4 何か『恋人』っぽい!
何だか体がだるい。
朝目覚めた郁は自分の体の異変に気づいた。
もしかしなくても、これは風邪の前兆ではないだろうか。
こんな大切な時期に風邪を引くわけにはいかない。
考えられる限りの対処をし、今日は一日大人しく家で寝ていようと空になったグラスを置いた時だった。
携帯がクラシックを奏でる。
電話だ。
これが仕事関係者だったら、怖い。
プロとして最低限の自覚もないのかと説教されてしまう。
画面に表示されているのは凛の妹・江の名前。
ドキドキした心臓を落ち着け通話ボタンに触れた。
「もしもし、江ちゃん?」
『こんにちは、郁さん』
「話するの久しぶりだけど、何かあった?」
『それを聞くのは私の方です。お兄ちゃんとはどうですか?』
ゲホゲホと咳き込んでしまった。
喉が痛い。
風邪引きかけの喉には特別攻撃力があった。
「ちょ、江ちゃん。何の話をして……!」
『動揺するようなことはあったと』
「ないない。何もない!」
『ホントですかあ?』
何やら楽しい話題を探しているということだけはわかった。
それに自分が選ばれても何も提供できる話題がない。
「何かあったら、嬉しいけどね」
『え……? 郁さんってそんなにお兄ちゃんのこと好きだったんですか?』
「……そんなにがどんなにかわからないけど……。嫌いじゃないよ」
『そこは好きって言わないんですね?』
好きとはっきり口にする自信がない。
自分は本当に彼に恋をしているのだろうか。
ただ憧れているだけなのではないか。
「憧れてるんだよ。凛くんみたいになりたいくらいには尊敬してる」
『……嬉しいです』
「嬉しい?」
『はい。あ、電話しておいて何なんですけど、もしかして風邪ひいてます?』
突然のピンポイントに郁は返事が遅れた。
それで江は確信したのだろう。
ごめんなさいと小さな声で謝った。
「風邪って言うほどのものじゃないよ。ちょっと疲れてるだけかな。全然大丈夫だよ」
『それならいいですけど……。私にできること何かあります?』
「ありがとう。気持ちだけで十分」
『そう、ですか。あんまり長く話すのも悪いので切りますね』
「ありがとう。また話をしに行くね」
『はい! 待ってます!』
江の元気な声を耳に残し、通話は終わってしまった。
大人しく布団に入ろうかと思い、部屋に入ったところでまた電話が鳴る。
今度こそ仕事関係者だろうかと、心臓が痛む。
おそるおそる画面を確認すると、そこには凛の名前。
最初に安堵し、そこから疑問。
そして、別の種類の緊張感。
「……もしもし?」
『急に電話とかして悪いな』
「ううん。全然。凛くんからの電話ならいつでも大歓迎だよ」
『お、おう……』
「それで、何か用、事……?」
咳が出てしまいそうになり、不自然に言葉が途切れた。
それを不審に思われなかっただろうか。
『今から、会いたいんだけど』
「おぉ! 何か『恋人』っぽい!」
『……郁』
「すみません。ちょっとはしゃぎました」
『かなり、だろ? まあ、いいや。会えるか?』
素直に頷きたいところだが、ここは断らなければならない。
本番に向けて休養がほしい時なのだ。
「……ごめん。すっごく嬉しいんだけど、今日はちょっと用事があって……」
『言い訳下手すぎだろ』
「え?」
『風邪、引いたって?』
「……」
間違いなく江が凛に告げたのだろう。
凛が郁の風邪を知って何の得もない。
「風邪って決まったわけじゃないよ。ちょっとそれっぽい感じがするだけ」
『絶対安静か』
「人の話聞いてる?」
『今から行く。家どこだ?』
「……」
ここで素直に個人情報を暴露する人間がいるだろうか。
いきなり来られたら困る。
懇切丁寧にお断りだ。
「凛くん。大人しく寝たいから、本当に嬉しいんだけど……」
『江に聞いたらわかるか? それとも……』
「あの、凛くん?」
『ああ、じゃあな』
電話は切れた。
わかってくれただなんて思えず、彼を迎える心構えをすることにした。
***
「お邪魔します」
「……凛くん。玄関先で追い返していい?」
「追い返すなよ。『彼氏』だろ?」
それを言われるとツラい。
こんなに協力的な人は他に知らない。
何て親切なのだろうと思う。
それとも自分はあまりに危なっかしくてそう親しくない人でも世話を焼きたくなるのだろうか。
それは大問題な気もする。
少し気をつけようと小さな決意一つ。
「頼ってもいいんだぞ?」
「役作り?」
「馬鹿か。友……知り合いだからだ」
「じゃあ、お願いします」
凛の手が郁の額に触れる。
「まだ熱は出てないか。疲れが出たのか? ストレスか?」
「さあ……。最近無理なんてしてないと思ったんだけどね」
「油断すんなよ? 体鍛えてても体調崩す時あるし……」
「凛くんも体の調子悪い時があったりするの? 看病に行っていい?」
「ま、その時は頼んでやってもいい」
「じゃあ、頼まれてあげてもいい」
二人で吹き出した。
何と面白い会話だろう。
「とりあえずは飯食え。作ってやるから」
「凛くん、料理できるの?」
「多少な」
あまりに感動してその味がわからなかったのは、彼に内緒だ。
(2015/11/19)