黒は地下の施設の、いちばん線路に近い壁に耳をくっつけて、電車が来るのを待っていた。彼はその名にふさわしい真っ黒な髪を壁と頭蓋のあいだでぎりぎりとこすりながら、執拗に壁と密着していた。黒は目を閉じる。そして全身でその音を探している。死者のやってくる音を探している。

 死者、と呼ぶのはもしかしたらふさわしくないのかもしれない。まだ彼らは生きているのだし、なにより「第三の世界」を通じてより長く生き続ける未来を約束された人々なのだから。それでも黒にとってあの音をたてるのは死者以外の何者でもなく、黒が彼らに対して行うことも、ふつうの死者とはそう変わらなかった。

「黒」

 黒は待っていた。昨日までと変わらずこの狭い廊下に張り付いて、誰よりも先に死者を見つけようと必死になっていた。死者を見つけることができれば審判をする権利が与えられ、審判をする権利が与えられればそれを「天使」に引き継ぐことができる。彼は天使に会いたかった。彼女たちは従順すぎるほど従順に仕込まれたピュアな兵隊だから。

「黒、いい加減にして」

 中性的なはっきりとした声が聞こえた直後、ゴッ、と鈍い音がして、強い衝撃を顎と頭に食らった。頭の中で一瞬だけ受けたはずのその音がぐわんぐわんと体を回って反響している。そのあとにじわじわと痛みがやってきて、ようやく黒は顔を上げた。その不快感を全身で表現しながら。

「あんたに迷惑かけたつもりはないんだけど?」黒は苦々しい顔をして男を睨みつけた。
「迷惑かけたとかかけてないとかじゃないんだよ。仕事を勝手に持っていかれちゃ困る」
「ほっといたら取り違えるかもしれない人に任せたくない」
「お前がこうしてる理由はもっと別にあるんじゃないか?」

 まったくお互いに話し合う気の無い、噛み合うことのない会話。黒はもう一度、仕切りなおすように髪を少し整えてからまた壁に耳をつけた。今度は間髪入れずに右足が振り回された。

「知ってる?死神は死なないんだよ」
 黒は切れた右のこめかみを触りながら笑った。
「死なないからこそこうしてるの」
 両手を持ち上げてやれやれとでも言いたげに男も笑った。

「ひどいね。最悪だ」
「それならやめたらいい」
「死神を?」
「そんな風に血眼になって死者を探し出すことを」
「やだね。それなら霊界で父様みたいに神様の御用聞きになったほうがマシだ」

 今度は男は黒を蹴らなかった。その代わり、いやに嬉しそうな目をして黒を見据えたあと、そのまま踵を返して廊下の向こうへ去っていった。黒はさっきのことなどなかったかのように、また壁に身を寄せる。


 天使の仕事が死者のお迎えであるのなら、お迎えの場である「終点の一つ先の駅」の門を開くのは死神の仕事だった。黒もその一人だった。彼らは選ばれた人が指定通りの行動を遂行しているかどうかチェックし、許可を出して、選ばれた人を運ぶ。
 選ばれた人に課せられる課題はけっこうハードだった。だからそれを遂行しないままのこのことやってくる人も少なからずいて、死神はそういう人たちに対して門を開くことはない。魂ごと壊して、もう二度と生まれ変われないようにしてから、そのへんに捨ててしまう。
 けれど、きちんと課題をこなしてきた人には、まちがいなく門を開いて通した。ふつうの人間には見えない、先頭車両に乗せて連れて行った。ごく稀に間違えて別の人を連れてきてしまうこともあり、それが人間界で「あの世につながる駅」とか言われて騒がれたりしている。

 選ばれた人に与えられる課題は3つ。家族に気取られないように消えること、全財産を捨てること、身近な老人を2人殺すこと。黒には2つめと3つめの課題が与えられる理由がさっぱりわからなかったけれど、しかしこれが非常に難しい課題だったらしい。特に最後の「身近な老人を2人殺すこと」は半分以上の人が断念し、黒はそのせいで何人もの人の魂を壊してきた。

 けれど黒はいつまでも死神をやめなかった。いや、自らの意思でやめることはできなかったのだけれど、むしろ自らの意思で我先にと、死者の審判を他の死神から奪うようにして下していた。彼にはある野望があったからである。







 時間になった。番号時計がひかえめなアラーム音を鳴らしている。ピィ、ピィ、ピィ、と、こんな静かな部屋でなければ聞こえないような微かな音で。
 わたしはロビーのソファから立ち上がって、フロントのお姉さんに番号時計を腕ごと差し出した。

