喝采




「あのときからなんにも変わってないよ、俺たち」
 白くて繊細な手首がこくりと曲がって、ちいさな角砂糖を手に取った。湯気のたつカップに落とせばふわりと溶ける。その縁にすべるように施された金の模様が、窓から差し込む光を気まぐれに受け止めてきらきらと光っている。
「変わってないってことはさ、現状維持が心地良いってことじゃん」
 どんなに雑にスプーンを回しても、上品な音しか鳴らない。大量に落とされた角砂糖をカップの中でぐるぐるともてあそびながら、ベルは笑った。「別にそれで良いと思うけどね、俺は」
 よくない、って言ってほしいのか。
 無意識に顔をしかめていたのか、ベルが「お前のブスな顔もっとブスになんよ」と眉間を人差し指でぐいと押す。反論する隙も与えぬまま立ち上がった、その姿を見上げると視線の先には今日のターゲット。後頭部にも目がついているのか、それとも、そもそも正面にすら目なんてついてないんじゃないのか。するりと歩き出すベルに遅れまいと、私も飲みかけの紅茶を置いてソファから立ち上がった。

 本日は快晴。
 あの日も快晴だったか、と早足でベルの後を追いながら思い出す。救護隊である私が、突然幹部であるベルに名指しで呼び出されたあの日。何か粗相をして殺される隊員は数知れず、なのは今も昔も変わっていないから、今日が命日だったのか、と突然宣告された人生最後の日を噛み締めながら、深い朱色のカーペットが敷かれた階段を一段一段、ゆっくりと登ったあの日。背中に降り注ぐ混じり気のない太陽光がやわらかくてあたたかくて、つい泣いてしまいそうになった。あの日もとてもいい天気だった。
「お前さ、この国出身ってマジ?」
 国旗と首都の写真が表紙に挟まれた、分厚いクリアファイル。片手でこちらに投げてよこされたそれはずっしりと重たくて、一瞬何を聞かれているのかわからなかった。殺されるんじゃなかったのか。
「え?」
「違うのかよ。あーもー今の聞かなかったことにして。じゃなきゃ今ここで殺すから」
「あ、え、この国ですか?」
「何度も言わせんなよ。王子怒らせたいの?」
「いや、あの、私、この国出身です、合ってます」
 きっとあと一言多かったら、私の喉元にはあの流線型の美しいナイフが差し込まれていたんだろう。大きくため息をついたベルは、「そんなんで大丈夫かよ」とぶつぶつ言いながら私の隊服の襟にひとつ、見たことのないデザインのピンバッチを取り付けた。
 言葉はおろか呼吸すら危うくなる私の顔を見て一言、
「今から私用任務隊の隊員1号だから、お前」
 私用任務隊、初めて聞く言葉だったけれどそれもそのはず、私用任務は幹部以上の人間しか知らない特殊任務だった。しかも私用任務隊を編成しているのはベル以外だとスクアーロ隊長だけで、その任務隊だってスクアーロ隊長を含めて3人だそうだ。メンバーも救護隊である私とは全く格の違う役職についているお偉いさんたちで、どおりでこのピンバッチ、見たことないはずだ、と一人で納得した。
 ともかくその日からベルの「私用任務隊」隊員となった私は、救護隊の普段の仕事に加え、月に何回かベルのあとをついて某国へ赴くことになった。
 初めて私用任務に呼ばれた日、いつも通りというべきか、突然ジェット機に乗せられ、これからお前の故郷いくから、と告げられた。このとき私は、なぜベルが私の故郷である某国へ行かねばならないのか、いったい何をしに行くのか、何も知らされていなかったし、知らないまま半年間、ただ連れまわされていた。某国は観光客の出入りが厳しく制限されている国で、外国人が単独で出歩いているだけでとても目立ってしまうような環境にある。その対策に私が装備されていることはなんとなくわかったが、それ以上のことは何もわからなかったし、教えてもくれなかった。



