記憶を頼りに手のひらを壁に添わせながら、電気のスイッチを探す。ぽこっと飛び出たスイッチを見つけると力一杯押し込んだ。通電の淡い破裂音がして、真っ暗だった空間が天井からの光を得ていきなり具体的に浮かび上がった。
 勉強は嫌いだったけれど、そのなかにときどきある、運動の時間は大好きだ。真っ白に磨き上げられたホールは、たまに集会に使われるのと、運動の時間に使われるの以外で特に使い道がない。だから運動の時間にしていいと言われた時間になると、わたしは誰よりも先にとびだしていって、道具やら器具やらの準備をする。

 しなくていいと言われているけれど、どうしても自分の背丈よりも大きな道具をホール中引き回したいという衝動には勝てず、毎回わたしは倉庫のなかで一番大きいモップを出してきて、ホールいっぱいを走りながらぐるぐると掃除をする。
 このモップは水気がなく、床を滑るようにするすると動く。最近はモップの柄の部分をどのくらいの角度で持てばスムーズに動くのかもよく心得てきて、体重をかければかけるほど、追いつけないんじゃないかってほど加速していくこのギリギリのひとり追いかけっこが楽しい。何度もその速度を上手に扱えなくてつんのめったり横にころげたりしたけれど、それだってやっぱり楽しい。

「ターコイズ」
 広いホールの3分の1くらいを掃除し終わったあたりで、背後から声がかかった。ふと足を止めて振り返れば、さっきまでいっしょに勉強部屋で割り算をしていた梔が立っていた。私と同じようなワンピースを着ている。

「ああ、くちなし」
「お掃除?」
「ううん、遊んでるだけ」

 モップで遊んでるの?と首をかしげた梔は、ホールの真ん中あたりにいるわたしのほうへ向かって駆けてきた。どんどん近づいてくる梔を見ていたら急に心臓がどきどきして、足元から正体不明のぞわぞわが襲ってくる。わたしは彼女を待つことができなくて、振り切るように、モップを持ち駆け出した。さっき楽しく走っていたときより全身がピリピリと緊張している。うまく足が回らない。

「まってよ!」
「やだ!」
「なんで!」
「こわい」
「こわくないよ」

 わたしはたまにこうやって、脈絡のない恐怖に全身をくわれる。誰かがこちらにやってくることがどうしても怖くなる。それから逃げる方法は今のところひとつしか編み出せていない。今みたいに全力であてもなく走り続けるのだ。
 後ろからくる梔を避けて、右へ大きく曲がった。体重をかけた右足がぎちぎちと鳴ったような気がした。内臓がねじれて気持ち悪い。

 わたしはなにから逃げているんだろう。もしくは、なにを目指しているんだろう。こうして意味もなく逃げ回るたびにわたしはわたしに自問する。
 走ることの強烈な楽しさといらだちが胸の中で混ざり合って喉から吐き出されていく。柄を握るために前へ差し出された両腕がしんどくなって、いよいよモップも捨てていく。勢いよく投げ出された柄は一瞬だけ戸惑うように宙に浮かんだあと、すっと地面へ転がった。

 カラン…、

 甲高い音が響く。梔は飽きもせず執拗にわたしを追ってくる。後ろから聞こえてくるその足音がやけに力強く、あらがえないもののように思えてくる。そして、梔が意味もなく走り回るわたしを捕らえようと左手を伸ばしてきた。
 わたしは命がけのような顔をして左肩をよじり、その指先をかわした。はっ、と、刺すような梔の息が間近に迫った。触れていないはずの左肩が熱を持っている。

 またチェイス。
 わたしを捕らえたと思っていた梔は思わず速度をゆるめてしまい、その隙にまたわたしは走って距離をとる。もうここまでくるとどうして走っていたかなんてぜんぜん思い出せない。
 怖くて怖くて仕方がないのに、なにが怖いのかはわからない。すると、後ろから諦めずに追いかけてくるわたしと似たような背格好をした子どもが途端に笑い出して、それにつられてわたしもけらけらと笑いだしてしまう。笑っているのに、なにがおかしいのかもわからない。わからないことだらけ。
 笑い声がホールの丸い天井に反響して濃い霧のように立ち込める。けらけらとした笑い声は走りつつどんどん切羽詰まっていく。そろそろ呼吸も危うくなってくる。梔はまだ遠くにいる。わからない。わたしは自分が喜んだり悲しんだりする理由がわからない。転びそうになって右手を床についた。リノリウムの床はひんやりしている。わたしは自分が生きているのかどうかもよくわからない。どこを見たってこのホールは白いから、視界が霞んでいることにも気がつかない。自分の呼吸音ばかりが耳にひっついて離れない。ぐらぐらする足の最後の力を振り絞って走り続ける。なんにも楽しくないのに、笑った顔が引っ込まない。その裏には抵抗する気も失せるような大音量の恐怖がべったりとはりついている。それは息を吐くたびに消え、息を吸うたびに顔を出す。点滅するようにわたしの目の前で渦巻いている。もう梔がどこにいるかなんてわからなくなった。肺がキリキリと音を立てている。まばたきのために一瞬だけ目を閉じると、視界が真っ白から真っ黒になって、首筋に汗が流れた。真っ黒な瞼の裏できらきらと何かが光った。その瞬間だけが永遠のように思えた。






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