甘くて低い、耳に響くような声が好きだった。

 家族や仲間を映す、垂れた優しい瞳が好きだった。

 どんな髪型にしても似合ってしまう、色素の薄い柔らかな髪が好きだった。

 不良の筈なのに優しい物言いで、人によって使い分ける言葉遣いが好きだった。

 作品作りに妥協がなく、常に理想を再現し続けるストイックさが好きだった。

 マナとルナの野菜嫌いを克服させようと、苦労しながら台所に立つ横顔が好きだった。

 家族を心から愛し慈しむ、美しい笑顔が好きだった。

 「彼のどこが好きですか?」と聞かれたら、一晩中掛かってしまいそうな程、私は“三ツ谷隆“の全てに恋をしていた。





「あー…しまった、思ったより寝ちゃったなぁ…。」


 卒業式まで後一月。この生まれ育ったボロアパートとの別れが、もうすぐそこに迫っている。無事第一志望校に合格した私は、大学近くの寮の下見や家財道具の調達、私物の処分と購入にバイトの掛け持ちと非常にハードな日々を過ごしていた。

ちなみに今日はこれから朝まで棚卸しのバイトをし、その後は夜行バスでの5時間移動が待っている。新幹線で行くならあっという間なのだろうが、生憎そんな贅沢ができる身分ではない。目の下のクマは日々濃くなり続けているが、まだ10代だから多分何とかなるだろう。
ダンボールの中に入っている荷物はごく僅かで、引越し業者どころか宅配便で事済みそうな具合だった。18年分の荷物がこんなもんなのかと思うと残念だが、コストが掛からず何よりだともう開き直っている。


「とりあえずトースト位は食べた方が良いよなぁ…倒れたりなんかしたらお金かかるから頑張ろう」

 しぱしぱする目を擦りながら、味気ないトーストを齧り身支度をする。今日のバイト先は家からすぐ近くのドラッグストアだから、慌てなくても大丈夫そうだ。最近はいつものバイトに加え単発バイトを入れまくっているから、学校に行っても殆ど抜け殻状態になっている。それでも先生達が何も言わずに見守ってくれているのは、うちの厳しい経済状況を知っているからなのだろう。奨学金についても詳しく教えてくれたし、理解のある大人に囲まれて有難い限りだ。





「名前姉ちゃん見て見て、学校の先生にね、この絵ほめられたんだよ」

「凄いねぇ、マナは隆ちゃんみたいに絵が上手いね」

「ルナもね、編み物が上手って先生に褒められたんだ。今はねお兄ちゃんにマフラー編んでるの」

「それは勿体無くて使えないなぁ。隆ちゃん泣いちゃうかも。ルナも凄いねぇ」


 二人が赤ちゃんの時からお風呂に入れオムツを替え、一人で座れるようになった時も立てるようになった時も、言葉を話し始めた時も私はこの子達の側にいた。
アパートが隣同士で、母子家庭で育つ子供達。歳が近い母親同士が仲良くなるのも助け合うのも、子供同士が兄妹のように育つのも必然だった。
兄弟が居ない私にとって隆ちゃんはお兄ちゃんの様な存在だった。
それが王子様に変わるまでにそう時間は掛からなかった。

 ルナとマナは世界で一番可愛い存在で、一日中眺めていても飽きないくらい愛しい子供達だった。ふわふわな髪の毛も、いつも輝いている大きな目も、ぷっくりした頬や紅葉のような小さな手も、涎を垂らしながらするハイハイも目に焼きついて離れない。
いつも甘くて優しいミルクの匂いがしていた天使のような赤ちゃんは、気付けば隆ちゃんに似た美しい瞳の女の子に成長していた。口の悪さは油断できないが、きっとあっという間に今よりずっと華やかで目を惹く女性に成長して行くのだろう。


 どんな時も側にいたのに、後少しでそれも終わってしまう。この子達を捨てた未来を選ぶのかと聞かれたら、私の答えは何になるのだろう。お金も時間もあってどこでもドアがあったのなら、私はこれからも二人に会う世界線を選ぶのだろうか。
辛い時、悲しい時、食いしばった歯が震えそうな程悔しい時。どんな時があっても、マナとルナの笑顔を見ただけで負の感情は消えていった。でもいつしか二人と一緒にいると、どうしても視界に入ってしまう隆ちゃんの存在が、辛くて辛くて仕方がないものに変わっていった。喉から手が出るほど欲しくて、自分でも引く位執念深く想ってしまう好きな人。

 綺麗事を並べて正当化するとしたら、“自分の心を守る為にはこうするしか無かった“こんな表現になるのかもしれない。
隆ちゃんから恋人の相談を聞くのも、未来を想像して辛くなるのも、嫉妬心を抑えるのも、報われない気持ちを温めているのも、もう全部全部終わりにしたい。
縛られず影響を受けず、自由な心で息ができる。そんな場所に私は行きたいのだ。





「名前老けたな」

「マイキー…デリカシーが無いにも程があるでしょうよ」

「貞子よりも死体ぽい」

「失礼すぎだろ」

 鯛焼きのカスを畳の上にバラバラと溢し、相変わらず自由人で大きな赤ちゃんみたいなのに、大きな黒い目は私を見透かすように捉えて離さない。感覚で生きているこの厄介な幼馴染は、勘が鋭すぎていただけない。この目に見つめられたら、どんな名女優も嘘が付けないのではと思ってしまう。当然私にそんな演技力などある訳なく、どうにかしてボロが出ないよう必死で取り繕っていた。他の誰にもバレていない事もマイキーには大体気付かれているので、一番の要注意人物だった。とは言え引っ越しの決行まで後一月。会わなければまぁ何とかなるだろう。子供の頃からずっと側にいた幼馴染達だから、本当は沢山思い出を作ってからお別れをしたい。でもそんな事をしていたら、離れる決心が揺らぐような気がして怖かった。



