この世に生きるすべての人間は、親を選んで生まれてくることができない。親の側だって、子供を選ぶことはできない。性別、人種、容姿、地位、環境、言語、なにもかも選ぶことはできない。それどころか、次に生を受けるときには、人間ですらないかもしれない。
 この世に生を受けるその瞬間から、生命というのはおしなべて理不尽の川を渡ってくる。その不公平に膝下をびしょびしょにしながらも、一生懸命歩いてやってくる。そうしてやっとの思いで生まれてきても、たどり着いた先では理不尽の雨が降っている。傘を渡されるのは一部の選ばれた命だけなのである。その雨は止まない。

 ならば、
 
 もしも、ひとつだけでも、選んで生まれてくることができるとしたらどうだろう。その権利をお金で買うことができたら。人生が商品になったなら。







 やってきたのは、黒ではなかった。
 シルバーという、にこにこしたお兄さんだった。会うのは2ヶ月ぶりくらいだろうか。黒以外とはそのくらいの頻度で一緒に仕事をしている。黒が異常なのだ。

「黒じゃなくてがっかりした?」
 シルバーは奇妙な角度で振り向いてにこっと笑った。口が動いていない。
「別に」
「そっかー。黒は片思いか。寂しいねえ」
 なんですかそれ!と大声を出したわたしをまあまあ、となだめながらシルバーは紙切れを取り出してぶつぶつ言いながら炎を出した。その炎に触れたところから、じりじりと魂は消えていく。

「じゃあそろそろ仕事するから」
「…はい」

 わたしが返事をすると、シルバーはまた嬉しそうに笑って炎を機械にセットした。一瞬するどい光が車内を貫いたあと、ふにゃふにゃした粘土のようなものがシルバーの手元に現れた。今回はどうしてそんなに気持ち悪いものが出来上がったのだろう。肌の色と血の色を混ぜたような生臭い色をしている。

「わーきもちわる。早くもってこ」

 黒が昔言っていた。あれはお客の魂を現実世界に移しとったものらしい。きれいな宝石になる人、人間とは別の生き物になる人、液体になって手元から流れ出てしまう人、今みたいな意味不明な物体になる人、色々いる。たぶんあの手の人は、様々な災難を受けて全世界に対して怒りに怒っているようなタイプだ。何年か仕事をしているとわかる。たぶん怨念が具現化するとああいう色形になるのだろう。

 シルバーが歩くと、それに引っ張られるようにしてお客も立ち上がり、歩き出す。かなり高齢に見えたが背筋はしゃんとしており、シルバーのあとをきびきびと付いていった。もちろんこの光景はわたしにしか見えていない、らしい。

 わたしはお客が座っていたところに腰を下ろす。他の人にはまだお客が座っているように見えるから、安心して座っていることができる。ここから、わたしはちょっとの間ひまだ。終点に着くまで、彼らの仕事をみてはいけないことになっている。そして、終点に着いてから、わたしの仕事がもう一度始まるのだ。わたしは目を閉じて、つかのまの人間世界に身を沈めた。そのまま、終点まで目を開かないでいよう、と思った。



 どれくらい目を瞑っていたのだろう。番号時計がまた小さな音でピィピィと鳴った。

 終点に到着する間際は皆そわそわとする。いちはやく扉を出なければならないルールなんてないけれど、どうしてか、全員が降りると分かっているからか、全員が急にもぞもぞと動き出す。
 わたしは長い間の冬眠から覚めるように、おそるおそる目を開けると、窓の向こうを眺めた。流れていくのは青い空や木々の緑や太陽の白なんかじゃなく、薄汚れたホーム。階段の付近はかろうじて人の気配を感じるけれど、それを過ぎると自販機やベンチすらもなく、ただ床だけがもてあますほどに広がっている。汚れがつきにくいライトグレーのタイル、そもそも汚れることなく敷き詰められていた。

