ベッドふたつ分の距離は、話すには遠すぎて、無視するには近すぎた。
 寝返りもほとんどうたず、半ば死んだように静かに眠っている男の気配を背中に感じながら、私はもう何度目かもわからなくなるほど見た、あるメッセージ画面をもう一度見つめる。
 昨夜、黒だと名乗る男から、メッセージが届いていた。
 画面上部には、これは登録のない人物からのメッセージであること、怪しい内容であればブロックして運営会社に通報することが可能であることである旨が記された白い警告文が浮かんでいる。スクロールする必要もない短い文章を、私は跳ね除けることもできなければ、受け入れることもできないまま、ただ、じっと見ている。



 翌朝私が目を覚ましたときには、既にベルは身支度を整え、ベッドから北へ二ブロック回った会議室のような空間で大画面のテレビをつけていた。なんとなく声をかけづらい距離感だなあと思いながらそろそろと立ち上がり、ベルに背を向けて昨日から着っぱなしの洋服をこっそり嗅いでみる。着替えたいけれど、もちろん洋服はすべて自室だ。あまり気の回りそうにない沢田さんには期待できそうもなかった。自分の置かれている立場なんかより、こういう地味なところのほうが私には気がかりだった。

「向こうにあるぜ、全部」
 誰に向けるでもないような大きめの独り言を聞いた。そのすぐあとに、この空間には自分とベルしかいないことを思い出して、ああそうか、これは私に向けられた言葉なのかもしれない、とようやく気がついて振り返る。ベルがこちらを向いていた。背もたれに左腕をかけ、彼も振り返るような形で私を見ている。
「そっち」
 私の理解を待つことなく、その左腕を伸ばして向こうを指さす。ばかな犬みたいに、そのとおり、そちらの方向へ首を回せば、自室のチェストがなんでもない顔をしてぽつんと置かれていた。そこだけ空間が切り取られたように違和感のある景色だった。本来あるべき空間とのギャップが埋まっていないせいだろう。私は驚いていいのかよく分からない。彼らの間ではこんなことも普通なのかもしれないと思ったから。
「クローゼットの中身もぜんぶカーテンの向こうのハンガーにかかってるってさ。遣いの奴が言ってた」
「あ、そうなんですか」
 驚きは隠したままそちらの方へ歩いていく。チェストが置かれているのは中心から南へ三つ回った、仮眠室のような、個室のような、謎の空間だった。ここだけ妙に家具の密度が高く、半分ほどカーテンを引いて外からの視線を遮断できるようになっている。チェストが置かれていたのはカーテンの引けない残り半分の場所で、カーテンで隠れている一番奥のほうには、たしかに自室のクローゼットの中身がごっそり移されていた。私はカーテンの内側へ入ってその光景を見回す。この部屋だけを使って生活するのも難しいことではなさそうだ。
 中途半端にかかっているカーテンの内側に立ったまま、首を少し持ち上げて天井のほうへ視線を移した。重厚な暖色のカーテンは天井ぎりぎりまで伸びていて、この部屋の間接照明に下から照らされるがまま、上部へ向かって濃い影をつくっている。私はベルと初めて会った、あのレストランのVIPルームを思い出す。あの空間は全然落ち着かなくて、心臓の周りの筋肉だけがぐっとこり固まるような、本能的な「合わなさ」をずっと感じていて、でも、今はどうだろう。一歩下がってベッドに腰をおろす。「合わなさ」どころか、すべてがまるで何もかも自分とは関係のない、別の世界線の出来事のように感じる。あのレストランには現実感が多少なりとも残っていたから、私の体は拒否を示すことができた。だけど、ここはもうその感覚さえもじりじりと奪い尽くして、手応えが何一つ残っていない。取り込まれたんだ、と、私は結論づける。私は追いかけられることが何よりも嫌いだけれど、もう逃げられないとわかった瞬間、まだ捕まってもいないくせに、諦めて心を捨てる。嫌だと泣く私の喉を潰して、相手の胃の中に自分から飛び込むのだ。私は、相手の敵意や100%の視線や、その意識が自分の腕を捕まえる瞬間が何よりも恐怖だった。私に触らないで欲しかった。だから、触られる前に、死ぬ。