「お迎えへ行きます」
 お姉さんがわたしの番号時計に触れると、アラーム音が止まった。フロントの手元に隠れた何かを操作して、またこちらを向いた。
「今日は四つ島駅ですね。いってらっしゃいませ」
 わたしはカードを受け取って、ロビーを出る。ここからはもう施設の外だ。ロビーの出口は扉ではなくいきなり改札で、ちょっとだけ綺麗であることを除けばふつうの駅の改札とそう変わりない。
 さっき渡されたカードをかざせば、いつも通りの電子音がしてゲートが開いた。その中を通り抜けたら、わたしの仕事が始まる。

 時刻は18時をまわったところだった。19時ごろにわたしはお客を連れてここへ戻ってくる予定になっている。番号時計の示すがまま、わたしはふわふわと歩いていく。
 番号時計はゲートを通り抜けると時刻を教えてはくれなくなる。文字盤であったところがすっかり様変わりして、矢印や簡単な記号が浮かび上がってくるだけの機械になる。わたしは外の世界に出ているとき、かならずその矢印に従っていなければいけない。まず初めに番号時計は左の方向を指し示した。これはいつでも同じだ。
 左を進めば下り階段。気の遠くなる程の段数を下れば、殺風景なホームが見えてくる。ここの駅だけはベンチも時計も時刻表も、電光掲示板も、電車がやってくることを教えてくれるスピーカーさえなくて、1両だけの電車がやってくるのをひたすら待つしかない。といってもたいていは天使がくるのを見越して、階段を降りたところできちんと止まって待っている。今日も扉を開いたままじっと待っていたであろう車両に乗り込んで、座席に腰を下ろした。間髪入れずに扉が閉じた。発車する。
 自動運転、っていったって一体どんな仕組みでこの電車が動いているのか、わたしにはわからない。まるで意思あるもののようにするすると動き、あっという間に隣の駅に到着した。ホームから見えないトンネルの中で、無骨な音を立てて電車が接続される。隣の車両には数人の乗客がまばらに乗っていたけれど、その音には全く気付いていないように見える。わたしは俯いて手元の番号時計をもう一度確かめた。12、と書かれている。

 鈍行の電車は順調にスピードを上げたかと思えばすぐに速度を落として、次の駅に止まった。それを繰り返している。12、と表示されていた画面は、駅に着くたびにひとつずつ、カウントダウンするように減っていった。まったく人の乗り降りがない最後尾の車両で、わたしはポケットの携帯を取り出して、もう一度お客の顔を確認する。もう何度目かの確認のあと、スイッチを切った携帯の黒い画面に、自分の顔が写り込む。うすぼんやりと、輪郭だけが浮かぶように見えた。
 1、と表示されたのを見計らって、わたしは隣の車両へと移動する。どうしてか、わたしと最後尾の車両は誰にも見えないようで、思い切り音を立てて車両と車両をつなぐ扉を開けたって、みな気にも留めない。それはわたしたちが天使である証拠だと、所長さんや副所長さんは言っていた。きっとそうなのだろうと思う。
 番号時計の画面は、わたしに次の駅で降りろと示している。景色も何も変わらない、地下鉄の薄汚れた生活感を、わたしはあまり好いてはいない。真っ白なリノリウムの上を歩いていたいと思う。そう思うのは、わたしが普通の人間ではなくて、天使だからだと、思っている。
 電車が速度を落とすときの、空気か何かが押しつぶされるような、へんな力のかかった重たい音がしばらく続いて、ようやく電車はおとなしく停車した。すべての扉が同時にぱっと開いて、わたしは何かに急かされるようにしていそいそとホームに降り立った。ここで降りられなかったら、番号時計のいいつけを破ったことになる。それだけは絶対に避けなければならなかった。

 ホームに降り立ったまま立ち止まって、左腕を見遣った。今日のお客が乗ってくるのはこの駅からだと資料に説明が書いてあったはず。だから番号時計もここで降りろといったのだろう。小さな丸っこい画面は、検索中を示す、丸い点が波紋のように広がるアニメーションをずっと映している。まだやってきていないのだろう。ホームの端にあるベンチに座って、わたしは真上にある蛍光灯の、かなしげな白い光を目に焼き付けては、瞼を閉じて、残像のように残る得体の知れない生き物のような白い物体を、消えるまでずっと追いかけている。消えては、また焼き付け、追いかけ、そして消えてはまた焼き付け、ずっと、番号時計がわたしを呼ぶまで、それを続けた。

