水の宴・U
01
ある時、彼は言った。
世界はまるで神の作った箱庭のようだと。
箱庭を動かす小さな歯車を神々が作り上げた。いつしか歯車は自らの力で回り始め、もはやその行く先は神さえもわからない。
時の歯車はこの世界を動かす。
――ねぇ、お父さん。時の歯車ってなに?
――運命の輪のことだよ。私たちは世界を動かす無数の歯車なんだ。アランはどんな世界を創るんだろうね。
――アラン……
懐かしい声に呼び起こされた気がした。
ぼんやりとした視界に映る晴れ渡った青空。ほんの少し冷たさを含んだ風が、どこかフワフワとした思考を呼び戻す。
徐々に戻る意識の中で、アランは自分が見ているその光景に目を見張った。
「ここは……」
驚きと焦りで跳ね起きた自分の身体の上から本が数冊転がり落ちて地面に無残に広がるが、それに気を留めていられるほど今のアランは平常心を持っていなかった。
そこには静かな風が吹いていた。どこか懐かしい覚えのある温かな風。頬を撫でる風に目を見開くと、そこにはいつもの見慣れた景色が広がっていた。
春の訪れを待ちわびた木々が目一杯に腕を伸ばし、太陽の光を浴びている。そして地面から顔を覗かせた草花たちのつぼみは愛らしく、その姿を見守る柔らかな気配があちこちに感じられた。
「おはようアラン。目は覚めた?」
呆然とした思いでいるアランの背後で忍び笑いを漏らした声が響く。その声にアランは思わず心臓が飛び跳ねた気がした。聞き覚えがあるその声はとても懐かしく、変わらず優しい響きをしていた。
その声を恐る恐る振り返ると、自分のぎこちない動きを不思議そうに見つめる柔らかな茶色い瞳があった。
「どうしたアラン? まだ寝ぼけてるのかい」
振り返ると同時に目を見開いたアランを優しく見つめて瞳を和らげて笑うその人は、胸まであるこげ茶色の髪を後ろで結わえた姿も、見覚えのある灰色のローブもそのままだった。一つ違うことと言えば、アランの記憶にある姿よりほんの少し年を取っていることくらいだ。
いまだ固まったように動かないアランに苦笑いを浮かべ、彼はなにも言わずに草葉を絡ませた赤茶色の髪を整えた。
「お、お父さん?」
「ん? どうした?」
「ほん、と? 本当に……」
震えた声で発したアランの問いかけに少し困ったような笑みを浮かべた彼は、紛れもなくアランの父ルゥイ・フィース、その人だった。
ルゥイのどこか曖昧な微笑みに、頭で考えるよりも先にアランの身体は動いていた。そして辺りをぐるりと見回し、そこにあるべきものがないことに気が付いた。
「夢? 夢を見ているのか、夢を見ていたのか」
呟くように零れたその独り言はどこか遠くに感じられた。目の前に広がるこの場所のどこにも、アランが父のために花を供えた墓石が見当たらなかったのだ。
「夢、そうだね。ここは夢の中なのかもしれないよ」
唖然としたままのアランの背後でルゥイはポツリと呟き小さく笑った。そしてその声に振り返ったアランに優しげな笑みを向けて彼は地面に散らばっていた本を集めその手の下に収めていく。
「アランは今この本も読んでるの? 昔は難しい本は嫌いだってよく投げ出してたのにね」
古い背表紙の本に視線を落としたまま、懐かしそうに目を細めるルゥイにつられてアランもまた本に視線を移した。彼の手にある本はアランも覚えがある、いつも魔法書と共に持ち歩いている一冊だ。
昔、彼がまだ生きていた頃に渡された。
「アランはどんな世界を創るんだろうね」
そしてその本を開くたびに彼が呟くこの口癖。
古びた景色が巻き戻されたように色鮮やかになっていく、そんな不思議な感覚がアランに押し寄せてきた。現実なのか夢なのかそれさえももはやわからない。
「……それにしても、アークも困ったものだね。どんな困ったことがあったのか知らないけれど、アランをこんなとこへ連れてくるなんて」
「え?」
しばらく口を閉ざしたまま本を見つめていたルゥイがため息混じりに呟いたその言葉に、アランは一瞬眉をひそめ不思議そうに首を傾げた。けれどそんな視線に応えることなく、彼は手持ち無沙汰のように手元の本の頁を指先で何度も捲っていた。
「どんな理由があれ、ここに長居をするものではないよ」
そう言いながら不意に表情に影を落としたルゥイを見つめ、アランはゆっくりと確かめるように彼に手を伸ばした。緊張に震えながら触れた彼の指先は、血が通う温もりを感じるものだった。
「私がいない世界は辛かったかい?」
必死で手を握り締めているアランの姿を静かに見つめるルゥイは、そこにあるのになぜか遠く手が届かないもののように感じられた。その感覚に、尚更アランは握り締める手に力を込めてしまう。
