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「あ、おかえりなさい」

部屋で本を読んでいたところに、イゾウさんが帰ってきた。少し目を丸くしてから、ふわり、と表情を和らげる。余計なこと言ってないだろうな。見た感じは聞いてなさそうだけど。

「ただいま」
「上機嫌じゃないですか」
「そりゃァな」

髪をかき分け、額に口づけて、隣の椅子に腰かける。髪を遊ぶ手に本を閉じれば、…何。そんなに機嫌いいの?頬杖をついて首を傾げて、妙に穏やかでいっそ怖い。

「サッチさんたちからは機嫌悪いって聞いてたんですけどね」
「あ?」
「その、一緒に上陸したかったんですか?」
「…あァ、なるほどな」

髪を遊んでいた手が耳を撫でる。それ擽ったいからやめて。

「そりゃ、一緒に上陸できりゃいいが、街歩くんなら明日とかの方がいいだろ?」
「そうですね」
「買い出しに付き合ってつまんなそうにしてるくらいなら、あいつらの手伝いして楽しそうにしてる方がいい」
「…そうですか」

うん。ありがとう。その方がわたしも嬉しい。別に買い出しがつまんないとは言わないけども。何もできないからね。それこそ支払いくらいしか。…でもそうすると。何で不機嫌になってたの?

「まァ、他の男の誘いにあんまり簡単に乗られちゃあ面白くねェけどな」

…ああー、そっちかあ。でもそれ、だって、何か誘われる度にイゾウさんに確認するの?面倒くさくない?わたしも、イゾウさんも。わたしは面倒くさい。

「…たぶんそれは直りません」
「だろうな」

思いの外けらり、と笑って、今度は頭を撫でる。何何何。どうしたの。猫じゃねえぞ。犬でもない。いや、別に全然嫌じゃないけども。

「またおかえりって言ってくれ。それでちゃらにしてやるよ」
「お気に召しました?」
「あァ、かなりな」

あ、そう。気に入ってるわたしが言うことでもないけど、そんなに?そっか。お気に召したか。

「イズル?」

立ち上がって、きょとん、としたイゾウさんを見下ろす。頭から落ちた手が緩く指を握った。思い立ったら吉日って、怖じ気づく前に行動しろよってことだと思う。

「…気が向いたらおかえりのちゅうもつけます、よ?」

あー。ああああー!恥ずかし!本当に、ちょっと触れただけだけど!恥ずかしくって死ねる!

直視できなくて、そっぽを向いて手で顔を隠した。けど、あんまり反応がなくて。あんまりにも反応がなくて、横目に覗き見る。にっこりと弧を描いた口元に反して、目が笑ってない。無理無理無理。怖い。

「イズル」
「はい、何でしょう」
「こっち向きな」
「いえ、ちょっと今無理です」
「無理じゃねェよ」
「無理です…っ、」

握られていた指から手が離れて、腕を掴んで引っ張られる。咄嗟に肩に手をついて体勢を立て直せば、至近距離ににやにやと笑う顔。するり、と腰に回った手が某かを催促する。何かは知らん。わたしは知らん。

「イズル」
「何ですか」
「何ですかじゃねェよ。わかってんだろ?」
「さあ何の話ですかね」
「あんまり意地悪すんな」
「…どっちが」

あー、くそ。こういうのを惚れた弱みって言うのか。頬を擽る手とがっちり腰に巻きついて離れそうにない腕に、諦めさえ感じる。しょうがない。好きなんだもの。

「ん」
「かわい」
「…それやめて」
「何で」

何で。何でって、…だって。だって、何か堪んなくって。もう全部投げ出して預けちゃってもいいかな、みたいな。

「なァ、毎回やってくれんだろ?」
「気が向いたらです…っ、ちょっと!」

何何何何何!何で!何で、そんな、そんな気分になってんの!首筋をなぞる手に逃げた体を絡まる腕が阻んだ。脊椎が震える感覚に泣きたくなる。

「…何笑ってんですか!」
「すげェ物欲しそうな顔してる」
「なっ、してない!」
「可愛い。言われたくなきゃ自分で塞いでみな」

悪魔!サタンも裸足で逃げ出すぞこの野郎!喉を擽った指がゆっくり唇をなぞる。あ、無理。これ駄目。

「…イゾウさん、」
「可愛い顔してどうした?」
「…わかって言ってる」
「さあ?ちゃんと言わねェとわかんねェな」

ああ、もうこの野郎!そんなことを言いながら、回っていただけの手が腰を撫でた。鬼。悪魔。あんたの前世人でなし。

「……ら、」
「ん?」
「…毎回するから、お願い…します」
「はは、堪んねェな」

貪られて甘ったるい声が出る。



***

「ねえ、イズ知らない!?」
「うおっ、…何だ、リノン。どうした?」
「イズ探してんの!知らない!?」
「あー、たぶん部屋じゃねェか?」
「いなかったけど?」
「あ?」
「部屋ってあれでしょ?ナースたちのとこ」
「…お前は一体いつの話をしてんだ」
「イゾウ隊長のとこに移ったんだよ。大分前にな」
「イゾウ隊長の?わかった!」
「あっ、おいこら!待て!」




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