 電車が停車すれば、いよいよ皆立ち上がってスタートの合図を待つかのようだ。カバンの取っ手をぎゅっと握って、隣の女性が立ち上がった。わたしはその迫力に気圧されてまた目を瞑ってしまった。
 ぞろぞろぞろ。本当にそんな音をたてているような気がする。扉が開ききらないうちに乗客は我先にと扉の外へ体を乗り出して、わっと溢れるように勢いづいて、動物の群れみたいにひとかたまりのままどこかへ行ってしまった。わたしは一瞬にして片づいた車内をぐるりと見回したあと、思い切りをつけて立ち上がった。靴のかかとがコン、と鳴る。まだ扉は開いている。

 わたしは左手首の番号時計に視線を落とした。待て、を示す画面いっぱいの赤がゆっくり点滅している。数秒してホームにすら人の気配がなくなったころ、その赤が緑に変わる。
 そして、ホームに続くの扉が音もなく閉じていく。
 それを合図とするかのように、乗客のいなくなった電車内をわたしは静かに進んでいく。先頭車両へ。乗客もいないのに車内の照明は煌々と光り続けている。
 ぐ、と力を入れて車両間の扉をスライドさせる。先頭の車両には老人がひとり、眠ったようにぐったりと頭をうなだれている。扉がムードなくガコン、と重たい音を立てて閉まる。
 白いバレエシューズは歩くたびに踵がこつこつリズムを立てる。車両の中ほどまできたところで、目を覚ました動物のように電車がのそりと動き出す。背後で金属の高い音がいくつか重なるように鳴って、先頭車両だけが切り離された。
 ぐんと速度を上げていく電車は、暗い暗いトンネルを迷いなく進んでいく。ほとんど揺れのない車内をわたしはまっすぐに歩いていって、老人の前で足を止めた。それを合図とするかのように、老人は頭をもたげてわたしの胸のリボンのあたりを見つめた。わたしは老人の眉間を見つめる。そうして口を開く、

「あなたは選ばれました」

 暗いトンネルにチカチカと光が現れる。等間隔に設置された赤外線センサー。それは大きな車窓をとおしてわたしたちへ向かってくる。わたしと老人はバーコードのように、赤い光線のなかを幾度も通り抜けていく。鈴の音のような儚い音が、光線を通り抜けるたびに聴こえてくる。この音を聴いたぶんだけ、わたしのなかに不思議な感情がかさなっていく。

「これから最後の地へご案内します」

 老人はうれしいようなかなしいような、くずれた笑みを浮かべた。いつだってそうだ。誰を連れて行っても、皆おなじような顔をする。それは誰もが同じ気持ちを抱いているからだろうか。彼の纏う、着古したハイゲージニットとベージュのチノパンの内側を、センサーは繰り返し繰り返し、入念に覗き込んでいる。

「さっきまで気味の悪い黒い男が居たんだ。あいつとしばらく一緒かと思って気が滅入っていたんだがな。こんどは天使さんかい」
「はい、施術室の前までご一緒します」

 施術室…、と、その男は面白そうに小さく笑った。男の左隣に、すこし間隔をあけて座ると、おもむろに男が話し始めた。

「しかし、急に手紙が届いたときはびっくりしたよ。ほとんど宝くじみたいな確率でしか選ばれないと聞いていたから。俺が説明を聞いた事務所ももう跡形もなく消えていたし、夢だったのかと思っていた矢先だった」
「事務所?」
「そう。天使さんは知らないのかな」
「知りません。わたしは、外の世界のことは、なにも」
「そうか」

 電車は速度を落とすこともあげることもなく、決まったスピードでわたしたちを運んでいる。

「じゃあ、『第三の世界』のことも、なにも知らないのかね」
「そのことは知っています。勉強しましたから」
「そうかい。俺は、その『第三の世界』に招待される権利を得て、ある事務所に説明を受けに行ったんだ」

 男は続けた。

「一生では成し遂げられないことをしている人間っていうのがこの世にはたくさんいるんだ。彼らは、そういう人たちが次の人生を「今の人生の続き」として過ごせるシステムをつくったらしい。それを支えているのが『第三の世界』なんだよ。『第三の世界』がなければ今の人生を次の人生をつなげることができない。なんせ、一旦意識まで死んでしまったら、次の人生を選ぶことができないからね」

