1.
「まゆってひょっとして、私のことが好きなのかな?」
低く声を潜めた私の声は、虚空に漂って静止した。
後に残ったのは沈黙だった。テーブルを挟んだ向かい側、対面に座るちひろちゃんが笑顔のまま硬直している。
事務所の給湯室の横の休憩スペース、パーテーションで区切られた小さな空間にいるのは私達二人だけで、時折同僚達の雑談が遠くから響く以外は静かなものだ。テーブルの上には私と彼女のマグカップ。ほかにはアイドルの誰かが持ち込んだのだろう、お菓子やぬいぐるみなんかがちょこちょこと置かれている。椅子の座り心地は悪くない。軽くて丈夫なので気に入っている。
そんなことをつらつら思っていると、たっぷりと固まっていたちひろちゃんがゆっくりと吐息した。おそるおそる、といった調子でぎこちなく笑う。
「……今更ですか……?」
「今更って……まさかちひろちゃん、まゆの気持ちに気付いてたの!?」
ちひろちゃんは手のひらを重ね合わせたいつものポーズで微笑んでいる。しかしいつもと違うのは、明らかに呆れているということ。
「……あれだけアプローチされていて気付かないのもどうかと思いますよ? 鈍感ですか?」
「し、失礼な!?」
千川ちひろちゃんは結構物事をはっきり言う性格である。おさげ髪でニコニコ笑っている姿からは想像できないけれども。年齢は知らないけれど、たぶん私とそんなに変わらない。蛍光グリーンのベストにタイトスカート、ストッキングといういつもの出で立ち。天下無敵の事務員さんである。
だが、このまま言われ放題になるわけにはいかない。両拳をテーブルに置いて力説する。
「しょうがないでしょう!? 女の子に好かれるなんて思ってなかったんだもの!!」
そう。こればっかりはしょうがないじゃないか。私は女性。まゆも女性。昨今ではその手の人は珍しくもなくなったし、偏見は無いつもりだった。だがしかし、まさか自分が渦中に巻き込まれるとは想定していなかったのだ。
などと頭を抱えていると、ちひろちゃんがハッとして休憩室の出入り口を見遣った。つられてそちらを向くと、パーテーションの隙間から覗く女の手が見えた。桜貝のような指先の、ほっそりした色白の手。
「うふ……そこにいたんですね、プロデューサーさん」
ゆっくりと小柄な少女が現れる。両手に巻き付けられた赤いリボン。ロリータ風衣装はピンク。それほど長くない髪。底知れない感情を湛えた瞳。
佐久間まゆが、そこにいた。
「ちひろさんとの話、楽しいですかぁ?」
蜜のように蕩ける甘い声。なのに、なぜだろう。舌を刺すような毒を感じるのは。
「まゆ、今お仕事の話を……」
「あら、まゆちゃん。今ちょうどまゆちゃんのお話をしていたんですよ」
思わず腰を浮かしかける私に対し、ちひろちゃんは落ち着き払っていた。自分のマグカップを持ち、さっと席を立つ。
「あとはお二人でごゆっくりどうぞ♪」
「じゃあ……お言葉に甘えちゃいますね」
まゆはすっかり機嫌を直したようで、頬を上気させてもじもじしている。
私はこっそりと胸を撫で下ろした。まゆは私が他の人と話をしていると途端に昏い眼差しになる。それで何かをしでかすわけではないのだが、物凄く怖い。ただひたすらに怖い。せっかくなら笑った顔が見たい。
「……では、頑張ってくださいね」
ちひろちゃんがすれ違いざま、こちらに聞こえるか聞こえないかくらいの音量で囁く。ウインクをすることも忘れない。
「あ、ありがと……」
こちらも囁きで返すしかないが、胸中では平身低頭する勢いだ。明日ランチを奢ってあげよう。
そもそもなんでこんなに修羅場慣れしているの、ちひろちゃん。
「まゆの話をしていたんですよね? うふ。なんだか照れちゃいます……」
「そ、そうそう! まゆ、最近ダンスのキレがよくなってきたなあ、とか! バレンタインの記事が決まってよかったなあ、とか! そんな話をね、してたの。ファンも増えてきて、順調だなーよかったなーって」
話を誤魔化す意図はあったが、どれも本音なのは間違いない。
それに気付いたのかどうなのか、まゆはうっとりと微笑んだ。
「プロデューサーさんにプロデュースしてもらって、まゆ、とーっても人気が出たと思うんです。つまりまゆにとって貴女は大切なパートナーですよ。貴女にとってのまゆも大切な存在ですよね? ……ねぇ?」
その眼差しが、表情が、声が――あまくて、おもい。
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