「なぁ、」

「ちょっと待って、その鯛焼きは私のだから」

「お前俺たちになんか隠してない?」

「…何もないよ、マイキーには何だっていつも筒抜けじゃん」

 口元にも食べカスを付けているくせに、凄みを効かせた顔をして心の中を覗き込もうとしてくる。こいつ…人の鯛焼きに手を出そうとしたのではなく、私の退路を塞ごうと身を乗り出して来たのか。ぎらぎらとした目には嘘も誤魔化しも通用しない。さっきまで和やかに過ごしていたのに、冗談も言えないような緊張感に冷や汗が吹き出そうだった。


「ふぅん…そうは見えねーけどな」

「名前ー、夕飯食べていく?今日はうち焼肉なんだけど」

「あー…いや、今日は隆ちゃんの帰りが遅いからルナとマナと食べるんだ」

「ウチに連れて来ちゃえば良いのに。ていうか三ツ谷名前の事頼りすぎじゃない?」

「しょうがないよ、だって今度フランスのコンクールに出るんだもん。私はもう受験終わってるし、バイトぐらいしか予定ないから」

「凄いよね、薬科大学現役合格だもんなぁ。お祝いもしたいし、忙しいと思うけどまた今度寄ってよ」


 “うん“とは言えなかった。また今度があるのか分からなかったから。嘘をついた時の罪悪感を背負いたく無かったから。笑って取り繕う私を、観察するように見つめる視線には気が付いていた。それでも私は気が付かない振りをした。見つめ返す勇気など、とても持ち合わせていなかったからだ。





「あぁ…派手に風邪引いたなぁ…。」

 39.1度と表示された体温計をじっと見つめる。掠れた声で学校に電話をし、とりあえずベッドに戻り布団を被った。10時すぎには夜勤明けのママが帰ってくるだろう。疲れて帰って来た所に迷惑を掛けて申し訳ないけど、こればかりは仕方がない。頭が割れそうな程痛いけど、寝不足が功を奏してすぐにでも寝付けそうだった。寝て起きれば治っている、そんな都合の良いことがあれば良いけど。





「おい、一回起きろ。いい加減水分取らねーと脱水になるぞ」

「だれ…?うつるから…よらないで…」

「まだ熱高いのか…。今お粥作ってんだけど食えそうか?」

「むり…あつい…きもちわるい…」



 テキパキと動く手が頭を抱え、硬い氷枕を敷いてくれる。私が適当に持って来たアイスノンは、どうやら随分前に溶けてしまったらしい。脇の下や首元にも巨大な保冷剤をねじ込まれ、マックスだった不快感は上限を上回り続けている。的確に動脈を冷やす手際の良さに比類なき面倒見の良さは、どこからどう見ても隆ちゃんのものだった。今は絶対風邪を引けない筈なのに、どうしてこんな所に居るんだろう。朦朧とする意識に鞭を打ち目を凝らしてじっと見ると、薄ら髭が生えた隆ちゃんが額の汗を拭ってくれていた。髭を剃る余裕すらない忙しい人が、こんな所で油を売っていて良い筈がない。私なんかに使って良い時間など、一分一秒足りともありはしないのだ。


「もうだいじょうぶだからかえって、おねがい」

「こんな状態のお前を一人にさせられるかよ」

「いまうつしたら、わたしいっしょうこうかいする、ゆるせない。おねがい、おねがいだからかえって、おねがい」

「……なんかあったら必ず連絡しろよ。すぐに駆け付けるから」


 泣きながら懇願すると、腑に落ちない顔をしながらも隆ちゃんは家を出て行った。最近はアトリエに篭っていたけれど、私が妹達の面倒を見られないから治るまでは家に居るのかもしれない。

 これ以上迷惑を掛けたり、足を引っ張るような事は死んでもしたくない。
這いつくばりながら亀よりもゆっくりと移動し、前に風邪を引いた時に飲み切らず余らせていた薬を、机から引っ張り出し空っぽの胃に流し込んだ。薬剤師の卵としてやってはいけないことのオンパレードだが、背に腹はかえられないのだ。

 隆ちゃんの夢を叶えるために私ができる事など何も無い。アトリエに籠る隆ちゃんを支えているのは、私では無く彼女なのだ。隆ちゃんはこれから次々と夢を叶え、誰もが知る新進気鋭のアーティストとなるだろう。その時彼の側に私は居ない。でもそれは今までだってそうだったのだ。一方的に私が“いつか叶うだろう“と実在しない虚像を追いかけていただけにすぎない。  


 熱がぐんぐん上がりトイレで吐き続けても、死ぬ訳ではないことは分かっていた。吐くものが何もなく、喉を傷つけて血が滲んでも私は連絡をしなかった。急変したとしてもママが間も無く帰ってくる。
隆ちゃんからの問い掛けに私は返事をしなかった。これからどんなことがあっても、彼に私から連絡する事は絶対に無いからだ。












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