Re:you | ナノ




 島で暮らし始めて、四度目の夏が来た。 じっとりと肌に纏わりつく空気は水分を多く含んで重たく、呼吸をするのも億劫だ。縦に連なる御島は少し移動するだけでも、足場が悪いことも合わさって、結構な運動量になる。必然的に汗をかき、それがまた、気持ち悪い。

 上着を脱いで、無理矢理腰に巻く。袖が広いため上手く絞れないが、まあ落ちなければいい。熱のこもった内部を上へ抜け、最上部へ上り詰める。

 唯一風の通る、島の一番高いところ。手すりも何にもなくて、立ってしまうにはかなり不安定だ。まだ怖くて上半身を出すことが精いっぱいだ。

 首筋を抜ける風が程よく体を冷やす。気持ちがいい。汗が急速に冷え、いっそ冷たい。

 そんな、風が強く吹けば真っ逆さまになってしまうような島の最上部に立つ金髪の少年がひとり。「秋あき」 少年を呼ぶ。少年はそこで呼ばれることを知っていたかのようで、さしたる驚きもなく、「アキラ」と振り返った。丸々とした茶色の瞳が白い自分を映す。

 遠くに電車の音を聞きながら、ここで街を眺めることが、秋には多々あった。特に、島の灯りが点く前の日暮れ時だ。そういう意味で秋は早起きだった。「アキラ」 秋が立ち上がり、その短い髪が風に揺られる。「今夜は久しぶりに、珍しい客が来るぞ」 そういう秋の声は、心なしかはずんでいた。  ◆ 珍しい客、という言い方が気になる。誰かがこの島を訪れる時は大抵客が来ると言う秋だが、この島に客が来ること自体がまず珍しいことだ。

 この火螢ほたるの御島は異形の集う島。異形の数自体があまり多くなく、そもそもこの島のことを知らずにいたりして、実際に訪れること自体は少ない。今、この島が結構の賑わっている六百年の年月があるからだという。

 アキラが秋のもとに来てからも片手で数えられるくらいしか来ていない。その中にはどうやって来たのか、冷やかしも混ざっていた。冷やかしは秋がお帰り願ったようなので、アキラはあまり知らないのだが。

 その中で、秋がわざわざ「珍しい」と評す客だ。冷やかしはそもそも客扱いされないから、皆目見当がつかない。 秋は夕食ちょうしょくを食べてすぐに沙月のもとへ行ってしまった。秋はアキラを連れて沙月のもとにいくことはないので、この時間が好きではなかった。

秋は夜、忙しそうにしていて、とても迷惑はかけられない。よく秋の友人という店の隅で残り物を貰ったりして時間を潰している。怖い人ではないけれど、秋といる方が良い。秋といられる時間が減るから、客というのは嫌いだった。

 布団を端に寄せただけで、他にあるものといえばちゃぶ台くらいしかない狭い部屋の真ん中で大の字になってみる。がらんとした空間は好きではないが、仕方ない。もう一眠りでもしてしまえば起きる頃には秋が戻ってくる。いつもそうして時間を潰すのに――今日はどうにも眠たくない。 眠れないで、この部屋にいられない。散歩にいくか。 外れかけてきてきちんと閉まらない戸を一度引き、そのまま勢いをつけて強く押し出す。立てつけが悪すぎてふつうに開けるだけでは開いてくれないのだ。

 外へ転がり出ると、錆びついた柵に突っ込んでしまう。ぐらぐらと揺れる柵に胆が冷える。幸い柵が折れてしまうことなく、揺れもすぐに治まった。アキラはそうっと手を離し、ざびざびとした錆を払い落とす。

 さて、上へ行こうか、下へ行こうか。

 どちらへ行ってもどうせ店は何も開いていない。まだみんな眠っている時間だ。鴻衆おおとりしゅうの詰所だけはおそらく開いているが、あそこの頭領は遠慮がないから怖くていやだ。あと酒臭い。

