融月 イゾウ


珍しく、ということもない。偉大なる航路だって晴れることはあるし、夜に明かりがないのは標準装備だ。寧ろ夜中に明るかったら何かしらの異常事態じゃなかろうか。都下繁華街じゃあるまいし。

だから、珍しいことでも何でもない。夜、海上、碇を下ろして停泊中。やたらと大きな月が浮かんでいて、その静けさを物ともしないどんちゃん騒ぎ。なんていうのは。初めてでもなければ、何か三日前も騒いでた気がする。あれは何だっけ。何か飲み比べが高じた結果じゃなかったっけ。結局揃って潰れてたけど。まあ、楽しかったなら何より。違う、今話したいのはそれじゃなく。

「あ、お疲れ様っす」
「あァ」
「イズ、迎えだってよ」

…わたし頼んでませんけど。

喧騒と満月の間。一番高い見張り台の中。酒瓶を一つ持ち込んで、見張り番の兄さんと。…いや、見張り中だからわたししか飲んでないけど。何かを察したのか、口数も少なく。しっとり、殆ど一人で月見酒と洒落込んでいたところ。

「代わる」
「いいんすか?」
「あァ」
「あざっす!」

どことなく冷えた空気が生温く弛緩する。そこは一回くらい断るところじゃなかろうか。もしかして居心地悪かったかな。嬉々として降りていく頭を見送って、隣に潜り込んできた御仁に視線を移す。持ち込んで来た酒瓶は二つ。わたしのは三分の一くらい減っている。

「…何かありました?」
「いい酒飲むのに理由がいるか?」
「下の方がいっぱい色々あるんじゃないですか」
「あァ…まァ、種類はな」

栓を開けた瓶に直接口をつけて、喉仏が上下に動く。悪くはない。悪くはないけど、何か、もうちょっと感傷的な気分だった。

「イズルと飲む酒に勝るもんなんかねェよ」
「…消毒液でも?」
「ありゃァ、酒じゃねェだろ」
「そうですけど」
「でもまァ、それで隣にいてくれんなら幾らでも」

そう言って笑いながら、わたしの髪を耳にかけた。柔らかくて、冷たくて、雪月花とはよく言った。雪降ってないけど。

「何かあったか?」
「…わたしですか?」
「イズル以外にいねェだろ?」

…まあ、いないけど。そうじゃなくて。

ふい、と視線を上げれば、少し上がった月が小さくなっている。何かあったわけじゃない。あったわけじゃないんだけど。ただ、今日はわいわいする気分じゃなかったってだけで。だって。

「何にもないですよ」
「そうか」

思いの外、あっさり引き下がった。言葉はそこで落ちて、髪を梳く感触だけ、撫でることもなければ抱え込むこともない。

煙のような喧騒に巻かれて、いつしか梳いていた指も離れた。妙に丁度いい。妙に丁度良くて、少し遠い。

「…、」

イゾウさん。そう零れかけた声が呑まれて消えた。音もなく、波紋一つ立てず押しつけられた唇が離れる。長いようで、一瞬のようで、物足りないようで満ち満ちている。

「きれいだ」
「…月が?」
「イズルが」

…馬鹿じゃないの。そう思って、今度は唇が音を立てて、ふ、と視線がかち合った。重なった手指が絡まっている。満ち満ちて、溢れている。

「…、きれいですね」
「ん?」
「イゾウさんが」

ぱちり、と丸くなって、それから緩く弧を描いて。音もなく唇が動いて、額に額がぶつかった。あと、2cm。




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