「なあ今日だけどさあ」
 カーテンの向こうから声が聞こえて、完全に一人の世界に没頭していた私は肩を震わせるほど驚いてしまった。そのわずかな反応すら殺し屋には嗅ぎ分けられるようで、少し苦笑したけれど意外にも何か言ってくることはなかった。
「入っても?」
「あ、大丈夫です」
 すう、と影から現れたベルは一歩二歩、と少しこちらへ歩いてきて、カーテンのぎりぎり内側にあるスツールに腰をおろす。当たり前のように足を組んでから、とりあえず今日はお前にくっついて過ごすからよろしく、と、いつものように笑う。
「わかりました」
「ん。ていうかなんでまた敬語に戻ってんの?」
 指摘されて初めて気がついた。そういえば昨日のことなんて忘れたように、また以前の関係に戻っている。
「すみません」でもあまり砕けた口調になる気分にはなれなかった。
 まあ慣れないならいいけど、とつまらなそうに呟いて、ベルは手近の小さなサイドチェストの引き出しを開ける。中からシューズメンテナンスの箱を取り出すと何やらごそごそやっている。私は着替えることもできず、無視して何処かへ行くこともできず、手持ち無沙汰にもう一度辺りを見回した。
「いくつか質問させてくんない?」
 いつの間にか軍手のようなものを両手にはめたベルは、ヴィンテージ調のブリキ缶から大きい方のブラシを手にとって、毛並みを確認するように指先で撫でる。
「いい、ですけど」
「じゃあ遠慮なく。青山ユキって本名?」
 シャッ、シャッ、と軽い音を立てながら、ベルは右膝を立てて、靴を履いたままブラシをかけ始めた。本革の靴なんて所持したことのない私には無縁の動作だ。
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、あの、そうだと思ってます。戸籍は見たことないので確実なことは言えないんですけど」
「戸籍なんて大体の人間は見たことねーって。結婚するときくらいじゃん?」
 はは、と私の乾いた愛想笑いが上滑りする。これじゃまるで振り出しだ。何をこんなに改めて緊張しているのだろう、私は相変わらず自分のことが不明だ。
「名前、もともとあったの?それとも沢田がつけたの?」
「あー、…」
「嫌なら言わなくてもいいけど」
「苗字は、つけてもらいました」
 踵のほうはさすがに難しかったらしく、いよいよ靴を脱いで丹念にブラシをかけている。あまり愛着という言葉が似合いそうにないと思っていたから意外だった。その手元を見るともなしに見る。
「ふーん」と少し考えるように声を漏らして、数秒後、「親は見つかったの?」と質問を重ねてくる。
「いえ…、というか、親なんているんでしょうかね」
「俺に聞かれても困る」
「ああ、はい、すみません」
 いちいち謝んないでよ、と少年のような憂いをたたえたフラットな声でそう言いながら、まだ靴を磨いている。
「じゃああれ。彼氏は?」
「前に言いましたよね」
「そうだっけ」
 さらに深く攻めてこないところを見る限り、わかっていて訊いたのかもしれない。これは彼なりの冗談ととるべきなのだろうか。迷っていたらまだ質問を投げてくる。
「友達は?」
「いるかどうかってことですか」
「そりゃあ、いるってことは前提に訊いてるって。さすがに」
「少ないですけどね」
 つま先の辺りを軍手のままひと撫でして、右足は完了したらしい。満足そうに履いてから、左足に取り掛かる。
「あと、お前いつも何してんの」
「いつも?」
「うん。フリーターでしょ、暇な日とか何してんの」
 私はこの手の質問が苦手だ。普通に生きている人には想像できないだろうけれど、私はぽっかり時間の空いた日、だいたい立ちすくんでいたら日が暮れている。何をしようとしても、イメージするだけでどっと疲れるからどこかへ行こうという気分にもなれないし、いつも何かを考えているからリラックスすることもできない。暇な日を使って充分に自分をいじめたおしているだけなのだ。
「さあ…。ぼーっとしてたら終わります」
 嘘だ。ぼーっとできたことなんて生まれてこのかた一度もない。
 この無難な私の返答に、でも、ベルは何かを感じたようで、手を止めてこちらを伺った。そして、なあお前、寂しいだろ、ずっと。と言う。