 犲衆やまいぬしゅうの詰所は下の方で、まあたぶん開いているけれど、鴻衆に輪を掛けて怖いので選択肢には端からない。

 しかし、とりあえず、下の方に降りることにする。

 物音を立てるのは気が進まない。ただでさえ怪談はきしむし、通路は悲鳴を上げる。アキラの身体は軽い方なので、ゆっくり降りれば音もない。靴も履かずに出てきた。

 広場までは降りない。部屋から三つほど階段を下ったところで細い通りを見つける。

 この島の造りは見た目に違わずおおよそ雑だ。住人が増えたり必要に応じたりして徐々に上へ継ぎ足されていったと聞くが、よく倒壊しないものだと感心する。部屋が隣と壁一枚で繋がっていることは珍しく、こう、変な通路があらゆるところに出来てしまっている。

 それで、この通路だ。かなり歩き回ったことがあるが、すべての踏破には程遠く、この通路にも入った覚えがない。暇つぶしにはよさそうだ。 迷いのない足取りで通路へ踏み込む。ガスや水道は古ぼけ、ひどい音を立てて稼働している。こうした通路の中には呑み屋や賭け事場があることも多々あるのだが、ここはただの民家らしい。

 ある部屋は戸が半壊して、中のいびきが駄々漏れだ。

 ある部屋からは胃袋を刺激する良い匂いがして、その向かいの部屋からは女性の甲高い声がする。

 静かな部屋もあればそうでない部屋もある。下手な干渉は身を滅ぼし、反対に関わらなければなにも怖いことはない。そう言い聞かせて、アキラは散歩をする。家の中にいれば怖いことも何もないのだが、それはそれ。 動いて、見て、何かしていないといけない。じっとしていてはいけないという、妙な焦燥感が家で丸くなっていると身の内から引き裂いて出てきそうになる。だから――いつもは眠るようにしているのだが。

 意識がなければそんな衝動に困らされることもない。

 通路はそのまま島の裏側へ繋がっていた。風に煽られてぎいと鳴る手すりに手をかけ、身を乗り出す。風が気持ちいい。じっとりと肌に滲んだ汗が冷え、体温が下がるのがわかる。 島の裏側にはほとんど何もない。水で隔てられた先に御島よりも二回りも小さな島があり、それが見えるくらいだ。その島へ行く橋も船もなく、近寄るひともいない。せいぜい酔いさましに涼むにうってつけで、それ以外でひとがいるのは見たことがない。アキラ自身も裏側に好んでくることはあまりない。

 寂しい、場所だ。「――――――――――――――」 ――今日は、そんな場所に先客がいた。

 透き通る、ひんやりとした印象の音。耳を澄ませてよくよく聞いてみれば、それはひとつの音楽だった。すすり泣くような、ひそやかに笑っているような、両極端の表情を孕んだ音色――ざわと肌が粟立つ。

 肋骨の奥の心臓が強く震えるのがわかる。熱を持った血液が全身にめぐるのがよくわかる。体が、この心が、つよく揺さぶられる。 ――この感覚は、なんだ? 音色に誘われて、音の出所を目指す。下の方から聞こえる。かたかたと風に鳴る階段をそうっと降り、音をたてないように気を遣う。階段がひどく急だ。踏み外せば転がり落ちることは明白。

 アキラは大きな音を立てることにとても臆病だった。そこに自分がいることを周囲に知らしめることがどうしても嫌で、怖かった。

 水面を風が揺らす、その淵に、それはいた。

 す、と伸びた背筋。背の程は秋よりもかなり上。水辺の方を向いて厳かに弦楽器を弾いている。濡羽のような黒髪に同じく艶のある黒い弦楽器。すべてが黒く、独特の存在感を伴って佇む。小柄な体躯なのに威圧するような、踏みこむことを頑なに拒むような存在感の秋とは違う。 ――ここにいる、と。 そんな主張をする存在感だ。「……、――――」 一度弾き終えた曲をもう一度最初から奏で始める。誰かに見つけてほしがるような、しかし邪魔をされることを強く拒むような相反する音色だった。