「よし」
 ベルが静かにタイミングを図って飛び出していく。ベルが走り出すときにたてる僅かな足音は、おそらく高揚感からきているのだろう。私用任務ならなおさら。この任務の目的が、あの人の背中を追いかけるためならば、なおさら。
 私は息を止めてベルの帰りを待つ。小さな砂粒ほどにまで気配を小さく消して。どうか今日こそはうまくいきますように。ベルの願いが叶いますように。ただそれと同時に、ずっと叶わないでいて欲しいとも思う。
 ベルは自分の姉を探している。
 姉、といってもベルとは血が繋がっていない。王宮にいた召使いの一人で、たまたまベルが気に入って王族の養子になった人だった。ベルがジルを殺して国を出たあの日から、ベルの国は砂の城が波にさらわれて崩れていくように、あっさりとその姿を失ったが、王族の一部は各国へ亡命してその命を続けているという。その一人がベルの姉であった。
「俺には姉さんがいてさ、昔の話だけど」
 私用任務が始まって半年が経った頃、某国からの帰りのジェット機のなかでベルはそう切り出した。私はベルの斜め向かいに座ってやたら小さいケーキをフォークでつつきながら、聞いたことのない事実に耳を疑った。ベルには双子の兄がいると聞いていただけだったから。
「姉?兄ではなくてですか?」
「ちげーよ。ジルじゃなくて。俺が無理やり養子にして姉ってことにしてるだけなんだけど」
 ベルは続けた。
 自分が頼んで王族の養子にしただけあって、ベルはその姉のことをとても気に入っていたという。ヴァリアーに入った後も姉のその後だけは気にかけていて、海外任務のときはその都度街中を無意味に歩き回ったりして姉の姿を探していた。ヴァリアーに国家関係の任務を頼むような国はたいてい情勢が悪くて、国外逃亡する王族や官僚はそういった国に亡命を頼むという。そういう国しか亡命を受け入れてくれない、といったほうが正しいか。
 そしてベルが19歳のとき、ある東洋の国の繁華街で、ついに姉の姿を見たという。その繁華街のなかでひときわ美しく歩く、後ろ姿を見たという。どんなに格好を変えても、王族はその所作までぬぐい去ることはできない。それを同じ王族の目から見たとすれば、その際立ち方は明確なものだっただろう。姉だと気づいた瞬間、ベルはその道を回り込んで、姉を正面から見ようとした。休日、日がくれた繁華街。ざわざわとせわしない人の群れのなかで、ベルはようやく姉とすれちがった。
「姉さん、俺のこと一瞬だけ見て、笑ったんだ」
 そう語ったベルの横顔を見た瞬間、私の中のほのかな疑問は、鮮やかなまでにはっきりと確信に変わった。胸の中心を細く鋭い光が駆け抜けるように、美しくて暖かくてそれでいて、きりきりと切ない。ただしんとした心のなかで確信した。ベルは姉に恋をしている。そして、私はそんなベルのことを、好きになってしまったのだと。
 ベルが姉のことを、どういう意味で好きか、ということは、私も聞かなかったし、ベルも言わなかった。だからベルがどれだけ自覚しているのかはわからないけれど、ベルは確実に、恋に突き動かされていた。そして今も変わらず、恋に突き動かされ続けている。
 私がベルの恋心を知り、そして自らの恋心を自覚したあのときから、もう7年の時が経っていた。ちんちくりんだった私もそれ相応に大人になって、ベルも少年のような危うさを感じさせなくなっていた。だけど、姉の捜索はまったく上手くいっていなかった。人ひとり探すだけなのに、なぜこうも毎回雲をつかむように歯がゆい成果しか得られないのか。初めの頃はいつも帰りのジェットで私を殺しかけるほど怒り心頭だったベルも、時が経つにつれてそんな状況に慣れて、行きも帰りも変わらず大人しくソファに体を沈めるようになった。
「今日のやつも胸ポケットにいっこよくわかんない鍵もってただけ。あとは帰ってタブレットの解析するけどさ、どーだか」
「でも次期幹部だったんでしょ、あの人?裏でお金積ませて亡命斡旋してたって証拠もあったじゃない」
「国の機密に関わってるとは思うんだけどさあ、たぶんあいつには関係ないんだろーな」
 なんかそんな気がする、そう言ってそっぽを向いたベルを見つめていてもどうにもならない。今日はかなり有力な線だったのに。帰りのジェットの沈黙にはもう慣れたけど、今日はひときわ沈黙が耳に痛い。任務の前にあんなこと言われたからだろうか。

 あのときからなんにも変わってないよ、俺たち。
 変わってないってことはさ、現状維持が心地良いってことじゃん。
 別にそれで良いと思うけどね、俺は。

 ベルもどこかでわかっているということだろうか。ベル個人の能力が足りないのではなく、明確に姉から拒絶されているということを。わかっていないはずがないのだ。ここまでしてほとんど姉への道が開けないということは、私たちは向こう側から逆に、狙われているとしか考えられない。
 あえて有力な情報を持っていそうな囮をベルに狙わせ、泳がせている。おそらくここ7年間、ずっとそうやって私たちはイタリアと某国をいったりきたりさせられている。ベルもわかっていて、泳がされている。姉を諦めたくない一方で、囮の先にある本当の情報を掴み、その向こう側で、姉からの明確な拒否を受けたくもない。だって恋をしているから。ベルはただ、姉のことを想っていたいだけなのだ。
 私はあのとき、「そんなことない」と言わなかった。言えるはずがなかった。そんな私も、現状維持が心地いいと思っているのだろうか。報われない恋を、ただずるずると引き延ばして、読み終わった雑誌をとりとめもなくめくるように、紙の端がめくれ上がって古びてもなおめくるのをやめられないような、苛立ちをも含んだ過去の景色を反復するだけの生き方が、そんなに心地いいのだろうか、私は。



