノがにやっと笑う。

「……俺のことは兄さんでいいぜ?」
「てめぇ、帰ってきたら蹴り飛ばすからな、そのケツ」

 流れるように悪態を吐き捨ててしまった。おおこわ、などとほざいてるこいつを今すぐ蹴りとばすかと思案したが、「兄貴たちのとこ行くんだろ?」とジーノが言ったので特に答えなかった。

「……姉ちゃんがはっ倒したみたいだし、死んでないかだけ見に行ってくるよ」
「悪りぃな、うちのごたごたに付き合わせて」
「いいよ、どこもそんなもんでしょ。まぁ、流石にこれはどうかと思うけど」
「まぁ、面倒は見に行くって伝えといてくれるか?」
「はいはい、かしこまりましたよ、お兄様」

 行ってくる、とひらりと手を振ってすぐに玄関をしめる。

 玄関ごしに、彼がリビングに戻っていく気配がした。そのあとに、なにやら激しい物音が聞こえた気がしたが、ざまぁみろとしか思わないので、殴打するような音をバックに僕は外に出る。
 もう一つ、別のスマートフォンを取り出して電話帳を開く。かけなれた連絡先を取り出して、今頃仕事中かなと思いつつ電話をかけた。
 1回目、2回目。そして3回目のコール音で、もしもし、と優しい声が聞こえて思わず口元が綻んだ。

「もしもし、母さん? うん、仕事中にごめんね。どうしても電話したくってさ」

 構いませんよ、と母さんが言うのを聞いて、「あのね、」と話を続ける。

「姉ちゃんがさ、うん。姉ちゃんが、彼氏…あー、いや、結婚相手? 連れてきたよ」
それでね。母さんきいてくれる?僕ね、所謂失恋ってやつなんだ。なんて、僕はわざわざかあさんに言わないけど。
「あと、前言ってた、あっちの仕事の話なんだけど、まだ決まってない? うん、断ったけどやっぱりいいよ、僕が行く」

 ちょっと寂しいけど、まぁ、これも仕方がない。

 あんなことを言った手前ではあるけど、僕のこれこそ、自業自得というものだとわかってはいるのだから。
 母さんがそうですか、と深くは問わないでいてくれるのが何よりもありがたい。

「あ、そうだ。母さん、夜うちに来てよ。赤飯買ってくから、僕」

 だからね、母さん。あのね。
 ちょっと声が震えてるのは聞かなかったことにしてね。気のせいだからさ。明日からは、平気だからさ。

mae//tugi
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