 ああ、なるほど。であるから、この時間でこの場所なのだ。この、誰もがまだ眠っている時間、誰も来ないこの場所。

 早々に立ち去るべきだ。あれは見てはいけない、見たことを悟らせてはいけないという直感はおそらく正しい。そういうものからはさっさと逃げるべきだと秋は教えたし、アキラも常にそうしていた。

 この時、引き返さなかった――引き返せなかったのは、なぜか。

 意図せず踏み出してしまった足が、カラカラに乾いた木の枝を踏んだ。なんてことはない音さえも、この静寂と澄み切った音色の前では異物で、完成された空間を壊すに等しかった。

 ふ――――っと、音がやむ。

 喉が塞がり、呼吸がとまる。邪魔をしてしまった罪悪感か、その真黒の存在に恐怖したのか、あるいはその両方だった。じッと息をひそめる。

 取って食われる事態なんてないのはわかっていた。けれども、見つけてほしかったのは、確実にアキラではない。触れてほしかったのは、聴いてほしかったのがアキラでない以上、あの奏者が不愉快に思うのも当然なのだ。

 だって、人に聞かせるには、あまりにも重い。秋が話したがらないことを聞いてしまった時と同じ、重さだ。

 隠れて、やり過ごすことだけを考える。階段の陰に隠れただけではすぐに見つかる、だが、動いても見つかる。だから誰かが通りかかることを願うしかできなかった。「おい、何震えてんだ」 結局。

 そんな願いが届く訳もなかったのだ。「あの……その」

「なんで泣いてんだ」 まさか怖くて、とも言えまい。取り繕う言葉も浮かばないでいれば、男は眉根を寄せて首を傾げる。人相が悪い。「つうか、この時間に起きてるやつがいるのが珍しいな」

「あ、ご……ごめんなさ、い」

「何で謝った? まあ別にかまわん、何もされてないし」 思ったよりも声に緊張感がない。呆れも隠さない表情と仕草を見止め、なんとか、謝罪の理由を口にする。「……勝手に、聴いてしまったから」 聞こえるかどうかも怪しいくらいの声量。

 アキラは普段、怒られるということがない。秋があまり叱る人間ではなかったというのもあるし、怒られないために気を張っていたというのも当然にある。

 体の内から刃が生えるアキラの特性というのは、原因こそ謎であるが、その引き金がアキラの感情に大きく依存することははっきりしていた。自分でも強く自覚しているからこそ、なるべく恐怖や焦燥に心を乱されないようにいていた、のだが。「あ……ご、ごめんなさ――」
 一度乱れた心を押しこらえることを、アキラは得意としない。

 ひゅッと白刃が閃き、黒の男の頬を掠める。刃の抑えが利かない。拍動が激しく、体を抑える両腕からも白刃が飛び出る。離れて、と告げなければ。誰も周囲にいさせてはいけないのだ。加減なんて、できないから。

 けれども、アキラが必死に彼の男へ言葉を向ける前に、彼が言う。「しかたねえな、黙って聞け」 何を、と問う必要はなかった。男は言うが早いか楽器を構え、流麗な動作で弓を引いた。二、三の調律はものの数秒で終わる。

 その曲は、先のそれとは違う、柔らかい音で構成されていた。耳触りがよくて、鼓膜から心地よく浸透していく。血管が震え、胸が締め付けられ、体内に反響する。押して引く波のように、音が行き渡っていく。

 時間にしてほんの数秒のできごと。最後の音が放たれたあとにもたっぷり数秒の余韻があった。「引っ込んだな」

「……あ」 白刃がすべて体内へ戻っている。ざわざわと嵐のように落ち着かなかったこころの波が穏やかに凪いでいる。秋なくしてこんなにも早く落ち着けたことは初めてだった。

