「来ていただいて、本当に…」
 初老の執事のような風貌の男性は、そこから言葉を詰まらせた。私も次に発する言葉を何も思いつけなくて、二人はしばし黙ったまま足元の雑草の花が揺れるのを見つめていた。
 ボスから受け取った手紙の送り主はおそらく目の前の男性で、ベルの姉の身辺の世話をしていたらしい。ベルのこともよく知っていて、だからこそベルには伝えないできてほしいとこの場所を指定された。日時は幸か不幸かベルの仕事と被っていて、もしかしたらあえてそう仕向けてきたのかもしれない。ここはベルに知られてはいけない場所なのだから。

「いきましょうか」
 静かに踵を返すと、男性はゆっくりと歩き出した。その背中を同じ歩幅で追いかける。
 さっきまでいた別荘エリアとは裏腹に、この天気の中でも明るさを保った花畑。そのなかに彼女の墓がぽつんとたっていた。こんな景色を目の当たりにしても、現実感がもてない。数十キロ先で人を殺すために息をあげているベルのことをぼんやりと思い浮かべる。腕いっぱいに抱えた花束が小綺麗に揺れて、私の頬を撫でつけた。
「どうして」私は小さく、でもはっきりと口に出した。「どうして、私にこんなこと伝えたんですか」
 声が震える。
 男性は墓に近寄り、すでに供えてあった花をまだ綺麗なものと枯れてしまったものとに分けて、枯れてしまったものを脇によけた。かがんだまま空を見上げている。太陽は見えない。
「ベル様は大人になりすぎた」
「ベル様は年齢相応の感情に蓋をして、大人に振る舞いすぎたのです。あのお方へ恋心をお持ちになっていることは、あのお方自身もわかっておりましたが、その気持ちが報われてしまっては、ベル様は背伸びをした子供のまま、一生ほんとうの大人になることができない」
「そんなの、ベルが望んだことじゃないです」
「わかっています。ベル様は安心したかったのでしょう。あのお方の側にいるときだけ、ベル様はふつうの子供のように振る舞うことができていました。けれど、ベル様は一国を滅ぼした。ベル様の答えはそれだったのです。わずかな幸福に甘んじるのではなく、嵐のなかであろうとも自分の思うがままに生きていたいという答えが、一国を滅ぼしたということなのです」
 体の内側からつめたいものがこみあげてくる。全てはベルのためだなんてとんでもないエゴだ。嵐のなかであろうとも自分の思うがままに生きていたいと思ったから、ベルはヴァリアーに入ってもなお姉のことを探し続けていたのに。いや、でも、ベルが甘んじて泳がされ続けていたのはまぎれもない事実だった。そこがベルの終着地だったのだろうか。ベルも自分の脆さに、そしてその脆さの根っこに姉の存在があったということに、気がつきながらも走っていたということなのだろうか。
「お許しくださいとは申しません」
「ベルは絶対に許さないと思います」
「はい」
「あの世の果てへだってきっと追いかける、ベルはそういう人です」
「はい」
「…」
「でもどこかでベル様も、自分の幼さを持て余していたように見受けられます」
「…そうですね」
 私はベルの姉のことを知らない。
 どれくらいの背丈なのか、どんな髪の色をしているのか、目は二重なのか一重なのか、どんな色の服が好きなのか、声はどんな色をしているか。
 だけど確実に、私はベルとベルの姉の、二人の向こう側にあった景色を見ていた。誰よりも心を込めて二人のことを祈っていた。ベルよりもベルのことを考えていた。確かにそうだった、ベルは自分の幼さを楽しんでいる顔をしながら、いつもその「他人のような自分」に手を焼いていた。静かに目を閉じると、瞼の裏側に様々な景色が流れ込んでくる。姉の話をするときの横顔、ターゲットを狙うときの肩のこわばり、息を潜めて駆け出すときのちいさな足音。
 その幼なさが、ベルと姉とをつなぐ唯一の記憶だったんだ。
 姉がターゲットへと書いたのだろう手紙を手に取りかけて、そのまま払いのけたときの指先。ほんとは読みたくて仕方なかったんでしょう、ベル。だけどベルがベルにそうさせなかった。机を滑った手紙は失速してベットサイドへと落ちていく、私は見ないふりをしたけれど、右目から勝手に涙が溢れていた。
「ここのこと、絶対ベルには言いません」
「はい」
「…でもいつか、ベルは自分でここを探し出しますよ」
「承知しております」
 花束を男性に預けて、花畑を後にする。車に乗り込んで腕時計を見ると、あと30分で任務がおわるところだった。車が走り出す、私は座席にぐったりと倒れ込んで、重く垂れこめた空をぼんやりと眺めていた。

