右手の指先でちいさなつまみを捻れば、生まれる。

 カチ、という硬い音と共に頭上の電球がぽわりと灯った。カーテンを閉めきった真っ暗闇から一転、そうして突如としてわたしの世界は生まれる。
 その灯りは濃いオレンジ色をしているから、つまみをひねったわたしの指先も、ごわごわとしたシーツも枕もその隣にある番号時計も、すべてがオレンジがかって見える。緊張と安心がないまぜになったままわたしは深く息を吸い込んだ、オレンジ色の空気が肺の中いっぱいにぐんぐん取り込まれていく。

 オレンジ色の空気はいつもわたしをどきどきさせるけれど、それと同時にひどく落ち着かせられもする。体の中でばちばちと静電気が飛び交い、飛び交うそばから混ざり合ってひとつの白い光になる。とっちらかったわたしの興奮が、とっちらかると同時に片付いて、まとまっていく。ここへはじめてやってきた4年前のあのときから、その感覚だけはずっとかわらない。

 はあ、とひとつ息を吐いて、わたしは両手を胸の前で組む。こうするととても落ち着くから。そしてわたしは目を閉じる。目を閉じて、胸の中の白い光のあたたかさや、まとまった感情を注意深くなでていく。まぶたの裏の、うすぼんやりと明るいオレンジを見つめながら、わたしは何かと交信をしている。
 「交信」という言葉は副所長さんから教えてもらった言葉で、わたしのこの行いをかなり言い当てているような気がしたから、教えてもらったその日から、わたしはこの密室の行いを「交信」と呼んでいる。

 副所長さんは、正確には、「星との交信」と言った。

「この時代、もう地球はだいたいのことが調べ尽くされて、知り尽くされたけれど、未だに全然調べ尽くされていないことがある」
 副所長さんはいつも難しい本を小脇に抱えていて、所長さんがまわりにいない時にだけ、その本にまつわる話をしてくれる。そのとき、所長さんはトイレか何かでちょっとだけ席を外していた。
 それはなに、と、わたしは尋ねた。
「地球以外のこと」
 副所長さんが言うには、わたしたちが見上げる空の上には、地球みたいな形をした、地球ではない「星」がいくつもあって、それは夜に光ったり光らなかったりし、生き物が住んでいたり住んでいなかったりするらしい。私たちは基本的に夜の外出で「外」には出ないし、物心つく前から東の施設で暮らしているから、夜に光るという「星」に、その名前を知った瞬間から虜になった。

 副所長さんは言う、星とは交信が出来ると。

「星はとても、とても遠くにある。どれくらい遠くかちょっと上手に説明できないくらい、遠くにある」
「そんなに遠くにあるものが見えるの?」
「見えるよ」
「どうして?」
「あいだに何もないから」

 遠くにあっても、地球と星のあいだには何もないから、星の光はゆっくりゆっくりこちらへやってきて、いつの間にか地球に辿り着いていると言った。その移動時間は、何百年何千年とかかるものもあるらしい。
 だけど光は確実に地球へやってきてくれる。だからわたしたちも、星に届けたいものがあれば、気持ちを込めて送りさえすれば、必ず届くらしい。

「ただ、ものは送れないよ。気持ちだけ送れる」
「光と気持ちは同じなの?」
「うーん…」
 副所長さんは少し困った顔をして顎に手を当てた。わたしは副所長さんを困らせてしまったと気づいて嫌な気持ちになった。これを罪悪感と呼ぶ、と知ったのはもっと大きくなってからだった。
「さわれないという意味では一緒だね」
「ものは、さわれる」
「ああそうだね」

 とにかく、星とわたしのあいだには何もないから、気持ちや光みたいな、さわれないものを送ることができるらしい。それを交信と呼ぶらしい。
 だからわたしは今日も交信をする。わたしの場合はなにか決まった対象に向けているわけではないけれど、かたちのない、名前もない、だけどわたしの体の中に確実に存在している、うごめく気持ちをどこかへ送っている。いつかどこかの誰かがそれを受け取って、わたしに何かを返してくれるといいなと思っている。