 秋は、刃に刺されることも厭わず、手を握って、秋の魔力と鼓動を合わせ、それで落ち着く。

 今、まさしくこの男がやってみせたように。

 音で同調を誘い、ゆるやかに鼓動を抑える。やり方を知っていたのかは知る術もないが、それよりも。

 秋にされるよりもずっとはやく落ち着かせたことのほうが重大ではないか。「あの……ごめんなさ、い。それと、ありがとう、ございます……」 尤も、今のアキラにとっては目の前の男の方が脅威な事実であり、故に奇妙な違和感はすぐに意識の隅へ追いやられてしまったのだが。「気にするな。傷つきゃしねえが、見ちまったからには放っておけもしないだろ」 と、黒い男は言葉通り気にした様子も責め立てる様子もない。アキラの横にどかっと腰を下ろし、それにアキラが吃驚する。

 怒っていないのなら、そのままどこかへ行ってくれたらいいのに。興味なんて持ってくれなくていい、文字通り心臓に悪い。深呼吸で誤魔化す。

 ほんとうに、秋以外はすべて怖い。

 秋の側であればそう怖いこともない。だが秋がいないと途端にだめだ。足元を照らす灯りも先を示す道標もなくしたように思えて、一歩踏み出すことすら難しくなる。

 だというのに、なぜだか、散歩はせずにはいられないのだ。じっとしていれば、こんな目に遭うこともないのに。なぜか。「この島の連中はもっと遅くまで寝ているものだと思っていた。おまえ、早起きなんだな」 黒い男は身体を捻り、関節を鳴らしながらそんなことを言う。

 アキラとて普段は寝ている。今日は秋が早起きで、そのあと寝つけなかったからこうして起きてきているだけで、まったくの偶然だ。「……今日は、たまたま。いつもはもっと寝てる」 とだけ、ぼそぼそと答えることにした。男の反応はさして興味なさげで、「ふーん」と頷くにとどまる。

 沈黙は嫌だ。いらないことを散々考えて、結局無駄に終わるくらいならさっさとこの場を立ち去りたい。訊くだけ訊いてこの反応ではこれから先に話が盛り上がるとも思えない。あと盛り上がる話についていける自分が想像できない。

 しかし、黒い男は間を開けずに続ける。「こんな裏側になんか、用があったのか?」

「え、いや、とくには……ごめんなさい」

「謝ることはねえだろ。散歩に来るにしては面白みに欠けるから、訊いただけだ」 確かに、散歩をするのであれば内部をうろうろしたほうがまだ暇つぶしになる。彼の指摘は尤もだったし、実際アキラもずっとそうしてきた。結果踏破してしまったから、歩く場所を変えたのだ。

 面白みに欠ける散歩、としては、未知を知る散歩はいささか当てはまらない。「内部はもうほとんど、見たから」

「あー、なるほど。どおりで。今までここで誰かに会ったこともねえしな」 やはり、ここは彼の居場所であったらしい。であれば、はっきりともう来るなというための、前置きなのかもしれない。

 人に会うのは怖いが、それ以上に持て余す衝動を身に宿しているアキラは、そんな理不尽にも何度かであったことがある。アキラになんの悪意も意図もなく、まして狭い島の中でなわばりを主張など――それこそ、沙月以外に出来るはずはないのに。

 今回はそういうやつだったのだ。秋はまだしも、犲や鴻の世話にはなりたくないから、さっさと逃げたい。だからもう来ないと伝えることにした、のだが。「は? ああ、いや、だからそんな謝るこっちゃないって。おれのほうこそ悪かったな。おまえが普段ここを使ってんなら悪いなと思って訊いただけだ」

「あ、え」 またも肩透かしを食らってしまった。黒い男は眉間に皺を寄せ、「そんな怖い顔だったのか」などと呟いてさえいる。男が怖い顔をしていたとかどうとかもほんの少しはまあ、関係あるかもしれないが、概ねアキラ側の気質の問題だ。「ともかく、繰り返すがよ。怒っちゃいねえし、おれはもう行くから好きに過ごせよ」 楽器を肩に抱え、振り返ることもなく去って行った。

 結局ここに腰を下ろした意味があったのか、何もかもが疑問だ。いっそ、恐怖が塗り替えられたような気さえする。

 なんだったのだろう。

 


mae tugi

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