 10時からのシフトに30分も早く着いたのは、やっぱりベルが付いてきたからだと思う。もちろんというか、やっぱりというか、ベルは店に入る前にふいと道を逸れてどこかへ行ってしまったけれど、勤務中もずっと何処かからなんとなく視線を感じていたので、きっとどこかから見張られていたのだろう。
 今日はいつも通り接客をしていたはずなのに、どこか遠い場所の出来事を見ているかのように、意識がふと額のあたりから抜け出ていくような気持ち悪さをずっと覚えていた。自分の声も、客の声も、水の中にいるみたいにくぐもって聞こえたりして、頻繁に息を整えるタイミングがないとパニックに陥りそうだった。思い当たることなんてありすぎてどれが原因なのかわからないけれど、ふと、こんな症状が月に一回は起きていることを思い出し、ああ別に、風邪みたいなものか、と大したことない風を自分に装って、「ご注文お伺いいたします」と目の前の客にはきはきと笑んだ。いつもの8時間が3日くらいに思えた。

「お疲れ」
 店を出て500メートルほど離れたところで、いつの間にか左隣に立っていたベルが声をかけてくる。驚く余力もない私は、ああ、とかなんとか適当に口からこぼして、変わらぬスピードで歩き続けた。ベルはいつもだったらもっと早足で私を置いていってしまうのに、元気がないのを気遣ったのか、ずっと隣を歩いている。
 正直置いていって欲しいと思っている。そこのコンビニで何か買って帰ろうかと思っていたけれど、同行者がいると気を使ってしまって何も言い出せなくなって、自分のこういう僅かな意思さえも簡単に摘んでしまうから、私は人といるのが嫌いだった。
 あーあコンビニ行けないな、まあいいか、ベルかボンゴレの誰かが何かを用意していたりするのだろう、よく分からないけど。無いなら無いでもうそのまま眠ってしまおう。

「なんかすっげー疲れてね?」
 隣を歩きながら、ベルがそう言ってポケットから携帯を取り出した。こちらから目をそらしたその隙に、私は返事を差し込んだ。
「うーん、どうかな、ちょっとは疲れてるかもしれない」
 私は自分の疲労でさえも他人にごまかす癖がある。
「嘘つきだね」
 それを全て見透かして、私以上に私を知るのがベルなのだった。
「嘘つき?」
 私は、どきりとして足を止める。
「俺に隠し事できると思ってんの?」
 まただ。また、彼から強烈な香水の香りがする。
「思って、ない、けど」
 この香りは強烈に他人のそれであり、と同時に、なぜだか泣いてしまいそうになるほど私の心を刺激した。自分の内側にあるなにかと共鳴しているような感覚。
「まあ、自覚できてなきゃしょうがないんだけどね」
 うわべだけのような冷めた目で笑って、ベルは歩き出す。それについていくようにして右足を踏み出せば、さっきの強い香りはもう消えていて、また、私たちはただの一時的な共犯者のような関係に戻る。たびたび私たちの間を通り過ぎる、あの不思議な親密さは何なのだろう、と思いながら、私は唐突に例のメッセージのことを思い出す。言ってしまおうか、と一瞬思ったけれど、なんとなくもう手遅れのような気がして口をつぐんだ。こういう私のわずかな躊躇も、全部わかってくれたらいいのに。そしたら、私だって、もっと楽に生きられるかもしれないのに。
 すると、私の一歩先を歩く金髪の男は、思い出したようにこちらを振り返って、コンビニ入ろっか、なんて言ったりするのだ。


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