 来た道と同じ道を通って車は飛行場へ向かう。行きとおなじようにベルはだらりと座ってうとうと眠っていた。飛行場まで戻ったら着替えて繁華街を回る予定だから、今日はまだまだ長い。ほのかに火薬の焦げた匂いと乾いた血の匂いがただよう車内で、私は空振りするとわかっていながらフルスイングしなければならないやるせなさを、だらだらと心の中で転がしていた。さっき思い出された、手紙を払うベルの仕草が脳裏から離れてくれない。一瞬見てすぐに目を逸らしたのに、あの指先の強烈な哀しみが胸をまっすぐに打ち抜いて、私の理性とは別の場所が勝手に私の目に涙を流させていた。急いで涙を拭ってベルのあとを追ったけど、あのときベルは私の涙に気がついていたのだろうか。

「おら行くぞ。ボケっとしてんなよ」
 血だらけの隊服を着替えて中心街へ。夕暮れから夜へ差し掛かるこの時刻は、様々な年齢の人々が中心街へと集まる。そんな人くさいアーケードのなか、ベルは悠々と歩いていく。まるでそこには自分しかいないかのように、ぶつかりそうになる人を器用によけながら、海を泳ぐ魚のような優雅さで進んでいく。私は、ベルのおかげでモーセのように左右に割れた人混みのうしろを、金魚の糞のように無我夢中でついていく。ベルの背中はいつだって大きい、それは7年前からずっと変わらない。
 逆光で暗く影のさすベルの背中を追いかけていく。
「」
 ベルが前を向いたまま何かを言った。母国語がわやわやと騒がしい中で、ベルは一体何語を喋ったのだろう、少なくとも私には馴染みのない言葉だった。え?と聞き返すと、ベルがこちらを振り返る。さっきから変わらず逆光のまま、ベルの表情はいまいち読み取れない。
「俺の国の国歌のタイトル、『喝采』」
 また歩き出したベルは歌を口ずさみ始めた。ところどころ分かるようで分からない、不思議な言葉で。ベルの国の公用語は確かトルコ語と英語だったはず。でもそれらとも違う、奇妙な言葉。
 人の海を抜けると大きな塔が遠くに見えた。この小さな国の中心に立つ、鐘の塔。周りには急に建物がなくなって、塔だけがぽつりと建っている。ベルはポケットに手を突っ込んだまま上機嫌にそちらへ向かっていく。右手からアーケードの光が差して、金髪がふわりと揺れる。さらさらと光る。私はその背中を追い続ける。
 アーケードの逆方向、左手には静まり返った公園と教会があり、ちいさな明かりが遠くの方でほんのり光を放っていた。風が冷たい。
「何語だと思う」
 ベルが体ごとこちらへ振り返って、後ろ歩きをしながら私に問うた。
「えっ…、トルコ語、に、似てるけど」
「そー。似てるけど違う」
 お前が知ってるわけないんだけどね、いらずらっぽく笑いながら、また前を向いてしまう。
 なんの前触れもなく、ああ私はベルが好きだ、と思う。
「今俺らが探してる俺の姉さん。消滅危機言語を守ってる一族だったんだってさ」
 ああまた姉の話。いつもはベルのことのように真剣に聞いていたけど、今は胸の奥に嫌な色の水が溜まっていく。こんな思いを抱き続けながら、私はこれからもベルと不毛な宝探しを続けるのだろうか。そんなみじめなことをベルにさせ続けるのか。冷えた指先の感覚がなくなっていく。
「あいつはもともと、俺の国の隣に住んでたんだ。消滅危機言語が何十と話されてる国でさ。それぞれ自分の民族の言葉と文化にプライドがありすぎて、政治がまとまんなくなっちゃって、内紛が起きて、沢山の人が死んだらしい。バカだよな」
 ベルから、こんなに感情のこもった、死んだ、という言葉を聞いたのは、これが初めてだった。
 塔にもだいぶ近づいてきた。ベルが口を開くたびに、ふわりふわりと白い息が空へ昇ってゆく。
「それで、あいつは俺の国に来た。一族はあいつ以外全員死んだって、そんとき言ってたよ」
「…そう」
「だからその言葉はあいつしか喋れない」
「うん」
「あいつはいっつも国歌をへんな言葉で歌ってたんだ。俺がばかにしたら、『私しか知らない珍しい言葉なんだよ』って言って、歌詞だけ教えて貰った。それがさっきの『喝采』」
 喝采、と動いた口から白い息が漏れる。急に立ち止まったベルに数歩遅れて追いつくと、20センチ以上背の高いその男は私の背丈まで屈んで耳元でこう呟いた。右耳に吐息がかかる。

「もうその言葉なくなっちゃったみたいだけど」

 反射的にベルの方を向くと、ベルの頬には涙が伝っていた。それを認識するほんのコンマ数秒前にベルはまた前を向いてだらだらと歩き出す。様々な感情が一瞬にして全身を駆け巡った。私は立ち止まったまま、歩き出すことができない。ベルはゆっくりと、でも確実に、遠ざかっていく。

