38


日本と春。と来れば桜。飽きるほどに、そこら中で見た花。なのに、わたしは今、初めて桜を見たんだと思った。

「こいつァ、すげェな」
「きれい、ですね」

帆を畳み終わったらしいエースさんが、隣に来て感嘆の言葉を溢す。返す言葉が拙くて悔しい。何て言うんだろう。風光明媚。花鳥風月。桜の下には死体が埋まってるなんて嘘だ。だってこんなに猛々しい。

「…、」
「ん?どうした?」
「いえ、何でもないです」

手摺に肘をついて頭を抱えたわたしに、エースさんが首を傾げる。放っといて。今自己嫌悪中。何でもない、幾ら何でもそれはない。

「なんだよ。どうしたんだよ」
「何でもないんです」

肩を揺するな。壊れた機械じゃないんだから。揺すったって喋んないから。

「あー、桜の花弁を空中で捕まえられたら願い事が叶うらしいですよ」
「お前、絶対違うこと考えてただろ」
「そんなことないです」

丁度、目の前を舞っていた花弁を掌に乗せた。待つこと、抗わないこと、乱暴にしないこと。隣を見れば、エースさんが遊ばれていた。どんなに早く動いたって、花弁はそこから逃げてしまう。

「ふふ」
「結構難しいな。どうすりゃいいんだ?」
「こっちから動くと逃げちゃうから、近くに来るまで待つんですよ」
「んん?お、成程な」

手にした花弁を矯めつ眇めつ、どんなに眺めてもそう変わりはない。色も形も大きさも。なのにどうしてこんなにきれいなんだろう。
風に攫われた花弁が、空に舞い上がって踊った。海の碧、空の蒼、翠の風に桜色。ふふ、何これ。幸せ。

「何笑ってんだ?」
「えー、何か。幸せだなあって。桜がきれいで、海が青くて」
「桜見んのは初めてか?」
「腐るほど見た」

本当に、腐るほど。あんなにいっぱい、何度も何度も見たのに、こんなにきれいな桜はなかった。

「よくわかんねェけど、イズが嬉しいんならいいや」
「わたしが嬉しい?」
「違ェのか?」

…嬉しい。嬉しいのかなあ。嬉しいけど、もっと温かい感じ。何かもう、このまま全部抱き締めてしまいたいような。

「…わたし何か病気?」
「今度はどうした?」
「だって、何か初めてで。こんな、すごいふわふわすることあります?」
「忙しい奴だなァ」

頭に乗った手が暴れる。一緒に頭の中まで引っ掻き回されてる気分。

「だって、何かすごく。すごく嬉しいんですよ。すごく嬉しくて、幸せだなあって。わたし明日死んだりしません?」
「どういう理屈だよ」

あ、段々不安になってきた。手摺に背を預けたエースさんが手を上げる。応えたのはうちの隊長。絵の中から出てきたみたいによく似合う。そのまま掛け軸になれそう。

「イズが変なこと言ってるぞ」
「変なこと?」
「すごく嬉しくて、幸せで、病気なんじゃねェかって」
「だって、すごくきれいなんです。わたしこんな桜見たことない」
「でも腐るほど見たんだろ?」
「腐るほど見たけど、こんなにきれいな桜見たことない。何か、すごい。すごく嬉しい」

自分でも狼狽えたくなるほど、何にも言葉が出てこない。両手を首に当てても熱はない。どうしよう。何か幸せすぎて泣きそう。何で?

「落ち着け」

イゾウさんが笑いながら、わたしの乱れたままの髪を直す。いつもの手つき。いつもの距離。それがありがたくて、やっぱり嬉しくて。

「えっ、嘘でしょ」
「イズル?」
「違う。違うの。違うんです。全然悲しいとかじゃなくて、本当に、嬉しいんです。わかんないけど、こんな嬉しいの初めてで、待って」

既に喧噪は薄くなっていた。もう粗方上陸していったんだろう。たぶん、エースさんもイゾウさんも上陸する。ちょっ、何これ。何でこんなに止まらないの。

「あんまり擦るな。腫れるぞ」
「だって、何か、全然止まんなくて」
「無理に止めることもねェよ」
「いや、だって、…あの、エースさんもイゾウさんも、上陸して大丈夫ですよ?」
「別に急いでるわけじゃねェからな」

一瞬視線を寄越して、イゾウさんがエースさんを先に行かせた。しゃがんで、覗き込まれて、これじゃあまるで幼稚園児じゃないか。

「だって、嬉しい。すごく嬉しいんです。何でこんなに嬉しいのかわかんない」
「わかんねェならわかんなくてもいいさ」

何それ。イゾウさんの指が目元を拭って、まだいっぱいに溜まる。恥ずかし。こんな、泣いてるところ何か見られたくないのに。

「…ごめんなさい。ありがとうございます」

一頻り放置して、漸く落ち着いた。手で顔を仰げば熱が逃げていく気がする。…ああ、でも。ちょっとすっきりしたかも。



***

「お、エース。イズと一緒にいたんじゃねェのか?」
「泣いちまったからイゾウに預けた」
「はあ?お前何したんだよ」
「おれじゃねェよ。桜がきれいで嬉しかったんだと」
「…あいつの涙腺はどうなってんだ?」
「さァな。でも、嬉し泣きならいいだろ」
「願ってもねェ」




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