 東の施設にきたのは、わたしがまだ物心つくかつかないかのときだった。
 それでもなんとなく覚えている。『第三の世界』は、来世を選ぶために待機する、この世でもあの世でもない「まんなか」なのだと。体が死んでしまったあと、こころだけを『第三の世界』に避難させておいて、神様がつくる「新しい人生」から、自分にぴったりのもの探し、その体にこころをもぐりこませるのだそうだ。わたしはそもそも体が死んでもこころが死なないとか、体にこころをもぐりこませるとか、そういう話がまるで理解できないのだけれど、どうやらこの男にはその仕組みが理解できているようだった。

「俺は法律を運用するAIの研究をしていたんだ。外の世界には法律っていうのがあるんだが…、知ってるかい」
「なんとなくは」
「法律っていうのは、人間が作って人間が使うものなんだがな、やっぱりそれだとどうしても上手くいかないときがあるんだよ。というか、だいたい上手くいかない」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。個人的な感情とか、倫理観とか…、って、言われてもわからないか」
「うーん」
「まあ、そうだな、とにかく難しいんだ。それで嫌な思いをする人がたくさんいる。俺自身もそうだ」
「おじいさんも?」
「そう。法律に息子を殺されたんだ。だから、もうそんなことが二度と起きないように、人間じゃなくて、機械が、こころのないものが、法律をつくって使っていけばいいと思ったんだ」

 へえ、という、なんの感慨もない返事しかできないけれど、それでも男は満足そうだった。それは、次の人生でも今の人生の続きを描けるという希望が見えたからなのだろうか。

 魂があんなに気持ちの悪い物体だったにしては、男はとてもまともな人間に見えた。あの変な物体ができあがる人間というのはたいてい、この男とは違う目的で『第三の世界』を利用しようとしていた。この男は今の人生にある意味使命を持って、その人生を続けたいという気持ちからここへ来ているけれど、この前のお客は違った。
 この前、お迎えに上がった男は、まだ若く見えた。ただとてもイライラとしていて、わたしにもほとんど口をきかなかった。ただ一言、「来世は勝ち組で幸せに生きてやる」と両手をぎりぎりと組みながら呟いていた。そう、今の人生に何の意味も持てない人間もまた、『第三の世界』に招待される権利を持っていた。

 あの男のようなタイプのお客は、つい半年くらい前から現れ始めた。今まではずっと、なにか成し遂げなければならないことを成し遂げるために、来世まで人生を引き伸ばしたい人だけがお客としてやってきていたけれど、最近はそういう、今の人生をなかったことにして、来世でなにもかも手に入れたいと思っている人がお客の半分を占めるようになってきていた。

 黒の言葉が蘇る。

「あいつらはそろそろビジネスが波に乗り始めたから、全国に拠点をつくりはじめたらしい。100人いる天使が10分割されてますます働かされるようになる」

 もし黒の言葉が真実だとすれば、ビジネスが波に乗るというのはつまりお客の目的には目をつぶって門戸を広げるということなのかもしれない。たしかに、今の人生では足りないほどの大きなことを成し遂げようとしている人なんて、そう多くいるものではない。お客を増やしたいと思えば、安易な理由にもうなづいてやるしかない。

「でもやっぱりここまでくると恐ろしいな。指定された電車に乗っていたはずなのに、気が付いたら目の前に死神がいて、さらには天使までやってくる。ほんとうに来世まであの研究ができるのかな、俺は」

 わたしは返事をしない。
 いつの間にかセンサーの赤は消えていて、ただただ黒いトンネルの中を電車は進んでいく。遠くに白いホームが見える。わたしはそのことに少しほっとして、番号時計が動きを指示するよりも前に立ち上がり、窓に張り付いてその終着点を、消えてしまわないようにと見張るように、じっと見つめていた。
 暗いトンネルの中は嫌いだ。まるで大海にお客とふたり、ぽつんと取り残されたような気分になるから。







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