9 凛くん、私と付き合ってくれますか?
名前も知らない穏やかな洋楽が流れる店内。
郁はアイスティーを頼み、凛はコーラを頼んだ。
二人の前には汗をかいたグラス。
言葉はまだない。
息苦しい時間だ。
これを動かすのは郁の役目だろうか。
アイスティーを一口飲み、勇気を出した。
「凛くん。その、私は好きだって伝えた、けど、凛くんも私を好き……?」
「そう言っただろ? つーか、だいぶ前から好きだったけどな。意外と気づかない鈍感だとは知らなかった」
「凛くんだって、私の気持ちに気づいてなかったよね?」
睨まれた。
視線を落としてストローをくわえる。
そのまま一口紅茶を含んだ。
ひんやりとした液体が心地よく喉を潤していく。
今更だが一気に熱が体中から溢れ出す。
心臓も痛いし、胃も痛い。
今すぐこの場を逃げ出したいとさえ思い始めた。
いっそお釣りはいらないとお札を叩きつけて逃げても……。
これから付き合い始めるであろう二人の間にあるイベントではないと郁は思い直した。
「凛くん、私と付き合ってくれますか?」
凛は返事の代わりに手を差し出した。
意味がわからなかったけれど、取り敢えず重ねてみる。
「こちらこそ、よろしくな」
眩しい笑顔だった。
心を溶かす陽だまりのような笑顔。
「郁」
「ん?」
「いい加減、ちゃんと呼べよ」
「凛くんのこと? 呼んでるけど?」
「そうじゃなくて……」
「……凛?」
第三者の声が二人の間に滑り込んだ。
郁の背後からかかった声。
「ハル……」
「遙くん。久し振り」
「ああ。凛と郁は面識があったのか」
「うん。あ、一人なら、一緒にお茶飲む?」
郁がごく自然に自分の隣へ招き入れようとしたから、凛は軽く彼女の足を蹴った。
当たったではなく蹴ったと感じられたから、むすっとした顔で郁は凛に抗議する。
「自分で考えろ、馬鹿」
「馬鹿って言わないでよ。本当に馬鹿みたいじゃない」
「……わかってなかったのか?」
真剣に頭の心配をされた。
失礼にもほどがある。
「誘ってくれたのは嬉しいが、待ち合わせをしているから、今日は遠慮しておく」
「そっか。じゃあ、また――」
再び足を蹴られた。
それも先程より強く、だ。
「ちょっと、凛くん。何するの。痛いよ」
「何でお前はそんなに鈍いんだよ。それでも芸能人の端くれか? 有名になる前にスキャンダルの種植えまくってどうするんだよ」
「スキャンダル? 男友達と一緒にお茶するのってマズいかな?」
「俺に聞くな」
ぷいと遙は顔を背けた。
そこは味方になってもらいたいと郁は少し寂しくなった。
「……鈍感二人組」
「ハル!」
「遙くん!」
ぽそりと呟かれた言葉を拾った二人は揃って彼の名前を叫んだ。
抗議の声を受けても、遙は首を傾げただけ。
自分は何かおかしなことを言っただろうかと瞳が疑問を投げかけていた。
「そろそろ10分前か。じゃあな」
二人の空気を掻き乱してから、遙は離れた席に着いた。
待ち合わせの相手は誰だろうとそわそわしたが、どうやら岩鳶水泳部の仲間たちだったようだ。
お互いの飲み物も飲み終わってしまい、することがなくなった二人……ではなく、郁はこの気まずさをどう消化したらいいのかわからず、プチパニックを起こしていた。
ここは誰かに援護を頼みたい。
その誰かは他でもなく、凛の妹の江だ。
彼女がいれば百人力なのだから。
メールでも送ろうかと鞄に手を伸ばした時、自分の携帯電話が震えていることに気づいた。
マネージャーからの着信だった。
「凛くん、ごめん。ちょっと電話出てくるね」
席を離れ通話ボタンを押す。
「白崎です」
『遅い』
「すみません……」
落ち込んだ声を素直に出せば、電話の向こうから明るい声が降ってくる。
伝えられた短い言葉を聞いた彼女は飛ぶように凛の傍へ戻った。
向かいの席に座る前に言葉を発する。
「凛くん、聞いて聞いて!」
「どうしたんだよ」
若干引き気味な凛を気にすることなく、郁は身を乗り出した。
二人の距離が近すぎるというツッコミを入れる者は今いない。
「ドラマに出演が決定しました!」
「……マジで?」
「うん。と言っても、出演なんて言えないくらいのちょい役なんだけど、この前の雑誌をたまたま見てくれた監督さんが数秒のシーンを分けてくれたんだって!」
「凄いな……」
「うん。あ、えと……」
急に勢いを落とした郁に凛は疑問を浮かべると同時に何かを察知した。
「……この前の雑誌って言ったよな?」
「うん」
「俺ら一緒に映ってたよな?」
「うん」
「まさかとは思うけど……」
「私の夢のために、もう一度協力してください!」
テーブルにぶつける勢いで頭を下げる。
公衆の面前でそれは困ると、凛は頭を上げさせ席に座らせる。
と同時に郁は再び頭を下げた。
「凛くん。お願い!」
必死に頼み込まれ、頷いてしまうのは数秒後。
(2017/08/05)