名前がドアを開けてくれた時、生きている事に心底安心した。いつもとは似ても似つかない山姥のような風貌になっていても、動いて息をしていただけでオレはもう十分だと思った。
何も光が宿っていない真っ黒な瞳には何故か見覚えがあって、昔の自分を見ているような気持ちになった。絶望を写す、生きるのを諦めた目を見て懐かしく思うのは何故なんだろう。俺はそんな人生、歩んでいない筈なのに。


「マイキー…エマ…どうしたの?こんな朝早くに」

「名前が死に場所を探しているような気がして、胸騒ぎがしたから」


 ヒュッ、と鋭い息が色を無くした口から漏れ、充血した目は狼狽を露わにしていた。
この前会った時から時間なんて経っていない筈なのに、名前の柔らかな頬は痩けトレーナーから除く手首は枯れ枝のようで、血色は病人のように青白かった。エマは動揺して気付いていないようだが、酷く痩せてるだけじゃなく思ったより事態は深刻だった。何故なら今は朝じゃない。どう考えても間違えようがない景色が窓の向こうに広がっているのだ。眩しい程差し込む西日を見れば明らかなように、太陽はこれから沈むのだ。時間の感覚も状況判断もできなくなるくらい、名前は今異常な状態ということだ。



「もしお前が死んだら、自分勝手で最低な奴だとオレは心から嫌いになる。名前のせいでオレ達はみんな、一生消えない傷を負う」

「…ぁ、…ぇ、ぁ…」

「西日を見る度に、この季節が来る度に思い出す。この辺にはもう近寄れない。名前のせいでオレ達は、今後地獄のような世界で生きるようになる。もしかしたら誰か後を追うかもしれない」

「マイキーやめて!追いつめるような事言わないで!」

「あ…私は、…どうしたら…」

「生きて。ちゃんとご飯食べて、寝て、笑って、気に食わない事は言葉にして伝えてくれよ。ムカついたら殴っても良いんだ」



“ウチ達って、そんな簡単に壊れる関係だったの?"
"喧嘩もできなくて、上手くいかなかったら消えなきゃいけないくらい脆い仲なの?“

 言葉にしたら名前が崩れて居なくなってしまいそうな気がして、またこの間みたいに苦しめるのではと思って、とてもじゃないけど口にできなかった。
 普段はそこまで口数が多い方じゃない筈のマイキーに捲し立てられ、名前は酷く狼狽えていた。ウチはただ抱き締める事しかできなくて、冷たい身体に熱が移るようひたすら願いを込めて摩っていた。  
 きっとこれで死を選ぶ事はないだろう。ウチらの事を想うがあまり罪悪感で消えようとしていた名前は、生きる事が罪滅ぼしになると考えるからだ。マイキーの言葉は呪いのように全身を覆い、骨の髄まで染め縛り上げる。残酷で酷いように思えるかもしれないけど、言霊が命を守ってくれるなら、それで良い。





「マイキーのかみのけフワフワ!」

「マナたい焼き食べないの?」

「オレの髪になんか付けたろ今」

 あの日、地縛霊でも住み着いていそうなジメジメした家から、寝込むちびと幽霊みたいな名前をまとめて家に連れて帰った。バイクには乗せられないから兄貴に連絡したけど、説明しなくてもすぐに対応してくれたから、きっと思う所や察する何かがあったんだと思う。

テーブルに積まれた書類を見る限り、名前の入寮は今週末のようだったが、先方に連絡して勝手に引っ越しを延期した。難しい事はまるっとじいちゃんに任せたけど、特に何も言われてないって事は名前の親とも話がついているんだろう。でも親が取り乱してる姿なんかは見てないから、死のうとしてた事は伏せられているのかも知れない。それが正しいのかどうかは分からないけど、夜中に兄貴が険しい顔してじいちゃんに詰め寄ってたから、俺は何も言わなかった。何が正解かなんて、きっと誰にも分からない。


「名前おかずも食べないとダメだよ。お粥だけじゃ栄養足りないからね」

「さっきおやつにたい焼き摘んじゃって」

「それはそれで良いよ。カロリーは正義。名前は今心と体にカロリーが要るんだから」





 名前とエマがちび達と買い物に行っているから、家の中は久しぶりに静かだった。広い家に人間が数人増えた所で何も困らないが、親の責任の能力に怒りを覚えるのは間違っているのだろうか。じいちゃんの話自体は理解できても、俺は何一つ納得できなかった。
悶々としながら昼飯を突いていると、突如轟音が家中に響きグラスのコーラが細かく波打った。焦って道場に向かうとサンドバッグが入り口に転がっており、表面が破れ中の布が見えていた。新しい器具だった筈だが、重いサンドバッグを支えていた頑丈な柱は、ひしゃげて無惨な形に変形していた。惨事を起こした万次郎は据わった目でグローブを外し、力なく床に放り投げた。


「………名前が死のうとしてた事も何も知らずに、三ツ谷はパリなんかでショーをしてる」

「…………」

「三ツ谷が応えられるかどうかなんか知らねーけど、あいつはのうのうと笑ってんだろ」

「…………」

「あいつの事大好きだけど、同じくらい今は大嫌いだ」


 万次郎は強い。子供の頃から今までずっと最強な奴だった。でも俺が抱き締めるとすっぽり覆えるくらい小さくて、驚く程弱くて繊細だ。我儘で自分勝手だけど、誰よりも優しくて温かい、可愛くて仕方がない弟だ。何処にぶつけたら良いのか分からない怒りを抱え、自分の無力さを感じ目の前が真っ暗になる。分かるよ、万次郎。俺もそうなんだ。俺はじいちゃんに当たる事しかできなかったけど、お前は違う。死ぬ場所を探していた名前に、生きる理由を与えたんだ。トクントクンと脈打つ鼓動を、繋ぎ止めたのはお前なんだよ、万次郎。



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