 その間、3つの車両がホームに止まり、そして過ぎていった。扉が開くたびに、片手で数えられる程度の乗客がぱらぱらとホームに降りて、そのまま立ち止まることなくむこうの階段のほうへと足早に向かっていった。彼らにわたしのことは見えていない。小さくなっていく背中をじっと見つめても、振り返ることはない。

 今日は黒に会えるだろうか。

 そのときふと、ある死神のことが頭に浮かんだ。豆粒ほどの人の背中と向こうに見える看板を、どこに焦点を当てるでもなく眺めながら、わたしは最近自分に悪い考えが芽生え始めていることを意識した。黒という得体の知れない男のこと。

 黒とは半年くらい前に電車の中で出会った。といっても、死神とはかならず仕事中に電車で会うことになっているから、当然のことではあった。
 死神は、お客のことが見えない。音が聞こえることもあるそうだが、たいていはうっすらと光る魂しか見えないのだそうだ。だから天使を目印にして、その近くにある魂を探すのだという。魂さえ見つけてしまえばすべて分かるらしい。これは天使の仕事はじめたころに、なにかの授業で習った。
 とにかく死神は、まず天使をめがけてやってくる。そしてひととおりの手続きを済ませ、お迎えの許可が下りると、お客を先頭車両に連れていく。そしてそれを追うようにして、天使もそちらへ向かう。死神は終点から先に行くことができないので、そこからがやっと天使の仕事になる。はじめのころはよくわからなかったから、とにかく番号時計の言う通りに歩いたり止まったり喋ったりした。今は少しだけ余裕がある。

 余裕がある、ということがいいことだったのか悪いことだったのか。振り返ってみても判断しがたい。半年前のあのとき、もうしばらく緊張もせず仕事をこなしていたわたしに、こちらを向いた黒は突然こう言ったのだ。

「お前は本物の天使じゃないよ」

 そう言ったときの黒の声のトーンと表情をよく覚えてる。ひどく優しげで、でも距離のある妙な温度をしていた。顔はにやついていて、でも悲しそうにも見えた。わたしが言葉を失っていると、黒は得意になってさらに話し始めた。

「俺だって本物の死神じゃない。あの施設はなんだかおかしいんだ、全部が」

 言っていることの何もかもが繋がらなかった。ガラスの花瓶を床に落として割って、破片が四方に飛び散るみたいに、一息で話されているはずの言葉が、わたしの耳に入った途端くだけて統一性をなくしてしまった。

「なんで」

 だからわたしはばかみたいな質問しかできなかった。

「なんでって、なにが?」

 ちょっとイライラした声で黒は訊ねかえした。

「なんで分かるの、そんなこと」
「俺は外の世界の記憶があるんだ」
「外の世界?」
「改札の向こう側にある世界のこと」
「だから、全部わかるっていうの?」
「全部は分かんないけど。ここがやばいっていうのはわかるんだ」

 さくらがおかー。さくらがおかー。
 駅員の平べったい声が車内に響いている。

「どんな風にやばいの?」
 少なくとも私には、地下鉄の人くさい環境より、高い天井と白い光が満ちる東の施設の方が居心地が良かったから、やばいのはむしろ人間の世界のほうじゃないかと思った。

「お前、いくつ」
「え、じゅ、11歳」
「俺14なんだけどね。普通この年の子供は学校に行かないといけない」
「学校?人間が行くところでしょう」
「だから!お前は天使じゃなくて人間なんだって」
「そんなわけないよ」

 わたしは黒のきつい冗談がちょっと面白くて笑ってしまった。地下鉄はさくらが丘駅に到着する。フシュー、と音がして、人がぱらぱらと降りていく。わたしの体をすり抜けて。

「ほら。わたしが人間だったらぶつかってるはずだよ」
「うん。まあ、そうなんだけどさ」
「黒だって人間とぶつからないでしょう」
「そのしくみがどうなってるかは俺にもわかんないけど。でも俺はもともと人間だったんだよ」