巻き戻された景色が遠く引き離されていく気がして怖くなった。
「闇は目に見えない場所で根を広げ、いつの間にか私たちの隣に身を潜めている。アランは光も闇も惹き寄せやすいからね、充分に気をつけなさい」
「え?」
抽象的なルゥイの言葉にアランが首を傾げると途端に視界が歪み、一瞬身体が宙に浮かぶ感覚がした。突然の出来事にアランが目を瞑ると、ルゥイの小さな笑い声が耳元に響く。
その声に恐る恐る目を開けば、真っ白な建物が目に飛び込んできた。
忘れようがないその建物はアランが育った町、テンイルの神殿だ。
けれどそれはやはり些かアランの記憶と相違があった。どこか得体の知れないじっとりとした重たい空気をまとい、異質な闇を孕んでいる。
「今はまだ眠っているけれど、あれはいつかまた目を醒ます日が来るだろう。けれどアランはあの闇に捕まってはいけないよ」
いつの間にか隣に並び立っていたルゥイは、神殿を見つめたまま目を見開いているアランの肩を抱き寄せた。
「闇に……捕まる? 僕が? なんで?」
確かに目の前の歪みは明らかだった。
生きるものすべてを侵食してしまいそうなほどの禍々しさは、まるで触手のようにその腕を伸ばして周りの木々たちを蝕んでいた。ハラハラと舞い落ちる木の葉は、悲鳴を上げているようでひどく痛ましかった。
「大丈夫、そう簡単に見つけられない。でも、アランは闇に足を踏み入れる業を背負ってしまったようだね。今アランの傍にいられないのが残念だよ」
不意に浮かべたルゥイの寂しさを含んだ微笑みは、アランの胸に大きなざわめきを与えた。
神殿に封じられた闇。
それは幸せだった日々と彼を、突如として奪い去っていった。けれど今もそこで育つ大きな闇の気配と時の流れに沿った目の前の父の姿。
「これは本当に夢? もしかして、お父さんまだテンイルにいるの?」
「…………」
呟かれたアランの問いに、ルゥイはまた曖昧な小さな笑みを浮かべる。
「もう帰りなさい」
「おとう、さん?」
「時の歯車は回り始めたばかり。まだ間に合うよ、まだ行き先は決まっていない」
ルゥイの言葉にアランは戸惑ったように瞬きを繰り返した。
彼の言葉の意味を理解することができなかったが、時の歯車――それがなにかの呪文のように繰り返し頭の中で木霊する。
「この世界では大きな運命の輪が回っているんだよ。その輪はたくさんの時の歯車によって回されている。その歯車は私たちの一瞬の判断でその姿を変えて、輪の動きを変化させるんだ」
「運命は変えられるの?」
戸惑いの表情のまま、アランはいつしか瞬きを忘れたようにルゥイを見つめる。
そんなアランに目を細めると、彼は懐から小さな黒い石がついた首飾りを取り出した。それは銀色の三日月が艶めく漆黒の石を抱いたとても神秘的なものだった。
手を取られ、その手のひらに載せられた首飾りにアランは見覚えがある。おそらくルゥイが昔身につけていたものなのだろう。しかし記憶は定かではない。
ひんやりとした感触のそれとルゥイの顔とを見比べながら、アランは曖昧な記憶に眉を寄せた。
「アランからはとても深い闇の気配がする。きっと対峙するのは避けられないことだろうね。だから、これを渡しておくよ。困ったことがあれば彼に頼むといい」
「え? 彼って誰?」
思い当たる節がなく慌てるアランのもう片方の手を取り、ルゥイはその手のひらに指先でなにかを描いた。どこかで見覚えのあるそれを思い出そうと、アランは俯きじっとその手のひらを見つめるが、奥底にしまい込まれた記憶はそう簡単に出てきてはくれなかった。
「……忘れてはいけないよ。行き先は誰かに決められるものではない。何事も力加減を忘れないように。そして、ちゃんと耳を澄ますんだ」
「え? ちょっと待って、まだわからないよ。待って……」
ルゥイの言葉に不安を覚えたアランは焦ったように彼の腕を掴んだ。
けれど泣き出しそうな顔をするアランに苦笑いを浮かべて顔を横に振ると、ルゥイはきつく握られた指を一本一本優しく解いた。
「アランに逢えて嬉しかったよ。でもほら、アランを呼んでいる人がいる」
「え?」
不意にルゥイが指差した背後を振り返ると、空間にぽっかりと開いた穴の奥で光がなにかを示すように瞬いていた。その光の奥からは自分を呼ぶ聴き馴染みのある声が聞こえる。
「自分の場所に帰りなさい。私はいつでもここで待っているから」
「おとう、さん?」
急に遠くなった声に振り返ると触れていた温もりも森や神殿さえも、もうそこにはなかった。唖然として立ち尽くすアランを、光と声の先へ追いやるように大きく強い風が吹いた。
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