 そうして交信をしたあとは、番号時計を左手首に巻いて、上段から梯子を降りて下段へ。小さなクローゼットを開けてワンピースを取り出す。アイボリーのそれはほとんど同じ形をしたものばかり収納されていて、生地の厚みがすこし薄いものが新しく届いていた。春が近い。
 ワンピースの上に制服の上着を羽織り、バレエシューズをひっかけるとその勢いのまま右手で思い切り扉を開いた。

「おはよう」
「おはよう」

 同じく個室から出てきた仲間におはようの挨拶をしながら、ひとつしかない出入口へ向かう。今わたしたちがいる部屋は個室部屋と呼ばれていて、部屋の端から端までを見渡すことが難しいくらい広い絨毯引きの大部屋に、100人くらいの「天使」の簡易個室が並べられている。この個室のことを、所長さんは「でかい2段ベッドみたいなやつ」と呼んでいる。
 とにかくその個室部屋には出入口がひとつしかないので、混み合うそこで立ち往生しながらわたしたちは大広間へと向かう。出入口をぬけて廊下を突き当たりまで進むと、また扉がある。ただそこは改札のようにいくつかゲートがあるので、あまり混まない。

「おはよう、ターコイズ」

 ゲートに番号時計をかざすと、足元がパッと水色に光り、ゲートがわたしの名前を確認するように挨拶してくる。天使には色の名前が付けられていて、わたしはターコイズと呼ばれる。ターコイズはきれいな石なのだと、いつか副所長さんが教えてくれたのを思い出した。隣のゲートでは藤とサンゴが呼ばれている。足元がその色の通りに光っている。

 わたしたちは天使だ。
 天使は、選ばれた人々を迎えに行く。そして送り出す。それは簡単なようでいてとても難しいから、困ったらいつでも相談してほしいとしょっちゅう所長さんは念を押した。失敗したらとんでもないことになるんだと。だからどうか慎重にいてくれと。

 今日も同じように、大広間で所長さんは朝の挨拶をして、それぞれに仕事を言いつけた。わたしや空や浅葱、つまり水色っぽい色名をつけられた天使たちは、よく「お迎え」の仕事を任される。今日もわたしたちは一人ずつ、様々な路線の地下鉄やら私鉄や国鉄に乗って行って、終点のひとつ先を探している「選ばれた人」をお迎えにあがる。

「今日の外は冷え込んでいるらしいから、着込んで行きなさいね」と、研究職員のお姉さんがわたしの肩をぽんとたたいていった。
 その返事に笑いかけようとしたのに、お姉さんは向こうを向いて歩き出してしまっていた。誰に向けられることもないこの固まった笑顔を上手にしまえない。それでも無理やり笑顔を引っ込める瞬間、胸がきりきりと締め付けられた。
 どういう仕組みで「選ばれた人」だけが終点のひとつ先に行けるのか、どうして終点のひとつ先は他の人に知られていないのか、わたしにはよく分からない。そのまま歩いて行ってしまったお姉さんの背中を見つめていても仕方がないから、わたしは携帯の画面を点けて、所長さんから受け取ったデータにアクセスし、今日「お迎え」する、選ばれた人の顔写真を確認した。

 今日の仕事は夕方からだと言われたから、残りの時間は勉強部屋で授業を受けていた。
 配られたプリントはひたすら割り算をしまくるだけの問題が並んでいて、かなり退屈だった。物語を読んで主人公の気持ちを考えることも、世界の歴史を古い順になぞっていくことも、アルコールランプの点け方と消し方を知って実際にやってみることだけはちょっと楽しかったけれど、だいたいのことは仕事より圧倒的に退屈だった。どうして勉強なんてしなくちゃならないの、と、やはり副所長さんに尋ねたことがあった。副所長さんは、僕もよく分からないけれど、と一言いい置いてから、ちょっと天井を仰いで、またこちらへ向き直って、

「この世はね、みんな似たようなことを考えているはずだ、ってことを前提にして、回ってるんだと思う。だからかな、多分。…みんながバラバラなことを言い始めたら、困るんだよ」

 私は今でもその意味がよく分かっていない。





 わたしたちが勉強をしたり寝たりご飯を食べたりする東の施設は、駅には繋がっていない。そして、選ばれた人を「第三の世界」に連れて行くのは、駅と直結している西の施設でしかできない。このふたつの施設は線路をまたいで東西に配置されていて、だからそうやって東、西と呼ばれている。東西南北の勉強はもう1年以上前にやったはずなのだけれど、何度教えてもらっても、いまいち理解できない。西の施設にいたって東の施設にいたって、「ここは西!」「ここは東!」なんて絶対に分からないのに、どこを見たらそんなことがわかるんだろうって思う。左右はすぐに覚えられたのにな。