 ピンポーン、とまた音がして、扉が雑に閉まった。

「人間だった?嘘みたいな話だね」
 わたしはひらひらと笑った。まるきり話を信じていないことがよくわかる笑い方だった。

「嘘じゃないんだって、ああもう」
 話もそこそこに、黒は背を向けてお客の方へ走っていった。私のアイボリーのワンピースとはとても共存できない、したたるほど濃厚な黒い色をしたローブをひらりと靡かせ、黒はその人の魂に遠慮なく触った。魂はおびえる小動物みたいにかぼそく抵抗する。黒は他の死神たちと何の変わりもなく何やら呪文を唱えて右手の指輪から炎を出すと、それをいとも簡単に焼いた。
 あの炎で焼かれたものはあの炎によって再生される。決まりを守れなかったお客の魂は、そのまま再生されずに葬られていくのだ。




 その日はあれきり黒が何か言い出すこともなく、わたしは静かにそのお客を運んだ。
 ただ、あの日以降、わたしはしょっちゅう黒が担当するお客の天使をやってばかりいる。1週間に1回はかならず黒がいた。そして毎回、いくつか話をして去っていくのだ。わたしは最初こそばかにして笑ったものの、黒の完璧すぎる嘘が、その完璧さのあまり否定しきれなくなっていって、だんだんと、心の底の端っこから彼の話を信じ始めていて、その信頼は、癌がじわじわと他の部位に染み入って進行するように、わたしの心を巣食っていった。


「お前たちは昔、ここじゃない別の施設で普通に暮らしてたんだ」
「あいつらがやってるビジネスはイカれてる。それこそ夢幻みたいな話だ」
「どうして国や政府が動かないのかが全くわからない。もしかしたら国も関わってるのかもしれない」
「抵抗した天使は全員殺されてる。だから個人名を使わないんだ。色の名前で名付けて同じ服を着せて同じ髪型で、毎日チームを変えて働かせてれば人が1人くらい消えたって気づかれにくい。入れ替わる奴のリストだって見たんだ」
「お前も大人になる前に殺されるだろうな。本物の天使は子供のままだけど、人間は大人になっちゃうから」
「番号時計には位置情報付きのICチップが入ってるのは知ってるな?それで少しでも番号時計のいいつけを破ってみろ、即殺されるぞ。それで俺が選ばれた人を探し損ねたことが何度かある」
「あいつらはそろそろビジネスが波に乗り始めたから、全国に拠点をつくりはじめたらしい。100人いる天使が10分割されてますます働かされるようになる」
「ただ、人間の世界では出生率がちょっとづつ下がってんだってさ。おまけにへんな決まりのせいで最近ほとんどなかった殺人事件がじわじわ増えてきた。警察も慌ててるみたいだ」
「正直、施設と駅がどうつながってるのか、俺は分かんない。行ったことないからな。ただ、かなり危ない橋渡ってるってのは聞いたことがある。失敗したら選ばれた人も天使も異空間に取り残されるか死ぬかだな。だから自分たちは関わらないんだよ」
「俺だけじゃ逃げられないんだよ。天使に会ってるこの瞬間だけが監視から逃れられるチャンスなんだ。俺だけが逃げようとしたって天使に通報されたら即死だよ。だからお前に頼んでるんだ」


「黒は、」
「え?」
「黒は、何者なの」
 夜中の1時、人のほとんどいない車両、真っ暗闇のトンネルの中、黒は今までで一番つめたい目をして言った。

「あのマフィアのボスに殺された一族の生き残りだ」





 あれからわたしは、黒に会わずとも、黒のことを考えるようになってしまった。

 今日もし彼に会うとしたら、30回目の遭遇になる。もうそんなに顔を合わせているのか。でも確かに、ありえない話ではなかった。わたしが彼に初めて会ったとき、わたしは半袖のワンピースを着ていて、黒はサンダルを履いていた。ローブに全く似合っていなかったからよく覚えてる。そして秋になり、冬になった。それどころかもうすぐ春になるのだ。

 黒は、わたしに、一緒に逃げてほしい、と言ってきた。それが10日前のことだった。

 わたしは、スカートの裾を握る。番号時計がお客を見つけ、表示が緑の矢印に変わった。わたしは逃げ出せるだろうか。そもそも、逃げたいと思っているのだろうか。ゆっくりと、裾を離して立ち上がる。歩き出す。わたしは、天使ではないのだろうか。黒に会ってから、わたしはよく悩むようになってしまった。自分の存在を、疑うようになってしまった。わたしは、人間なのだろうか。あの、階段を上っていく背中を持つ生き物と同じ、改札の外で生きる人間なのだろうか。そんなはずない。もしそうだとしても、そうなりたくはない。

 ただ、黒に会うとその途端、彼について走っていきたいと思うのはどうしてだろう。
 わたしは、その理由をわからないままにしておきたかった。






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