 この7年は、ほんとうに、ただの、ただの無駄な悪あがきだったっていうのか。
 私はベルに何もしてあげられなかったっていうのか。

 急に様々な後悔が津波のように押し寄せて、それに飲まれると同時に私の両目からぼろぼろと涙があふれ出した。あのとき、わたしの理性とは別の何かがわたしの右目に涙を流させたけれど、そのときの気持ちを遥かに超えて、わたしは心がひっくり返ってしまうほど強く、ベルのことを想った。悲しい、なんてやわな言葉では言い表せないくらい、情けなく、力なく、何にも及ばない、果てしない無力感が全身を包んで真空パックのように皮膚にへばりつき、呼吸もできないほど窮屈な気持ちにさせた。救いたい、そう思うと同時に、救われたいと思った。

「ベル」
 たまらなくなって叫んだ。

 ベルは遠く遠くの方で静かに立ち止まり、空を仰いだ。いつのまにか雲は切れぎれになって、その隙間から月が顔を覗かせていた。大好きなベルを救えなかった、その後悔だけが空を覆って際限なく光る。静かに、執拗に、わたしの心臓をなぶる。

「わたしはベルが好きだ」

 ベルは空を仰いだまま動かない。

「どんなにあの人のことが好きだろうがわたしはベルが好きだ」

 あたたかい涙が頬を伝い顎の先からぽたぽたと落ちていく。
 しばらくして一度、強い風が通り過ぎた後、ベルは空を仰ぐのをやめてこちらへ戻ってきた。涙を袖で拭い続ける私の額を勢いよく小突く。ベルだって泣いていた。
「バカ言ってんじゃねーよ」
 その時私は、心のまんなかの一番あたたかな場所がまた息を吹き返したことに気がついた。そして思った。
 ベルは、ベルは、あの時より、私がベルに恋をしたあの時より、ずっとずっと、かっこよくなった。かっこよくなってまぶしくなった。
 あのときからなんにも変わってない、って、私だってそう思ってた。でも振り返れば、私たちは年をとって、膨大な何かを見聞きして、たくさんの人とすれ違い、些細なことで落ち込んだり、懲りずに何度も同じような思いを抱いたりしてきた。してきたはずだ。それはベルだって同じだ。

「勝手に一人だけ墓参り行ってんじゃねーよ」
「…」
「王子が何にも気づかないと思ってたわけ?7年も一緒に働いてきてそんなことも分かんないのかよ」
「…ベル」
「…あんだよ」
「ごめん」
「…別に怒っちゃいねーし」
「でもごめん」
「…別に、」
 言いかけて、ベルは勢いよく頭をふるふると振った。
「あーーーー!!ほんと調子狂う。最悪」
 そう言って、私の正面に向き直った。
 私は真っ赤な泣き顔のまま、ベルをまっすぐ見つめ返す。
 遠くから赤ちゃんの泣き声が聞こえる。それ以外はとても静かな夜だ。
「もうじき死ぬんだろうって、もう分かってたんだ」
 前髪の毛先が涙でわずかに濡れて、束になっている。声が震えている。
「あいつの一族の言語が消滅するのは時間の問題だったんだよ。内紛なんか起きなくたって」
「………どういうこと」
「寿命が短いんだ、たぶん親族同士で血縁をつないだせいで血が濃いんだよ」
「…だから、」
「だからあいつも30くらいまでしか生きられないって言ってたんだ。それまでに」
 私は震えるベルの腕を掴む。こんなに細かったっけ、なんて、思う。
「それまでに幸せにしてやりたかったんだ」
 泣きたくなったけど、きっとこれはベルの分まで泣いてしまうことになる。そう思った私は涙をこらえてベルを見上げた。あの方への気持ちが報われてしまっては、ベル様は背伸びをした子供のまま、一生ほんとうの大人になることができない。数時間前に聞いた執事の声が頭の中でやわらかく反響する。ベルは救われないけれど、それと同時に救われているんだ、きっと。私は口を開く。
「現状維持が心地いいなんて、そんなわけない。そんなの嘘だ」
「嘘だよ、悪いかよ」
「悪いよ」
「んだよいっちょまえに口利きやがって」
「同い年だもん」
 しらねーし、と言いながらベルは薄く笑った。つられて笑うと、また額を小突かれた。いつものベルだ、と、私は嬉しくなってまた笑う。いつもの通りに。
 ゆっくりとつかんでいた腕を離すと、ベルは私の右手をとって歩き始めた。ベルの隣を歩いたのはこれが初めてだった。塔のすぐ目の前まで来ると、その塔は思ったより高くて大きく見えた。

「あいつの故郷が見えるんだ、ここから」
 私は黙ったまま右隣のベルを見つめた。
「これで終わりにしたい」

 小さくうなづくと、厳かな速度でベルは歩を進める。その腕に引かれて私も右足を踏み出した。ところどころ採光窓のある、螺旋階段を上っていく。静かに、静かに、しっかりと地を踏んで、上っていく。つないだ手があたたかい。ここからは何も聞こえない。私は、ベルと一緒にこの長い螺旋階段を上っていく。代わり映えのない7年間を守るように、捨て去るように、書き残すように、火を放つように、一段一段上っていく。
 喝采、この王子にどうか世界一の喝采を。




2015/12/24
h.niwasaki

image BGM:FREE AS A BIRD / The Beatles