 ただ、その目的を失った飛行の終着点は、突然向こうからやってきた。
「死んだって…偽の情報でないのは確かなんでしょうか」
「ああ、お前の故郷の首相からボンゴレへ正式文書が送られてきた。ベルには伝えるなという条件付きでな」
 投げるようにこちらへよこされた、一通の真っ白な封筒。その封筒を手にとるだけで身体中が震えた。ベルには伝えるなという条件は、彼女の死が真実であることをことさら強く証明している。
 死んだなんて、そんなこと許されるはずがないのに。ベルが今までどんな思いであなたを探し回っていたのか。そう思うと同時に、彼女が死んだということは、私用任務隊の仕事ももうなくなるのだろうか、ベルとジェットに乗ることはもう今後一切ありえない話になってしまうのだろうか、あの静かな後ろ姿を祈るように見つめることはできなくなってしまうのか、なんて、自分のことばかり考えて憂鬱になる。そしてゆっくりと封筒の中身を開きながら、この7年という時間がどれだけ徒労なもので、情けなくて、歯がゆく、非生産的で、そして、それでもなおひたむきであったのかということを、想い重ねた。何度もベルの横顔がちらついて、わたしの、ベルを想う、そしてベルの想い人を想う、静かな祈りを秘めたちいさな呼吸音が、ありえないほど遠く昔のことのように、急速に遠ざかっていくのを感じた。冷えた指先で薄く折られた紙を開く。どうか嘘であってほしい、もうどうしようもないんだ。



「今日は普通の任務のついでに適当に街歩くだけだから」
 ベルに伝えてはいけないのだから、当たり前だった。私用任務隊はもちろん解散せず、ただひとりの私用任務隊員であるわたしは、真実の手紙を受け取ってもなお、ベルについて某国へと飛んだ。行きのジェット機がいつもと比較にならないくらい憂鬱で、態度だけ見たら確実にベルにばれている。ただボスが手を回してくれていたのか、私は病み上がりということになっていて、足元がおぼつかないことも、いつもに増して下ばかり向いていることも、ベルを正面から見ることができないことも、何度も泣きそうな顔をすることも、すべて病気のせいにできた。任務概要の書類をだるそうにめくるベルはたいしてこちらを気にしていないし、少なくとも今日だけは乗り切れそうだ。
 人を三人殺しに郊外の邸宅へ。昔は移動のあいだ二人でずっとゲームをして暇をつぶしていたけれど、いつからか、飽きてしまってぽつぽつと話をするだけになってしまった。ベルは何年か前から疲れて眠ることが多くなったし、私も救護隊の仕事が増えて、移動中も仕事を片付けたりとせわしなかった。
「なあ、この街、前にも来たことあったよな」
 ベルがだらりと背もたれに寄りかかりながら呟いた。乗っている高級車からエンジン音はほとんど聞こえないけれど、道が舗装されていないせいで車内はがたがたとうるさい。さっきまで眠っていたせいか、ベルの声はまるで寝言かのようにぽわぽわと地に足つかない。私もベルの後ろの席で同じように姿勢を崩して窓の外を見やる。曇天の薄暗い景色は、たしかにずっと前、私用任務で郊外へ行ったときに見た景色と同じだった。舗装されていないせいでおちつかない車内のこともどうしてだかはっきりと思い出した。
「あー」
 前の座席の右脇、窓と座席のあいだの、かなり下の方からベルの金髪がちらりと見えた。どれだけ姿勢を崩せばあんなところに頭がくるのだろうか。車は揺れながらまっすぐに進んでいく。
「懐かしいね、この景色」
「なんもかわってない」
「たしかに」
「あんとき何しに来てたんだっけ」
「ベルの国出身の政治家の別荘に行ったのよ、確か」
「あーあのハゲ散らかしたおっさん」
「あの家燃やしてきたけど、いまはどうなってるんだか」
「案外あのままかもな」
「燃え尽きたままってこと?」
「そー」

 燃え尽きたままか。

 車は鬱蒼とした林を通り過ぎ、海の見える静かな別荘エリアへと向かっていた。人の気配はほとんどなく、海のたゆたう厳かな音だけがそこらじゅうに広がっていた。エリアの入り口付近で車は止まり、いつのまにかコートを羽織ったベルはぼさぼさの髪をいじりながら車の扉に手をかけていた。扉を開けば冬の空。
 ぴりりと冷えた空気が車内にすこしだけ入ったあと、バタンと大きな音がして扉がしまる。任務に出かけるベルの後ろ姿があっという間に見えなくなると、運転手は何も言わず車をUターンさせていく。私も何も言わずに目を閉じた。


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