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日本と春。と来れば桜。飽きるほどに、そこら中で見た花。なのに、わたしは今、初めて桜を見たんだと思った。 「こいつァ、すげェな」 「きれい、ですね」 帆を畳み終わったらしいエースさんが、隣に来て感嘆の言葉を溢す。返す言葉が拙くて悔しい。何て言うんだろう。風光明媚。花鳥風月。桜の下には死体が埋まってるなんて嘘だ。だってこんなに猛々しい。 「…、」 「ん?どうした?」 「いえ、何でもないです」 手摺に肘をついて頭を抱えたわたしに、エースさんが首を傾げる。放っといて。今自己嫌悪中。何でもない、幾ら何でもそれはない。 「なんだよ。どうしたんだよ」 「何でもないんです」 肩を揺するな。壊れた機械じゃないんだから。揺すったって喋んないから。 「あー、桜の花弁を空中で捕まえられたら願い事が叶うらしいですよ」 「お前、絶対違うこと考えてただろ」 「そんなことないです」 丁度、目の前を舞っていた花弁を掌に乗せた。待つこと、抗わないこと、乱暴にしないこと。隣を見れば、エースさんが遊ばれていた。どんなに早く動いたって、花弁はそこから逃げてしまう。 「ふふ」 「結構難しいな。どうすりゃいいんだ?」 「こっちから動くと逃げちゃうから、近くに来るまで待つんですよ」 「んん?お、成程な」 手にした花弁を矯めつ眇めつ、どんなに眺めてもそう変わりはない。色も形も大きさも。なのにどうしてこんなにきれいなんだろう。 風に攫われた花弁が、空に舞い上がって踊った。海の碧、空の蒼、翠の風に桜色。ふふ、何これ。幸せ。 「何笑ってんだ?」 「えー、何か。幸せだなあって。桜がきれいで、海が青くて」 「桜見んのは初めてか?」 「腐るほど見た」 本当に、腐るほど。あんなにいっぱい、何度も何度も見たのに、こんなにきれいな桜はなかった。 「よくわかんねェけど、イズが嬉しいんならいいや」 「わたしが嬉しい?」 「違ェのか?」 …嬉しい。嬉しいのかなあ。嬉しいけど、もっと温かい感じ。何かもう、このまま全部抱き締めてしまいたいような。 「…わたし何か病気?」 「今度はどうした?」 「だって、何か初めてで。こんな、すごいふわふわすることあります?」 「忙しい奴だなァ」 頭に乗った手が暴れる。一緒に頭の中まで引っ掻き回されてる気分。 「だって、何かすごく。すごく嬉しいんですよ。すごく嬉しくて、幸せだなあって。わたし明日死んだりしません?」 「どういう理屈だよ」 あ、段々不安になってきた。手摺に背を預けたエースさんが手を上げる。応えたのはうちの隊長。絵の中から出てきたみたいによく似合う。そのまま掛け軸になれそう。 「イズが変なこと言ってるぞ」 「変なこと?」 「すごく嬉しくて、幸せで、病気なんじゃねェかって」 「だって、すごくきれいなんです。わたしこんな桜見たことない」 「でも腐るほど見たんだろ?」 「腐るほど見たけど、こんなにきれいな桜見たことない。何か、すごい。すごく嬉しい」 自分でも狼狽えたくなるほど、何にも言葉が出てこない。両手を首に当てても熱はない。どうしよう。何か幸せすぎて泣きそう。何で? 「落ち着け」 イゾウさんが笑いながら、わたしの乱れたままの髪を直す。いつもの手つき。いつもの距離。それがありがたくて、やっぱり嬉しくて。 「えっ、嘘でしょ」 「イズル?」 「違う。違うの。違うんです。全然悲しいとかじゃなくて、本当に、嬉しいんです。わかんないけど、こんな嬉しいの初めてで、待って」 既に喧噪は薄くなっていた。もう粗方上陸していったんだろう。たぶん、エースさんもイゾウさんも上陸する。ちょっ、何これ。何でこんなに止まらないの。 「あんまり擦るな。腫れるぞ」 「だって、何か、全然止まんなくて」 「無理に止めることもねェよ」 「いや、だって、…あの、エースさんもイゾウさんも、上陸して大丈夫ですよ?」 「別に急いでるわけじゃねェからな」 一瞬視線を寄越して、イゾウさんがエースさんを先に行かせた。しゃがんで、覗き込まれて、これじゃあまるで幼稚園児じゃないか。 「だって、嬉しい。すごく嬉しいんです。何でこんなに嬉しいのかわかんない」 「わかんねェならわかんなくてもいいさ」 何それ。イゾウさんの指が目元を拭って、まだいっぱいに溜まる。恥ずかし。こんな、泣いてるところ何か見られたくないのに。 「…ごめんなさい。ありがとうございます」 一頻り放置して、漸く落ち着いた。手で顔を仰げば熱が逃げていく気がする。…ああ、でも。ちょっとすっきりしたかも。 *** 「お、エース。イズと一緒にいたんじゃねェのか?」 「泣いちまったからイゾウに預けた」 「はあ?お前何したんだよ」 「おれじゃねェよ。桜がきれいで嬉しかったんだと」 「…あいつの涙腺はどうなってんだ?」 「さァな。でも、嬉し泣きならいいだろ」 「願ってもねェ」 |
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