むかしのはなし///

 むかし、兄さんがいた。

 優しい兄さんだったと思う。口数がすくなくて、いつも怪我をしていたけど、僕のことを守ろうとしてくれた。

 父と母とあまり呼びたくはない人たちだったし、本当に僕たちの親かどうかもわからなかったけど。それでも僕たちにとってそのときは親に違いなかった。母さんがヒステリックに叫んで手を挙げる時も、父さんが苛立ちで拳を振り上げた時も、兄さんはいつも僕の前に立っていたきがする。


 そんな兄さんもいつのまにかいなくなってしまった。

 おいていかれてしまった、としばらくの間は寂しくって仕方が無かった。もう僕のことを守ってくれる人もいなくなってしまって、僕は毎日、痛い痛いと泣いていた気がする。
 しくしくと泣くことすら許されなくなって、僕はただ部屋の隅で息を殺すようになっていた。

 ある日父さんが僕の腕をひっつかんで外に放り出した。捨てられるんだと思ったけれど、本当は違って。僕は外で延々と働いては父さんと母さんのところに戻される日々を繰り返すようになった。

 父さんも母さんも僕のことを愛してなんかくれなかった。

 父さんと母さんにとっての僕や兄さんは、人でも犬でも、まして道具ですらない。

 僕は動く粗大ゴミのようなもので、穀潰しで、虫けらにも劣ると言われて。ただ、それでもほんの少しのあぶく銭を稼ぐ宛があるのならと使い続けられていた。


 とうとう僕の体がうまく動かなくなって、ろくに働けなくなった。父さんは使えないといって僕の腹を蹴り上げたし、母さんはそろそろ、僕のすべてをお金にでもしたほうがいいんじゃないかと言い出した。
 父さんも母さんも、少しでも僕のことを有効活用しようと考えて考えて。
 結局、身体を売ってから体を売ることにしたらしい。


 とてもじゃないけど、いよいよ死ねるんだと思った。

 その頃にはもう、すっかり考えるなんてことはしなくなっていたし。そもそも、考えれば考えるほど苦しくなるんだから、考えないほうがよっぽど幸せだったんだ。
 だからあの頃の僕は、紛れもなくゴミだったんだと思う。部屋に住み着いている蜘蛛のほうがよっぽど僕よりまともに生きていた。
 べたべたと僕のことを触る手。くすぐったいとしか思えなかった。煩わしいだとか、気持ち悪いだとか。もうそんなことを考えることすらできなかった。

 ただきっともうすぐ、僕はこのまま死ぬ事になるんだろうとだけ、思っていた。

 外がうるさくなったのはその後だ。僕は誰もいなくなった部屋でぼんやりとドアを見ていた。真っ暗な部屋で、外の音はよく聞こえる。ぎゃ、とカエルが潰れるみたいな声。やめろと叫ぶ男の人。ぱん、と響いた短い音だとか、部屋が揺れるほどの衝撃だとか。
 何が起きてるのかわからなかったけど、もうどうだってよかったんだ。

 そのうち、外が静かになった。
 かつん、かつん。足音は少しずつ近づいて、僕がいる部屋の前で止まった。ごほ、と僕が咳をしたときのことだ。

 かつ、と足音は止まってから、扉が少しだけ開かれた。真っ暗な部屋からはちょうど、まっくろなキャンパスにしろい線がぴっとひかれたように見えたのを覚えてる。

「…子供?」

 その人は僕を見つけて、そういった。僕は何も答えられなかったから、ただぼけっとその人を見ていた。赤いマフラーと黒い綺麗な髪が歩くたびにしなやかに揺れているのをぼんやりと見ていた。
 ちょうどその時、僕は口元から咳と一緒に血が出たけど。苦しいだとか痛いだとか、もう感じなかったその頃は、横になってげほりと咳をしてその人を見ていただけ。

 その人は、そんな僕に言った。

「ここまで来なさい、そんなところで死にたくないのなら」


 そのあとのことはあんまり覚えてない。でも、たしか。
 僕はうごけないけれど、あの人に向かって手を伸ばした気がするんだ。




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「まぶしい」

 ほとんど吐息のような消えそうな声だった。
 あまりに疲弊しすぎて、もはや死人同然の少年は、一言そういった。痩せた姿で、彼はそう言って、確かに笑っていたのだ。
 死を受け入れているから、どうしようもないと思っていたけれど、彼は目を閉じてしまう前に確かに泣いていたのだ。その時の目は、まだ、死ぬつもりなんかないようにさえ見えた。

 手を伸ばして、一粒だけ涙を流して、彼は眠ってしまった。

 いつかここまでたどり着けますように。この少年がいつか、自分の足で歩けますように。
 彼女は…… のちに少年の母代わりとなるその人は、あまりに軽い少年を抱き上げながら暗闇の中で祈ったのだった。

mae//tugi
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