 引っ越してしまったから当たり前だけれど、あれ以来バイト先にベルさんが来ることはなかった。
 そういえば、「ベルさん」はやめろと言われたけれど、やっぱり昨日の今日で「ベル」とはなかなか呼びづらい。
 今日も来てしまったら、顔を合わせてしまったらどうしようと朝からそわそわさせられていたのだけれど、結局いらぬ心配だったようで、その次の日も、そのまた次の日も、ベルさんは来なかった。

「きょう31日だよね。まじかー」
「もうあのイケメンお兄さん来ないのかなあ」
「ルミに話しかけてきた日が最後だったかー…」

 昼が近い。背の高いロッカーが占領するバックルームはお葬式モードになっていて、休憩中のクルーとシフト終わりのクルー、シフト始まりのクルーがそこに全員集まって頭をうなだれていた。平日だし朝の混雑も終わっていたからそこまで焦りはしなかったけれど、表に出ているクルーが私ともう一人だけだったので、何かあったのかと裏を覗いたらこうなっていたのだ。11時をすこし過ぎているから、本当のところ11時からシフトのクルーは早く準備をしてほしいのだけれど、なんだかそういうことを言うのはナンセンスだと悟る。
 そうして黙っていたら、私に気がついた一人が右手でごめんのポーズをとった。

「あーユキ、ごめん、今行くから」
「いや、そんな、全然いま忙しくないですし」作り笑いで右手を振った。
「ていうかユキってさあ、意外と結構メンタル強いタイプなんだ?」
「え、どうしてですか」
「ユキだってオープンからずっとあのお兄さんの接客してたじゃん」
「ああ、まあ、はい」

 ここは1年前に新しくできた店舗だった。駅の反対側の出口にある同じブランドの店舗では客を捌ききれなくて、近くにもう一つ作ろうとなってできたのがこの店舗らしい。

「あーそっか、彼氏いるとかそういうことか」
 ふと、同僚が根拠のないことを突然口にした。それを合図として待っていたかのように、うなだれていた頭が一気にこちらへ向く。ああもうこういうのが一番嫌いだ。
「えっまじでいるんですか」
「いやいるでしょ。大学んとき付き合ってた人いたじゃん」
「あの人とは別れましたけど…」
「じゃあ誰ですか」
「だからそもそもいないですって」

 いーやいやいや、その余裕は彼氏持ちの余裕だよー。なんて何をわかったつもりなのか、先輩まで私を疑ってかかる。本当のことを言うつもりはさらさらないけれど、もし話したとして、…もう月末を待たずに引っ越しちゃったんですよとか、私のボディーガードになったんですよ、なんて、話が跳躍しすぎていて信じてもらえるはずもない。

 常連さんへの未練はどこへ行ったのか。私に彼氏がいるかいないかという話で盛り上がり始めたバックルームに、表へ出ていた店長が眉間にしわを寄せて入ってきて、その話はしり切れとんぼになったまま中断された。ため息をついた店長は、私に、休憩行っていいよ、と声をかけてきたけれど、いま休憩になんか入ったら、きっとここからずうっと遠くへ逃げたくなって戻ってこれる気がしなかった。でもその休憩を断る前に店長はさっさと表へ出てしまった。閉められた扉の前で、私は、自分の感情がわからずにいる。





「あーあーあー…」
 バイトからの帰り、電車で座って携帯をいじっていたら、乗ったところから次の駅でいきなり手元に影ができた。そして例の声。顔を上げると、ベルさんがつり革に手首を引っ掛けてこちらを覗き込んでいた。

「死相だな。そんな顔してどうした」
「…私に彼氏はいないんですよ」
「なにその必要ない情報」

 そんな幸薄そうな奴には一生出来ねえだろうな、とまったく慰める気の無い態度のベルさんはその姿勢のまま左手でポケットをごそごそとやっている。

「番号。この前聞くの忘れてたんだよね」
「番号?って?」
「電話番号。それしかなくね?」

 「番号時計」のことかなと反射的に思っていた自分にぞっとした。表情だけ取り繕って、ああ、じゃあ交換しましょうか、と手元の携帯を通信モード画面にする。

「てっきり沢田さんから伺ってるのかと思ってました」
「あいつ別に知らねーだろ。お前のこといろいろ把握してたらあっちも危険になるし」
「…そういうものなんですか」
「そういうもんだよ」

