水の宴・U
02
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「待って、お父さん!」

 自分の喉を震わし発された声が鼓膜に響き渡った。そして静けさに吸い込まれたその声にアランは思わず息を飲んだ。風に放り込まれた暗闇からやっと抜け出し、目の前に映ったのは森ではなく宙に伸びた自分の腕だった。
 荒い息使いが胸を上下させ、身体中が重石を乗せられたかのように重く感じた。噴出した汗が身体を伝い、外気に触れるたびにそれはひんやりとした冷たさを持った。

 不思議な感覚だと思った。まるで今、息を吹き返したようなそんな感じだった。

 アランはふと我に返り、自分の居場所を確かめようと身体を動かすが、節々が軋みを上げ思うように身体が動かない。薄暗い室内では辺りもおぼろげで、辛うじて自分がどこかの部屋でベッドに横たわっているというのだけはわかる。自由なのは目が醒めた時に伸ばした左腕だけだろうかと、アランは戸惑いながら動かないもう片方の腕に視線を向けた。

「……メレイ?」

 動かない右手を見れば、その腕をしっかりと掴んだままベッドに上半身を預けて眠るメレイの姿があった。不意に飛び込んできた彼女の姿にアランの心臓が早鐘を打つ。暗闇の向こうで光と共に自分を呼んでいたのはメレイだった。

「メレイ……僕、お父さんの夢を見たよ。お父さんはまだテンイルにいたんだ」

 そこにいた彼はとても遠くもう手が届かない気がしたが、それでもメレイにまた会わせてあげたかったと、アランは自分の手を握る彼女の手をそっと握り返した。

「……?」

 握ったメレイの手と自分の手のひらに感じた違和感にアランは小さく首を傾げた。不自由な身体に叱咤しながらなんとか上半身を起こすと、メレイを起こさないようにゆっくりと彼女の指を解き自分の手のひらを見つめた。

「嘘……夢じゃ、ないんだ」

 手のひらに収まっていたそれをまじまじと見つめて、アランは急につんと痛くなった鼻の奥に慌てて上を向いた。強く目を瞑りじわじわと湧き上がる熱をやり過ごすと、大きく深呼吸をして手のひらにある小さな首飾りを再び見つめた。艶やかな黒がきらりと光を含んで輝いた。

「目が覚めたのか」

「え?」

 突然、静けさに遠慮した低い声がアランの耳に届く。探るようなゆっくりとした動きでアランはその声を辿り視線を動かした。

「……貴方は、誰ですか」

 部屋の入り口と思しき場所に立つ声の主を見ながら、辺りを窺うようにアランは改めて自分の周囲も見回した。部屋の中は相変わらず薄暗く、近くの窓からはうっすらと月が空に姿を現しているのが見える。もう夕暮れを過ぎ次第に夜を迎える頃合いなのだろうと思った。
 部屋を見渡すアランにゆっくりと近づく足音と気配。

「ちゃんと説明してやるから、まだ横になってろ」

 そう言って更に起き上がろうとするアランを制した手は大きく。不意に見上げたその手の持ち主もとても逞しく大きな体躯をしていた。短く刈られた灰茶色の髪と鋭く意志の強そうな同色の瞳。歳はそれなりに重ねてはいるようだが、彼の持つ力強い雰囲気がそれを感じさせなかった。

「しかし、二人ともどこに行ったかと思えば……こんなとこで寝ちまってるとはな」

 ぼんやりと彼を見上げていたアランは、その声に我に返ると彼の言葉に首を傾げた。自分の傍にいるメレイが二人という言葉のうちの一人であるのは理解できたが、もう一人がわからなかったのだ。
 呆けた様子のアランに苦笑いを浮かべて、彼は親指を立てて自身の背後を指差した。その指の動きを追いアランがその先に視線を向けると、自分のいるベッドの隣にもう一つ同じようなベッドが置かれていることに気が付いた。そしてベッド脇に置かれた椅子に人がいることにも、ようやく気が付いた。

「ラ、ラデルさん?」

 暗闇の中で腕組みしたまま椅子に腰掛け、頭を垂れて目を閉じるラデルの姿を認めてアランは驚いたように目を丸くした。

「ずっと心配してたんだ。しょうがないやつらだよホントに」

 二人に視線を投げながら彼は口の端を緩めると少し困ったように、けれど温かく慈愛を含んだ優しい眼差しで二人を見下ろした。そして小さく小言を呟きながらベッドに凭れて眠っていたメレイを抱き上げると、起こさぬようにそっと隣のベッドに横たえた。

「さてとまずは自己紹介だ」

 二人に毛布を掛けて振り返ると、そういって彼はニッと口の端を持ち上げて笑った。

「俺はバーン・ディックだ。本当なら今頃、ラデルから紹介されてるところだったが。各所から依頼を収集して、適材適所で仕事を分配する斡旋業を生業としてる。そして、ここは俺の家だ。……あんた広場の近くで倒れてたんだ。覚えてるか?」

 バーンの問いにアランは首を傾げ少し考え込むような仕草をした。しばらくそうしていると、ぼんやりとした断片的な記憶がアランの脳裏に浮かび、それと同時に急に胸が息苦しくなった。
 突然うまく息を吸い込むことができなくなった身体は混乱し、アランは胸を押さえ何度も深呼吸を繰り返した。

「あんまりたくさん息を吸い込むな、脳みそが混乱する。……あんた、倒れていた時、息をしてなかったんだ」

 深い呼吸を繰り返して蹲ったアランの口をバーンは無理やり片手で塞ぎ、繰り返そうとする呼吸を止めさせた。
 身体を捩り、バーンに押さえ込まれた口許を毛布へ押しつけると、アランは震える身体を更に小さくしてそこに蹲る。そして喘ぐように吐き出された息を何度も吸い込み、大きな手に背を優しく撫でられ、無意識に力を込め強張っていた身体の力を抜いた。

「落ち着いいたか?」

 次第にゆっくりとした呼吸を始めたアランを見下ろしながら、バーンは汗で額に張りついたアランの前髪を指先で解き、小さく頷いた頭をあやすように撫でた。
 いつの間にかすっかり闇に包まれた部屋に漂う静けさは、アランが身じろぎするたびに木製のベッドが軋む音を響かせる。

「覚えているか、相手の顔を」

 いまだ浅い息を何度となく繰り返すアランに目を細めて、バーンは手近の椅子を引きアランの傍で腰掛けた。その動作をアランは黙って視線で追いながら、彼の問いに眉を寄せた。



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