 私の隣はちょうど空いているけれど、ベルさんは座る気配を見せない。

「座らないんですか?」
「うん。狭いし。きちんと座んなきゃいけない感じが嫌」
「はあ」
「貸して」

 話の流れを千切るようにベルさんは私の右手から携帯を奪い取ると、だるそうな表情のまま携帯をくっつけて番号を交換させている。なんとなく手元を見ていたら、その向こう側のカットソーが目に付いた。そういえば今日はスーツを着ていない。

「今日はスーツじゃないんですね」
「んーまあね。オフだから」
「すみません、お休みの日に」
「俺が勝手に来たんだからお前が謝ることなくね?」

 それはそうですけど。私が口ごもると、ベルさんも特に言い繕うわけもなくしばし沈黙した。カフェに来てたときってベルさんどんな格好してたっけ。スーツだったかもっとラフだったか、不思議なことにどうしても思い出せない。

「はい、ありがと」携帯が目の前に差し出される。
 電車は速度を落として、そろそろ次の駅に着きそうだ。
「あ、確認します」
「はいはい」

 まったく登録のなかったアドレス帳に1件だけ新規の登録情報があった。名前の欄には「Belphegor」と書いてある。ああ、こういう綴りなのか。

「ベルさん、どこの国の人なんですか」
「ベルさんって誰だよ」
「…ベル、ベルはどこの人なんですか」
「この際敬語もやめよっか」
「…ベルは、どこの国の人、…なの」

 ちょっとした会話をしようとしただけなのに幾度も詰められてどんどん言葉がたどたどしくなっていく。たじたじになる私が面白かったのか、ちょっと機嫌をよくしたベルは私の隣に座って流れるように足を組んだ。「さーね。覚えてない」と返事をしてくるあたり、教える気はないのだろう。

「じゃあ歳。歳はいくつ?」
「いくつにみえる?」
「その合コンみたいなノリやめてよ」
「行ったことあんの?」
「ないけど」
「なさそー」

 いつの間にか止まっていた電車の扉が閉まって、また動き出す。乗客は徐々に減っていく。
 ベルの右隣の席もさっきの乗降で空いたから、二席分を占領して悠々とくつろいでいる。ベルは一体どの駅まで乗るつもりなのだろう。家のあるあの駅は反対方向だから、家に帰るわけでもなさそうだ。
 地上を走っていた電車の窓の外が急にまっくらになった。地下に降りていく。するとなぜか隣にいる男の存在感が急速に濃くなって、今まで気にならなかった洗剤のような香水のような匂いが鼻をついた。そんな私の違和感に気付くはずもなく、ベルはだらりと右側に体を傾けて電車の吊り広告を眺めるように上を向いた。

「お前いくつだっけ」
「23」
 自分がこんな歳まで生きているとは思わなかったけれど。
「じゃあ9歳上だ」
「ベルが?」
「そう」

 嘘でしょ。笑いながらそう返事した。とても30を超えているようには見えない。嘘つく理由がねーよ、とつられたように笑ったベルはやっぱりもっと自分と歳が近く見える。

「9年前はなにしてたの」
「人殺してた」
「今もそうなんでしょ」
「今はお前の護衛しかしてねーよ」
「ふーん」

「いつから、その、なんだっけ、ボンゴレじゃなくて」
「ヴァリアー」
「そう、そのヴァリアーってとこにいたの」
「んー8歳から、かな」
「31歳までずっと?」
「そー」
「23年間ずっと?」
「単純に計算すればね」
「でも、もう辞めたんだ」
「やめたっつーか」

 ボスが変わったんだよ。

 その声色がやけに乾いて切なげだったから、私は急に罪悪感に苛まれて、何も言えなくなった。

 私とベルの沈黙のあいだに、車内のアナウンスが割り込むようにしてやってくる。アナウンスは、私の家の最寄駅の名前を二度、告げた。




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